ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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十朋亭から北に向うと龍福寺が建っていた。

瑞雲山と号する曹洞宗の寺で大内義隆の菩提寺である。

説明板のよれば、もとは山口市白石の地にあったが、天文20年(1551)兵火に罹りそのままになっていたも

のを、弘治3年(1557)毛利元就の長男隆元が、大内館址に大内義隆の菩提寺として、後奈良天皇の綸旨を

受け再興した寺である。

明治14年(1881)火災に遭い、ほとんどの建物を焼失し、その後現況に復興したもの。

境内東南側に発掘調査で見つかった池泉庭園が復元整備されていた。




イメージ 1 龍福寺参道
両側桜並木の100mほどの参道の先には龍福寺の山門が建っている。




イメージ 2 ザビエル布教の井戸 
参道の脇に再現された石造の井枠
天正19年(1550)ザビエルは大内義隆に謁し、布教の許可を得て、大殿大路の傍らで初めてキリスト教の布教をしたと言われている。



イメージ 3 龍福寺山門 
山門を潜り、境内正面に本堂その右に庫裏、左手に資料館が建っていた。
手前(向かって)右手に大内義隆辞世歌碑、左手に大内義隆主従之追善供養塔があった。



イメージ 5 大内義隆辞世歌碑
天文20年(1551)重臣陶晴賢の謀反により大内義隆は大内御殿から長門の大寧寺に逃れた。
この時、大寧寺の住職異雪慶殊和尚の弟子になり、金剛経の経文を引用した辞世を詠んで自刃した。
討つ人も 討たるる人も 諸ともに 如露亦如電応作如是観(ニョロヤクニョデンオウサニョゼンカン)




イメージ 4

                          大内義隆主従之追善供養塔
          平成12年(2000)は大内義隆の450回大遠忌に当たり、それに因んで建立された。
          正面奥の宝篋印塔は長門市大寧寺にある義隆の墓を原寸大に複製したもの。
          左側の十三重塔は義隆に従って戦死した冷泉隆豊などの家臣や公卿の諸聖霊を供養
  



イメージ 6 龍福寺本堂
文明11年(1479)建立と言われている。 重文
桁行、梁間各5間、入母屋造、檜皮葺、正面に蔀戸がある。
旧本堂は明治14年(1881)火災で焼失したので、明治16年(1883)大内氏の氏寺であった吉敷(ヨシキ)郡大内村(現山口市大内御堀)の天台宗の興隆寺から釈迦堂を移築し本堂に改造。
平成17年(2005)から平成23年(2011)に修理保存工事が行われ、建物当初の室町時代の姿に戻された。



イメージ 7 龍福寺庫裏



イメージ 8 龍福寺資料館 
大内義隆公「馬上展望」像、阿弥陀如来像、大内氏歴代当主画像(江戸時代)などが展示してあった。

冒頭でも記したが、龍福寺の地は大内館址であるといわれている。

それゆえ、ここは大内弘世(ヒロヨ)が、正平15年(延文5年 1360)頃、大内御堀(ミホリ)から山口に移り、館を

さだめたところである。

大内氏は弘世以後200余年歴代がここで政務を取り、その領国は防・長・芸・備・石・豊・築の7か国、中

国九州地方まで及び、この為山口は西日本の政治経済の中心地となった。

また、大内氏は海外との交易によって富の蓄積と異文化の移入した。

京の戦乱を避けて公卿・僧侶などの文化人がこの館を訪れた。

このことによって、当時の山口は京都を凌ぐほどの富と文化を誇ったと言われている。

しかし、天文20年(1551)大内義隆は重臣陶晴賢の叛乱により滅亡した。

その後、毛利元就が陶晴賢を滅ぼし、元就の長男隆元が、弘治3年(1557)大内義隆の菩提を弔うため建立

したものだ。

館は、百間四方堀と土塁で囲まれた中に造られていたと言われている。

現在はほとんどその面影を見ることは出来なが、山門の東側竹藪の中に土塁の一部を見ることができる。

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