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10月は播州平野の各地で秋祭りが繰り広げられる。 多分先週の土、日がピークだったのではないかと思われる。 10月最後の日曜日である今日は、朝方は雨だったが、昼頃には曇り空ながら雨はあがった。 どこかでお祭がないかと思って、明石から稲美町に向って国道250号を走っていたら、JR魚住駅から 南約1kmの所にある中尾の住吉神社でお祭が行われていた。 境内には出店が多く出ており、近在の人々が群がっていた。 が着いたのは15時頃で、大見地区の布団太鼓が練り回しを終えて、拝殿前から退場し、替わって中尾地区の布団太鼓が拝殿前で練りまわしを行っていた所だった。 この後、白装束の若衆に担がれた神輿が登場し、拝殿前で練りまわしが行われた。 布団太鼓の場合と違うのは、高く持ち上げられ突然落とすことを数回なされたことだ。 それが終わると、清めの塩を撒く人を先頭に、巫女に支えられた猿田彦、旗・弓・矢・長櫃など神器を持っ た人達の行列に続いた神輿はお旅所に向って行った。 この後、西島、西岡地区の布団太鼓が拝殿前で練りまわした後神輿に続いた。 この後のお祭は、お旅所での神事となるがそこまでは見物をしないで帰った。 大見の布団太鼓 中尾の布団太鼓 神 輿 お旅所に向う 西島の布団太鼓 西岡の布団太鼓 |
播磨淡路風土記
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山電「浜の宮駅」の南には、かってはこのあたりに広がっていた美しい松林の名残りを見せる浜の宮公園 がある。 その西隣に名の由来となる「浜の宮天神社」の参道が北に向かって伸び、西北隅に鎮座していた。 延喜元年(901)菅原道真が太宰府左遷の際、当地にて休息し、海上の平穏と万民の幸福を祈願して松を 植えた。 長和元年(1012)菅原道真の徳を追慕して小祠を建てたのが起源とされる。 文安元年(1444)社殿を建立とし、学問の神様として祀った。 この神社の縁起としては以上の様なものらしく、瀬戸内沿いの多くの天満神社の縁起と似かよっている。 そんなこと思いながら、拝殿に向って右前に植えられている「二代目菅公の霊松」を眺めていたら、突然 小学生の「わー」という歓声が流れて来た。 境内の東側はに浜の宮小学校があった。当社のご祭神菅公のご利益があるとよいのだが・・。 県道718号に面し、参道が北にのびる。 周囲はかって広がっていた美しい松林の名残りの松林となっている。 参道途中の両脇の松林の中に、破損した古い石造物の断片が散在していた。 現在の社殿は昭和50年(1975)に再建 拝殿の奥に本殿があり、祭神菅原道真を祀り、 脇殿に大国主命、少彦名命を祀る。 現在は2代目 初代は明治初年に枯れたとのこと。 |
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山陽電鉄「浜の宮」駅で下車し、海側に数百m歩くと、県道718号(旧国道250号、旧浜国道)に出会う。 そこから西に県道を200mほど歩き左(南)に入ると、白旗観音寺があった。 曹洞宗のお寺で、生竹山(ショウチクサン)観音寺というのが正式らしいが、白旗観音寺の方が通りがよい。 また、航海安全を祈願する人々の信仰を集めているという。 平安時代、阿蘇神宮の大宮司・阿蘇友成が叙勲の御礼の為、京に上った。 その途中、この浦に立ち寄り、高砂の松や尾上の松を見物し、出航しようとした。 ところが、如何した訳か船は動かない。 その夜、友成は、夢の中に守り本尊の観音が現われ、海難の多い播磨灘に鎮座して諸人の苦しみを救いた い、と云うお告げを聞いた。 そこで、藤内という信心深い村人に預けると、友成は出航することが出来た。 藤内はこの地に一宇を建て、観音像を安置した。これがこの寺の始まりである。 ある夜、夢に「白布をもって航海の旗印とせよ」とのお告げがあった。 その通りにすると、荒天でも不思議にも風波の難を免れた。 以来高砂の浦人を始め、これを聞いた人々は旗印に白布を使うようになったので、白旗観音寺と呼ぶよう になったと云われている。 門の奥正面に観音堂が建っていたが、扉は堅く閉まっていた。本尊の聖観音菩薩像は秘仏とのこと。 観音堂の北隣りに、鉄筋コンクリート造の本堂が建っている。 内部に入り拝見させていただいた。 欄間の彫刻、格天井の絵が素晴らしかった。 観音堂前には小屋のような絵馬堂があった。 中に入ると、流石に海難除けのお寺らしく、主に船に関わる絵馬が、処狭しと掲げてあった。 しかし、中には、病気全快の御礼のものもあった。 境内の隅には、室町時代のものと思われる「六面石幢」が立っていた。 六面に夫々地蔵が浮彫りされており「六地蔵信仰」を物語っている様だった。 山門前には、向って左側には 「海上波切 白旗聖観世音霊蹟」 向って右には 「播磨西国第二十八番霊場 曹洞宗 生竹山 白旗観音寺」 の寺標が建つ。 山門正面に建つ 本尊聖観世音菩薩像を安置。 秘仏で明治15年(1883)以降開帳されていないという。 安置するのは海難守護の観音様らしく、蟇股には波に魚の模様であった。 播磨西国三十三ヶ所霊場第二十八番札所
本尊阿弥陀如来 鉄筋コンクリート造であるが中に入ると、 欄間の彫刻、格天井の花の絵が素晴らしかった。 本堂天井 花崗岩製、無名のため造立年代は不明だが、室町時代初期のものと推定されているそうだ。 宝珠は後補。 石幢塔身6面に地蔵が浮彫りされている。 帆掛け舟 舵と浮き輪 タンカーそれとも貨物船? 何の呪いか、この絵馬の様に名刺を挟んであるものが多かった。 長患いしていたが、白旗観音様に祈願したところ全快したとある。 |
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加古川市神野の神野小学校の北側に「常光寺」と言うお寺が建っている。 山号は天徳山、臨済宗妙心寺派の寺院である。 この寺は、江戸時代、播磨三十三ヶ所観音霊場を定めた南室禅師が入寂した寺として知られている。 常光寺は、建武3年(1336)足利尊氏が法燈国師より数えて4代目の別峯円光国師を奉じて開山した。 当寺は七堂伽藍を備え大いに栄えたが、その後火災や兵火で衰微した。 慶安元年(1648)赤松氏の後裔である南室禅師を姫路の慶雲寺より招請し、中興開山の祖とした。 この時、山号を「平原山」から「天徳山」に改めたという。 訪れたのは平日の昼頃だった所為であろうか、境内は人気は全くなかった。 「河南禅林」の額が掛っている。 総門より緩いのぼり坂の細い参道を行くと中門に至る。 「天徳山」の額を掲げている。 本尊は十一面観音菩薩像 瓦や方丈前の水盤などに、足利氏と同じ「丸に二の字」の寺紋が見られた。 播磨西国三十三ヶ所観音霊場客番
境内奥の霊園に他の住職の墓と共に建っていた。 境内の裏道の竹やぶの脇に建っていた。 竜山石造の無銘、全高178cm、水輪径60cm 南北朝時代のものと推定されるそうだ。 各輪四面に夫々梵字種子を刻んでおり 赤松義村の墓とも言われている。 |
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加古川バイパス・加古川ランプの北に横蔵寺(オウゾウジ)がある。 山号は道林山と号する曹洞宗の寺で、観音様の霊験で離れ離れの運慶・湛慶父子が出合った寺である。 縁起によると、運慶が妻子を九州宮崎に残して老父母の身を案じて奥州へ帰った。 両親を見送ると、残した妻子が気にかかり、日々心を痛めていた。 信仰する観音様に祈願すると、ある夜我が左身を造り西へ行け、とのお告げがあった。 一方息子の湛慶も父恋しの一念で祈願すると、我が右身を彫って東へ行け、とのお告げがあった。 二人は播州加古川の野口村にさしかかったところで出会い、互いに身の上を語り合うと親子であることが 分り、御仏の半身を取り出して合わせると、さながら一刀で刻んだ様な尊像となったという。 このため、親子兄弟、親族に行方不明の人がいる時、観音の霊験を願って参詣する人が多いそうだ。 因みに、本堂はコンクリート製で、本尊は釈迦牟尼。 静かな禅宗のお寺らしい落ち着きある佇まいだ。 右手前のお堂は「いぼ取り地蔵堂」 いぼ取りに霊験あるそうだ。 山門の彫刻 比較的新しいが、門扉の彫刻は豪華で素晴らしい。
観音堂
本尊の十一面観音像は秘仏で25年目ごとに開扉されるとのこと。覗くと、お前立ちが眼に入った。 播磨国三十三ヶ所観音霊場29番札所
観音堂の前の燈籠には元禄16年の銘があった。 境内に安置されていた石像 観音像の半身を互いに持ち、未だ見ぬ父と子が一目会いたくて旅に出た運慶と湛慶。 偶然出会って互いに半身像を合わせたところ、見事に一体の千手観音像となった。 境内にある井戸の横の水盤は、くり貫き石棺を利用したもの 紅葉が少し始まった庭は、こじんまりとした、落ち着いた庭である。 |
が着いたのは15時頃で、大見地区の布団太鼓が練り回しを終えて、拝殿前から退場し、替わって中尾地

