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日本は当時、檀家制度などによって、禅宗に限らず、仏教界全体が停滞していたともいえる。 そこに中国から清新な風を吹き込んで、日本に一種のカルチャーショックを与えたのが隠元だった。 (五木寛之「百寺巡礼」第8巻山陰・山陽) 友人Hと秋吉台からバスで萩に入った。天気は意外にもよい。 は昨年の同時期に訪れているので案内する形だ。東萩駅前でレンタル自転車を借り、先ず松陰神社などを廻り、ついで毛利氏菩提寺東光寺にきた。 萩のような地方の城下町で見ることが珍しい中国風の寺院であった。 東光寺は山号を護国山と号する、黄檗宗の寺院である。 隠元の孫弟子・慧極(エゴク)道明に帰依した萩藩3代藩主毛利吉就(ヨシナリ)が、松尾村(現下関市松尾)にあった 東光寺を移転する形で、元禄4年(1691)・慧極(エゴク)を開山に迎え建立した。 吉就(ヨシナリ)没後、ここに墓所を毛利氏菩提寺となった。 黄檗三叢と林随一と称えられ、文化年間(1804〜1818)の最盛時には全山塔40塔を数えたと言う。 しかし、明治維新後、総門、三門、大雄宝殿、鐘楼、方丈・庫裏、土蔵だけを残し、他の伽藍はすべて取 り壊された。 伽藍は、中国明代末から清代初にかけての黄檗伽藍様式で、伽藍配置は竜の形を表したものと伝えられて いる。 3間2戸の八脚門、 重文 中央高屋根屋根、左右低屋根段違い本瓦葺 棟の両端に摩迦羅(マカラ)を飾り、黄檗宗特有の形式 中央に元禄6年(1693)の慧極(初代住職)筆の「護国山」の扁額が掲げてある。 門の建立も同じ頃と思われている。 右脇に「不許葷酒入山門」の石票が建つ。 安永3年(1774)年建立 毛利家歴代の供養塔とか 東光寺山門 文化9年(1812)萩10代藩主毛利斉熙(ナリヒロ)が寄進した楼門 重文 左右に上層部に上るための山廊があり、二階には毘廬舎那仏 十八羅漢などを安置 全体の構造の形式は禅宗様 規模が大きく地方寺院の山門として見ごたえがある。 元禄7年(1694)4代藩主毛利吉広(ヨシヒロ)が梵鐘を寄進しているので、その時同時に建立されたと思われる。 重文 黄檗宗特有の一重裳階付入母屋造本瓦葺 大雄宝殿 元禄11年(1698)4代藩主毛利吉広(ヨシヒロ)によって建立。 一重裳階付の仏殿形式 屋根は入母屋造 本瓦葺 棟中央に宝珠、両端に鯱を置いている。 堂内土間は漆喰叩仕上げ、建物中央に格子天井を張るなど、黄檗宗建築の姿を採っているが細部を見ると一般的な唐様の手法が見られる。 大雄宝殿中央に安置されている本尊釈迦如来坐像 左右に脇侍として、迦葉尊者立像、阿難尊者立像 多くの聯や額で荘厳されている。 鬼瓦は棟を整える目的と魔除けとしての意味を持つと言われている。 大雄宝殿には24個もの鬼瓦が各棟に据えられている。 昭和40年(1965)放送されたNHK大河ドラマ「太閤記」(主演:緒方拳)のタイトルバックに使用されたそうだ。 |
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2016年03月22日
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は昨年の同時期に訪れているので案内する形だ。

