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再び上の丸公園に戻った。近くにある金物資料館を覗いておこうと思ったのだ。 三木市は伝統産業として金物の生産が盛んな所だ。 その金物に関する資料を揃えた施設として昭和51年(1976)開館したものだ。 校倉造り風の建物の金物資料館に向かって左横に、天目一個命(アメノマヒトツノミコト 鍛冶の祖神)、金山毘古命 (カナヤマヒコノミコト 鉄鋼の祖神)、伊斯許理度売命(イシコリドメノミコト 鋳物の祖神)の3柱を祀る金物神社が鎮座し ていた。 金物神社は昭和10年81935)三木金物販売同業組合の呼びかけで創立されたもので、毎年11月第一土曜日に はふいご祭が行われる。 金物神社に通じる金物資料館前には鳥居が建っていた。 境内に入ると、金物資料館前には大正時代から親しまれてきた唱歌「村のかじや」の記念碑があり、人が 近づくとそのメロディーが流れ、懐古の情をそそる様になっていた。 鳥居の正面に金物資料館が建っている。 毎月第一日曜日にふいごを使い古式ゆかしく金物を鍛える古式鍛錬の実演が行われている。 碑の正面には文部省唱歌「村のかじや」 の楽譜が彫られている。
資料館の展示物 材料、道具、製作工程、製品などを分りやすく説明すると共に、実物を展示をしていた。 |
播磨淡路風土記
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三木城本丸跡の上の丸公園から南に数分歩いた所に雲龍寺があった。 三木城二ノ丸に続く高台にあり、ここも城内の一角だったと考えられる場所だ。 山門の左右は白壁の塀建が続き、山門前には、向かって左には「三木釜山城主 別所則治公中興開基雲龍 寺」、右には「村上天皇勅願所 後醍醐天皇御下賜高源山」と刻まれた寺標が建つ。 山門をくぐると正面に本堂が建ち、右手に庫裡が並ぶ。 雲龍寺は、村上天皇勅命により天徳2年(956)慈恵僧正の創建と伝えられる曹洞宗の寺院である。 その後、久しく廃絶したが、14世紀前期播磨の守護赤松円心入道則治が再建し、後醍醐天皇より「高源 山」の山号を賜った。 文明年間(1469〜1487)時の城主別所加賀守就治が異忠禅師を招いて再建し、その時規模を一新して禅寺と して開山した。 しかし、天正6年(1578)三木合戦で焼失した。 その後三木城主になった杉原伯耆守が再建し、天正13年(1585)秀吉から境内山林並びに30石の寄進状 並びに制札を受け、以後江戸時代になっても徳川将軍家から朱印状が出され、明治時代までは公的性格が 強く檀家もなかったという。 寺域の外れに別所長治の首塚があり、毎年1月17日別所長治の命日には、秀吉の2年近い兵糧攻めで、城内 では壁土の中の藁を食べたと言う言い伝えにより藁を見立てたうどんを食べて当時を偲ぶ会が催されてい るそうだ。 正面に建つのが本堂 別所長治、照子夫人首塚 三木城開城にあたって、別所長治及び一族は城兵と領民の助命の為天正8年(1580)1月17日自刃した。 その後、長治の首級は安土の織田信長のもとに送られた。 それを雲龍寺の住職春泰和尚が貰い受けて埋葬したもの。 昭和17年(1942)改修、昭和48年(1973)照子夫人の霊を合祀し、玉垣を築いた。 因みに、長治の遺体は法界寺に埋葬されたと伝えられる。 |
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昨日気象庁は、近畿地方では、四国、中国、東海地方と共に梅雨明けしたと見られると「梅雨明け宣言」 出したが、今朝は雲が多い空だ。 神戸電鉄粟生線「三木三の丸」で下車し、徒歩数分の所に、三木城祉があった。 戦国時代の三木城は上の丸公園となっている本丸、図書館や美術館のある二の丸、新城、市役所周辺の鷹 ノ尾城、雲龍寺周辺が城域と考えられている。 上の丸公園には城跡としてかんかん井戸が残るだけで、後は近年建てられた別所長治公像とか、長治公辞 世の碑や一族辞世の碑がたつのみであった。 三木城は室町時代の15世紀後半東播磨守護代となった別所則治によって明応年間(1492〜1501)に築かれ、 以後別所氏の居城となった。 天文7,8年(1538,39)山陰の戦国大名尼子晴久に、天文23年(1544)三好長逸や三田の有馬氏に攻められた が落城を免れている。 5代城主別所長治の時、天正6年(1578)天下統一を目指す織田信長の家臣羽柴秀吉の軍に包囲された。 秀吉は三木城を取り囲むように、30あまりの付城を築き兵糧攻めにした。 籠城は2年近くに及び、天正8年(1580)1月17日城主一族は城兵と領民を救うため、自刃して三木城を開城 した。 この戦は「三木合戦」と言われ、籠城の悲惨さから「三木の干殺し」として有名である。 その悲惨な様は「播州太平記」や「武功夜話」等に記されている(本稿末に記載)。 この後は、秀吉の家臣・杉原氏、中川氏などが在城した。 慶長5年(1600)の関原合戦後は、池田輝政が姫路城の城主となり、その支城となった。 元和2年(1616)小笠原忠真を領主とする明石藩に編入されたが、元和3年(1617)幕府の一国一城令により 廃城となった。この時の資材は明石城の建築部材になったと言われている。 三木ライオンズクラブが結成40周年記念として建立。 昭和17年(1942)建立 今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちかはる 我が身と思へど 長治が自刃した時は23歳 本丸跡に残る唯一の井戸 石を投げ込むと「カンカン」と音がすることからこう呼ばれている。 柵と網がしてあり近づけなかった。 説明板によれば、口径3.6m 深さ約25m 稲荷神社 公園の一角に稲荷神社があった。木々で薄暗いその裏手には塗料のはげた鉄製の鳥居と石造碑が沢山建っていた。 三木の干殺し 黒部亨:「戦国の武将たち」(神戸新聞総合出版センター) ●城内は飢人ばかりにて 堀の影、或は楯のはざまに打ち臥して夕の露をなめ、壁をこぼち、松柏の皮を喰ひ、飢を凌ぎ悲しみの涙目にさえぎり哀れなりける有様なり。 かかりける所に、鬨の声を揚げ狼煙をを揚げ攻寄けれども、かかる体たらくなれば鎧を着る力もなし (「播州太平記」) ●城中の士卒幽鬼の様体に候なり。 木の皮を食し、ために城中に青草なし。 顔色を窺うに肉落ち声衰え、問うとも答えるところなし。 身に襤褸(ランル ぼろぼろになった衣類)をまとい、具足袖はちぎれ、草摺は破れて、あるは胴のみ着し杖をたよりに蹌踉(ソウロウ 足元がよろよろしている様)、或いは困臥する者あり。これも武者の果てなるなり。 意地なく了簡もなく、三々五々連れたち落ち行き候なし。 あわれいう事なし。 (「武功夜話」) |
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梅雨時のどんよりした天気の日、JR山陽線「土山」から北上した。 ここら辺りは神戸市や明石市の西隣の稲美町で、印南(イナミ)という字が当てられた地域だ。 この時万葉集にある畝傍山をめぐり、香久山と耳成山の争ったという、中大兄皇子の長歌の反歌を、 ふと思い出した。
香具山と耳成山とが争った時、(出雲の国の阿菩の大神が、争いを止めようと)立ち上がって見に来た印南 国原よ、と云う意味だが、この反歌の舞台がここかと思って周囲を見渡すと、田園と人家が入り混じり、 やたら溜池の多い平坦な地域である。 その溜池の一つ・辰巳池の北側に古刹らしき寺が見えたので寄ってみた。 寺は、野寺山高薗寺(コウオンジ)といい、真言宗の寺院で、播磨西国24番霊場、郡西国三十三番霊場でもあ り、地元では「野寺の観音さん」と親しまれている。 開基は、白雉年間(650〜655)、播磨を中心に諸寺に足跡を残した法道仙人という古刹だ。 この地に飛錫した法道仙人は霊夢を感得し千手千眼観音菩薩像を刻み安置したという。 その後弘仁年間(810〜824)に弘法大師が脇侍を安置した。 南北朝時代には、中興の祖如林上人が近くの法雲寺と合併して、山号を「野寺山」と改め、堂宇を整え 大いに隆盛し、更に赤松氏の加護を得て金堂など32坊が軒を連ねたと言われる。 しかし、天正6年(1578)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の三木攻めで焼失、 江戸時代になり、姫路城主池田輝政が復興に支援し御朱印寺となった。 現在は本堂(観音堂)、薬師堂、鐘楼堂、庫裡が残っている。 西側の雑木林の中には、四国八十八ヶ所霊場、西国三十三所霊場が造られていた。 訪れた時は全く人気が無い寺域であったが、暫くすると、近くの保育園から先生に引率された園児が遊び に来て賑やかだった。 本堂西隣に建つ十三層之塔は昭和58年(1983)建立 本尊千手千眼観世音菩薩
ここで毎年2月9、10日に行われる鬼追会は、鎌倉時代から続く。 仏の化身である赤鬼(毘沙門天)と青鬼(不動明王)が回廊を太鼓と法螺の音にあわせ、燃え盛る松明を振りかざして天下泰平五穀豊穣を祈り豪快躍に踊り、要所で松明を投げつける。 それを見物人が争って拾い、家の玄関に掲げると魔除になるといわれている。 四国八十八ヶ所霊場 文化6年(1809)勧請創祀 最近では昭和57年(1982)再建の石祠が多い 必ず石祠の中には本尊と弘法大師の石仏が安置してあった。 西国三十三ヶ所霊場 青石という自然石を立てて、そこに観音像をはめ込んだもの |
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法道仙人が創建したと伝えられる伽那院(ガヤイン)は、中世以降、京都聖護院末の修験寺院として記録に 現われる。 江戸時代には天台系山伏を統率する五院家の一つとして修験界に威をふるった。 今日でも、体育の日には近畿各地から山伏姿の修験者200余名が参集し、近畿地区最大規模を誇る採燈 大護摩が守り続けられているとのこと。 ところで、開基と伝えられる法道仙人とは、一体何者だろうか? (神戸市)、如意寺(神戸市)、西国番外札所の花山院菩提寺(三田市)など 播磨を中心に摂津、丹波などに110以上の寺に係わっていると言われる。 しかも、ほとんどが7世紀中頃に集中している。 そして、法道仙人は、唐、新羅経由して渡来した天竺の僧であるとか、飛行自在とか、無量歳であると か、飛鉢を使って供物を集めたとか、供物を拒否したら米俵を巻き上げたとか・・・、と言った伝説が伝 わる。 以上から想像されることは、「法道仙人開基などと伝えられる寺院の開創は、実際は、民衆を引きつけた 名も無い草莽の修験者達や聖達の手によるものだったに違いない」と云うことである。 彼らは、丁度役行者あるいは弘法大師や行基菩薩の名を出して権威・箔をつける様に、当地方では人気の あるスパースターとして語り継げられている法道仙人に仮託したのだろう。 明暦2年(1656)京極高供の寄進により建立 開山の法道仙人を祀る。 堂内部の壁画は極彩色の飛天を描き、長押天井廻り及び須弥壇上の宮殿には何れも入念な彩色文様を施し、山内で最も華麗な堂である。 下の世話にならずに長寿で往生した二人のおばあちゃんを偲んで造られたという。 毎年体育の日に、200余人の天台系山伏が参集して、採燈大護摩執り行われ、前作法として山伏問答や剣の作法等が行われる。 採燈大護摩は、不動明王の智火で煩悩を焼き尽くそうとする儀式。 生檜葉を方形に積み上げ、読経と共に点火する。 行者堂 寛永7年(1631)土佐藩の山内忠義の寄進により建立。 役行者を安置し、何の飾りも無い籠もり堂としての性格を保っている。 役行者像は厨子に入っているのか一見したところ見当たらなかった。 山裾一体の林が水子供養のための賽の河原になっていた。 昼なお暗い林の谷間におびただしい数の地蔵が安置され異様な景観をなしている。 |



