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吉野の金峯神社から、奥千本を周回する山道を歩いていると(道案内がしっかりしているので方向音痴で も迷うことがなく)15分ほどで西行庵の前に来た。 周囲は、西行も愛でた桜の樹がぎっしり植えられているが、花や葉は出ておらず冬のような景色だった。 ただ、梢を通して降り注ぐ日差しは強かった。 この辺りの標高は約700mで、吉野の麓、下千本からはこの奥千本まで約500mの差があり、それが 桜の開花時期に大きな開きをもたらしている。 西行(俗名佐藤義清 1118〜1190)は俗世から離れ、この地に3年間侘び住まいしたと伝える。 西行が吉野を詠った和歌を新古今和歌集や、山家集の中から少し拾い出してみる。 ○吉野山 桜が枝に 雪散りて 花おそげなる 年にもあるかな (「新古今集」春上 79) ○吉野山 去年の枝折の 道かへて また見ぬ方の 花やたづねむ (「新古今集」春上 86) ○吉野山 梢の花を 見し日より 心は身に そはずなりき (「山家集」 66) ○木のもとに 旅寝すれば 吉野山 花のふすまを 着する春風 (「山家集」 125) ○なにとかく はるになりぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山 (「山家集」 1062) ○吉野山 花の散りにし このもとに とめし心は われを待つらむ (「山家集」 1453) 周回する奥千本の散策路をさらに歩くと、西行庵より5分ほどの処に「苔清水」があった。 西行が歌にし、西行を慕った松尾芭蕉も句にしているこの清水は、今も竹の樋から水がとくとく流れ出て いた。 この後金峯神社に向かって山道を歩く。 時々、四方正面堂跡、安禅寺蔵王堂跡、多宝塔跡、宝搭院跡などを見かけた。 明治初年の廃仏毀釈の嵐の前まで点在していたもので、今はそう言われなければ分からない林となってい た。 金峯神社へ一旦出て、そこから下千本へ通じる尾根道の参詣道を下り始めた。 周辺は西行が愛した桜が多く植えられているが未だ全く花はつけていなかった。 西行(俗名佐藤義清 1118〜1190)は俗世から離れ、この地に3年間侘び住まいしたと伝える。 西行庵の中には西行の木像が一体置かれていた。 苔清水 西行が歌っている苔清水は西行庵より少し下ったところにあった。
今も竹の樋に導かれた清水がとくとくと流れ出ていた。 清水の左右に、西行を慕って貞享元年(1684)と元禄元年(1688)の2度訪れた松尾芭蕉の句碑が立っていた(写真には、右側に建っていた句碑は写っていない)。
大峰山に向かう奥駆道と金峯神社の方に戻る道の分岐点近くにあった。 報恩大師が建立した安禅寺宝塔がこの辺りにあったと言われる。 上千本に下る尾根道脇にあった。 尾根道には垂直の幹の杉の美林が見られた。 明治初の神仏分離で廃絶した牛頭天王社の跡。 松尾芭蕉「野ざらし紀行」より 西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町ばかりわけ入るほど、柴人のかよふみちのみわずかに 有りて、さがしき谷をへだてらる、いとたふとし。 彼」とくとくの清水は昔にかはらずとみえて、いまもとくとくと雫落ける。 露とくとく こころみに浮世 すゝがばせ 若しこれ、扶桑に伯夷あらば、必ず口をすすがん。もし是、許由に告ば、耳をあらはむ。 松尾芭蕉「笈の小文」苔清水 より 春雨の こしたにつたふ 清水哉 吉野の花に三日とどまりて、曙・黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀まるさまなど、心にせまり 胸がみちて、あるは摂政公のながめにうばはれ、西行の枝折にまよひ、かの貞室が「是は是は」と 打ちなぐりたるに、われ言はん言葉もなくて、いたづらに口をとぢたる、いと口おし。 おもひ立たる風流いかめしく侍れども、ここに至りて無興の事なり。 |
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