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江戸時代からの造り酒屋の末広酒造『嘉永蔵』に寄った。 漆喰壁の蔵や黒板壁の建物からなる酒屋独特の風格ある建物だ。 中に入り、案内をお願いすると、酒造りの工程を説明して下さる。 酒造りの工程の見物が終わると、大広間に通された。 大広間には骨董品が陳列してあったが、欄間や床の間に、松平容保、野口英世、徳川慶喜の書が展示して あった。 ついで併設の高羽哲夫記念館を見物し、お決まりの即売所に回った。 なお、末広クラシックカメラ博物館も併設しているが、有料なのでパスした。 嘉永3年(1850)創業の造り酒屋 江戸時代少量しか買えない客の顔が見えないようにわざと小窓から販売したと言う。 右の仕込み水はボトルに汲んで持ち帰る人が絶えない。 末広に併設 高羽哲夫(大正15年1926〜平成7年1995)カメラマン 山田洋二監督とコンビを組んで「男はつらいよ」シリーズをはじめ数々の作品の撮影に携わった。 映画パンフレット、ポスター、映画脚本、遺品等が展示してあった。 |
陸奥孤旅
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大町四つ角から西に伸びる「七日町通り」を行き、通りに面した漆器店の「白木屋」や、通りから少し南 に入った所にある味噌田楽の「満田屋」を覗く。 いずれも会津特産の土産を選択するにはいいが、同時に風格ある店構えだった。 この他にも、この辺りに蔵造を改造した店舗や風格ある古民家風の店舗を散見した。 なお、白木屋の南向いに「清水屋旅館跡」碑があった。 木造三階建で歴史上の人物が泊まったというこの旅館は昭和の初年に取り壊されたという。 大正2年(1913)竣工 一見石造風ながら土蔵造3階建てルネッサンス式に建てられている。 江戸末期の天保5年(1834)創業の味噌専門店。 味噌蔵を改装した店内で会津の郷土料理「みそ田楽」を囲炉裏を囲んで食べることができる。 近くの解説版によれば、 清水屋には、吉田松陰、土方歳三、 新島襄・八重夫婦、森鴎外 が宿泊したとのこと。 |
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興徳寺に蒲生氏郷の墓を参拝した後、会津若松市のメインストリート神明通りを南に歩いた。 バス停「三の丁」を過ぎた四つ角で、西に折れた所に山鹿素行誕生地、直江兼続屋敷跡というところが あった。 満開の桜の樹の下に説明板と大きな山鹿素行誕生の地碑があるのみであった。 神明通りを更に南へ行く東に鶴ヶ城の堀が見えてきた。 この辺りはかっては上級武士の屋敷町だった様だ。 そして道路脇にと日新館跡碑があった。 更に数百メートル南に、新島八重と山本覚馬生誕地があるらしいがここでホテルに引き返した。 山鹿素行誕生地、直江兼続屋敷跡 山鹿素行誕生地:山鹿素行は元和8年(1622)この地町野左近の邸内で生まれた。9歳の時林羅山の門に入り、儒学、国学、神道、兵学の奥義を窮め、特に兵学において山鹿流の一派を成すに至り、その名声は天下にとどいた。大きな碑と説明板があり、山鹿町という地名にその名残を残している。 直江兼続屋敷跡:慶応3年(1598)越後から会津120万石の城主として入った上杉景勝は、上杉家筆頭家臣である直江兼続の屋敷としてこの地を与えた。説明板のみで碑らしきものはなかった。 大正15年(1926)4月建立、 書は東郷平八郎 藩校日新館建立之恩人須田新九郎頌徳碑(同 右) 日新館は会津藩5代藩主松平容頌(カタノブ)の時、享和3年(1803)に完成した。 寛政10年(1798)家老田中玄宰(ハルナカ)の進言により計画され、会津藩の御用商人(呉服商)須田新九郎が建設費を寄付したものだった。 藩校日新館は文武両道の学校で、上級武士の子は10歳で入学した。 敷地面積は7千坪余、孔子を祀る大成殿を中心に多くの学舎が建ち並び、常時千人もの生徒が学問や武芸を学んだ。 慶応元年(1868、明治元年)戊辰戦争で焼失しこの碑の西側に天文台の一部が残るのみである。 |
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墓そのものは古風が保たれている。 石垣の上に土を盛り、芝をうえてその上に堂々たる五輪塔 がすえられているのである。 五輪には空・風・火・水・地と刻まれており姿もじついいい。 墓のそばに、辞世の歌碑がある。碑の裏をみると、昭和29年12月1日会津史談会之を建つとあって、 氏郷がわすれられていないことがわかってうれしかった。 (司馬遼太郎「街道をゆく ―奥州白河・会津みち―」 市街に眠る人々) 野口英世青春通りの東、市街を南北に突き抜ける「神明通りを東に渡った奥に、興徳寺があった。 興徳寺は、鎌倉時代末の弘安10年(1287)創建された臨済宗の寺院である。 臨済宗の会津における布教の拠点として、京都五山、鎌倉五山に次ぐものとされ大伽藍を誇ったが、戊辰 戦争の兵火で焼け今は昔日の面影はない。 山門外には虚空蔵菩薩堂、おさすり地蔵があり、門内には、本堂であろうか、鉄筋コンクリート造りの堂 宇「瑞雲閣」が建ち、境内奥に蒲生氏郷の墓があった。 墓の周囲はきれいに清掃されており、墓前には生花が供えられていた。 しっかりと守られているのをみて、心安らいだ思いがした。 体の悪いところと同じ部分を摩ると痛みを和らげてくれるという有難い御利益の地蔵・おさすり地蔵が鎌倉時代の頃からあった。 おさすり地蔵は長く厚く信仰されたが、絶えず摩られて最後は姿形が無くなったといわれる。 現地蔵は近年再造されたもの。 山門を入って右手に建っている鉄筋コンクrリート造りの堂宇。 蒲生氏郷廟所 氏郷(ウジサト)は文禄4年(1595)2月7日病没した。享年40歳 没後の翌年子の秀行によって建塔。 当時御霊屋があったが戊辰戦争で焼失した。 蒲生氏郷(ガモウウジサト 1556〜1595)は、近江国日野城主蒲生賢秀の子、織田信長に仕える。 14歳の時、信長の二女(三女?)冬姫の婿となった。後、秀吉に属し、天正18年(1590)会津に入封。 7層(今は5層)の天守、四方石垣の鶴ヶ城を整え、城下町を整備、郷里の森の名を因み、黒川を若松と改めた。漆器産業を植え付け文化興隆にも力を注いだ。 千利休切腹後、利休の次子・小庵を保護し、千家再興の道を開いた。 霊名を『レオ飛騨』と称し、東北における切支丹の先駆けとなった。 氏郷の遺髪を納めて五輪塔。 司馬遼太郎が記しているように、 上から如意宝珠に「空」、半月形に「風」 三角形に「火」、円形に「水」 最下壇の方形に「地」と 五大文字が刻まれている。 「限り有れば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風」 蒲生氏郷 歌意は、人の寿命も桜の花も限りがあり、どうせ散ってしまうのに、心気ぜわしく花を散らす山嵐だ。 |
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「野口英世青春通り」の北端、道路元標のあった「大町四つ角」から北に、会津若松駅前までのびる道が 「大町通り」で、「町方蔵しっくい通り」と愛称が付く通りであった。 途中の西軍墓地辺りまで行ったが、愛称とおり、通り沿いあるはその周辺には蔵作りの民家・店舗が 多くみられた。 慶応4年(明治元年、1868)の会津戊辰戦争では会津藩は悲惨極まったが、西軍もが多くの血を流さねばならなかった。 会津若松付近で戦死した西軍十余藩の兵士174柱の墓 |


