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この藩が山口に固執したのは、この町が領内の交通上の要衝にあたるため幕末風雲期における情報入手 や命令伝達につごうがよかったからである。 長州藩が天下に野望をもつとき、萩を不自由とし、山口を固執したといいうことは、これを逆に みれば、徳川初期、毛利氏を萩に閉じ込めようとした当時の幕府の地政感覚がきわめて的確であった ことを証拠だてることにもなる。 (司馬遼太郎「街道をゆく 1」) 洞春寺から南に下って行くと国道9号にぶつかり、西に行くと直ぐに県庁前に来た。 県庁前には、周囲のコンクリート造りの建物の前に、豪壮なな門が建っていた。 近づいてみるとそれは旧山口藩庁門であった。 じっくり見ておきたかったが、湯田温泉行のバスが来たらしく、同行のHが急がせるのでさっと見るだけ だった。 今夜は山口市内の湯田温泉に泊まり、明日天気が悪くなければ、秋吉台に向かう予定だ。
旧山口藩庁門 元治元年(1864)長州13代藩主毛利敬親(タカチカ)は藩政の本拠地を萩から山口に移すため山口政事堂を建設した。 この門は、その政事堂の表門である。 切妻造、本瓦葺の藥医門、主材は欅と松で、木割は豪快でいかにも城門らしい風格を残している。 明治4年(1871)の廃藩置県までは藩庁門として使用され、その後は山口県庁正門として使用された。 新県庁舎(現県政資料館、重文)が完成した大正5年(1916)からは西口の門として利用され現在に至っている。 |
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2016年03月17日
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