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密蔵院から西北方向にぶらついていると、若宮神社と宝蔵寺が並んで建っていた。 若宮神社は江戸時代初め、船上(フナゲ)村の山王権現を勧請して、氏神にしたという。 社殿には漁舟の絵馬が架かり、境内には大漁祈願碑などがる。 地元漁民の信仰を集めているようだ。 西隣の西蔵寺は、近在では「林の毘沙門さん」の名で知られる。 本尊毘沙門天像や本堂前に植えられている「雌鹿の松」の伝説が残っている。 この他マリア観音の十字架が保存されているそうだ。 明石は、天正13年(1585)切支丹大名高山右近が高槻より転封されてきた。 右近は高槻で寺院を次々と切支丹に改宗させたので、明石の僧たちの動揺は大きく、右近の排斥運動がお こった。 しかし、右近はこれに対し厳しく対処した。 このため宝蔵寺の僧たちは、右近が明石から去る天正15年(1587)まで江井ヶ島に逃れ隠れていた。 空き家となった宝蔵寺は教会にし、熱心に布教したと言われる。 十字架は、切支丹禁止令で右近が追放された後、熱心な切支丹信者によって壁に埋め込まれたものだとい う。 西国街道を歩くため、大観橋の方向に足を向ける。 途中船上(フナゲ)城址があるので寄ってみた。 周囲は新興住宅になっているが、田圃になっている一画があり、その中に高さ3mばかりの小さなこんも りした森が見えた。 これが船上城の本丸跡だそうだ。 行ってみると森の中に古城大明神を祀る祠だけだ。 船上城は戦国時代に(神戸市西区の)玉津の枝吉城を移したもので、天正13年(1585)高槻より転封された切 支丹大名の高山右近が拡張したと言われる。 しかし、初代明石藩小笠原忠真(タダサネ 忠政)が元和5年(1619)明石城を築城、移転してからは船上城は役 割を終え廃城となった。 鳥居の近くの石燈籠には、文化14年(1814)、 寛延(1750頃)の年号が見られる。 大きくはないが船の絵馬が2枚奉納してあった。 「祈願大漁永続」の文字を刻む 山号:海門山 宗派:真言宗大覚寺派 「本尊毘沙門天王」の標柱が建つ 「林の毘沙門さん」と呼ばれてきた。 昭和36年(1961)再建 本尊:毘沙門天(秘仏) 脇侍:吉祥天、膳貳師童子(ゼンニシドウジ) 運慶作と伝えられている。 本尊毘沙門天像(秘仏)は鎌倉様式を留める室町時代初期の仏像で、次のような伝承がある。 室町時代、林崎に藤原太郎左近という人がいた。 応永3年(1396)5月2日夜、夢の中に毘沙門天が現れ、「私は長い間海の中にある。引き上げて祀ってくれ れば末代までいいことがある。と告げた。 あくる夜も、その次の夜も同じお告げがあった。 左近は舟をだして鹿の瀬にさしかかると、海の中が光っているので、覗いてみると1.2m(4尺)ばかりの毘 沙門天像が沈んでいた。 しかし、どうやって引き揚げたらよいのか分からず、家に帰った。 その夜、毘沙門天が現れ、「三又の銛で突けばよい」と告げた。 翌日、左近は銛で突いて仏像を引き揚げ、お堂を建てて安置した。それが宝蔵寺である。 その為、本尊には脇腹に穴が開いている。 俗説によると、次のような後日談がある。 左近が毘沙門天像を安置すると、銛で突いた穴から1日に2,3合(0.35L〜0.54L)の米が出てきた。 左近は喜んで穴を大きくしたら米は一粒も出なくなった。 本堂前に建つ。 碑の隣の松は2代目 初代は隣の若宮神社まで見事な枝を張っていたが、昭和20年の空襲で焼けた。 碑には しきかえる なみにとはばや はりまがた めじかの松の 千世のむかしを と刻む。 むかし、林崎におささという雌鹿がいた。度々浅瀬を伝って小豆島に住む雄鹿と会っていた。 ある日、雌鹿が島から帰ろうとした時、暴風雨になった。 雌鹿は美しい娘に化け、漁船に乗せてもらったが、途中で正体がばれて殺されてしまった。 それ以来、浅瀬を「鹿の瀬」と呼び、鹿の血が「赤石」になった。 村人は、鹿を哀しみ、松を植えて「雌鹿の松」と言った。 境内の東南隅のお堂に安置してあった。 浮き彫の秀作 祠の墓に船上(フナゲ)城址の碑が建っている。 初代明石藩小笠原忠真が元和5年(1619)明石城を築城、移転して廃城となった。 |
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