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・・・三菊という霊剣を玉体に添へ、棺槨を厚くして 御座を直しくし、芳野山の麓、蔵王堂の 民なる林の奥に、塔尾といふ処に円丘を高くつきて、都を望むと仰せられしかばとて、北面に葬し、 埋み奉る (「太平記」巻第二十一 後醍醐天皇崩御の事) (三菊と言う名の霊験を後醍醐天皇の御遺体に添え、内外の棺を厚くして、茣蓙を正して、吉野山の麓、蔵王堂の東北[実際は東南]にあたる林の奥、塔尾と言う地に円丘を高く築いて、天皇がが都を望んでいようとおしゃったから、北向きに埋葬し申し上げた。) 延元4年(1329)崩御された後醍醐天皇の御陵は、本堂の奥の高台にあった。 ひとまず御陵にも参拝した後境内を引き続き回った。 境内には、後醍醐天皇の御自作の像を安置する御霊殿、最後の出陣となる楠木正行らの一族郎党が、出陣 に先立ち如意輪堂に奉納した髻を埋めた塚・正行公埋髻墳 、楠木正行討死の後尼僧になり菩提を弔った弁 内侍の黒髪を埋めた至情塚などがあった。 これらは、長い吉野の戦乱の歴史の中の一コマを見ている様であった。 後醍醐天皇御自作の像を安置 楠木正行および一族郎党が出陣に先立ち如意輪堂に奉納した髻を埋めた処。 後村上天皇に仕えていた女官・弁内侍は、楠木正行討死の後尼僧になり菩提を弔った。 その黒髪を埋めた処。 京を望みながら約4年間吉野で過ごし、延元4年(1329)8月16日崩御された。 天皇の遺言により北向きに造られている。 直径22m、高さ4mの円丘 長慶天皇皇子、後醍醐天皇の曾孫 後醍醐天皇陵の参道の途中にあった。 「太平記」巻第二十三 山名時氏住吉合戦のこと より 京勢雲霞の如く、淀・八幡に着きぬと聞えしかば、楠帯刀正行、舎弟次郎正言三百予騎にて吉野皇居 に参内し、・・・ −(中 略)− ただ、これを最後の参内なりと思ひ定めて出でける心の中こそ哀れなれ。 其の儘一族若党二百余人、先皇の御廟へ参り、今度の軍難儀ならば、一人も生きて帰り参らじと、 各神水を呑んで誓約をなし、如意輪堂の壁に名字を書き連ね、過去帳に入れて、その奥に 帰らじと 兼て思へば あずさ弓 なき数に入 名をぞ留る と一首の歌を書き留め、逆修のためにとて各鬢の髪を少しずつ斬って、仏殿になげ入れ、その日吉野 を打ち出でて敵陣へぞ向ひける。 (京都勢がうんかの湧き出る様に淀・八幡に到着したと伝えられたので楠帯刀正行と弟次郎正言(マサ トキ)は300余騎で吉野の皇居に参内して・・・ ―( 中略)― ただこれが最後の参内になると思い退出したが、その心中は哀れであった。 その足で正行の一族若党200余人は、先の帝・後醍醐天皇の御廟に参拝し、今度の合戦が困難であるの で1人も生きて帰る事はないだろうと、各々神水を飲んで誓い、如意輪堂の壁に順に名字を書き、 過去帳に名を記入して、その奥に「帰らじと 兼て思へば あずさ弓 なきかずに入 名をぞ留る」 と一首の歌を書き留め、死後の追善のために各々の鬢の毛を少しずつ切って仏殿に投げいれ、その日 に吉野を出発し敵陣に向かったのである。) |
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2015年04月09日
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