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かって隆盛を誇った伽那院(ガヤイン)は、天正年間(1578年頃)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の三木城攻めの兵 火、及び慶長14年(1609)の大火により、全山焼失した。 緑豊な境内に建つ現在の諸堂はその後の建立によるものである。 この内、本堂、多宝塔、鎮守社(三坂明神本殿)が江戸初期の地方の建築様式を伝えるものとして、 重文の指定されている。 昭和56年(1981)から昭和60年1985)にかけてこれら本堂、多宝塔などを解体修理された。 多宝塔の近くに石臼を基礎にした小さな社があった。臼稲荷といい、干害に悩まされてきた当地方で、き っと水争いも頻繁にあっただろうが、その結果水の配分の智慧を伝えるものであった。 伝慶長15年(1610)建立 重文 三間社流造 杮葺き 当山の鎮守・三坂大明神を祀る 正保4年(1647) 重文 小倉城主小笠原忠真の寄進 阿弥陀菩薩を安置 相輪は昭和60年(1985)復元 多宝塔の股蟇は彩色されている。 田に水を溜めるため、水の出口に石臼を使っていた当地方で、ある旱魃の年、下流域の農民が水不足で悩んでいたところ、白衣の老人となった狐が村中の田の石臼を全て取り除き水を均等に配分した。 これを恥じた村人が石臼を此処に奉納し稲荷社の礎石にした 社前の紅葉の根元の幹が、どういう訳か石臼を銜えこんでいた。 社前の紅葉を含め境内の紅葉は、竹とんぼの様な羽根を付けた実をつけていた。 まるで花の様であった。 秋には紅葉が美しいに違いない。 |
播磨淡路風土記
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凡そ1400年前、天竺から飛来したといわれる法道仙人が、加古川を上るにつれ、川面に梵字が金色に光っ て揺れ動き始めた。 不思議に思い、導かれるまま遡行していくと、きらきらと光輝く滝つぼがあり、その底から毘沙門天の像 が出てきた。 この像を安置する為、大化元年(645)法道仙人は、孝徳天皇の勅を得て、寺を建立した、と伝える。 古くは、大谷山大ケイ寺東一坊といい、元和元年(1681)後西上皇の勅により伽那院(ガヤイン)と改称した。 平安中期には堂宇数十、坊塔130余と記され、花山上皇が行幸して大乗経を五部奉納したと伝えられるな ど隆盛を極めた。 しかし、天正年間(1578年頃)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の三木城攻めの兵火、及び慶長14年(1609)の大火 により、全山焼失し、現在の諸堂はその後の建立によるものである。 この内、本堂、多宝塔、鎮守社が重文の指定されている。 慶安4年(1651)建立 屋根及び軒廻りは後世の修理の際に改変されているが、それ以外は当初の形式を残している。 持国天、多聞天を安置する。 入山料は、一人につき「草引き 10本」 早速草引きをさせて頂いた。 本堂近くの池 12月中〜2月中頃池の水面が金色に輝く。 寺では「毘沙門さんの黄金水」と呼んでいるそうだ。 これ以外は、ただの濁った水である。 神戸新聞文化部編の「杜を訪ねてーひょうごの神社とお寺[上]」によれば、 昭和61年(1986)2月に朝日に照らされて金色に輝いたそうで、その時の調査で、金色に輝くのは「ひかり藻」によるものと判明した。 慶長15年(1610)建立と伝えられるが正保3年(1646)でないか、と言われている。重文 内陣と外陣を格子戸と欄間で分けた典型的な密教寺院建築 内陣に安置されている本尊・毘沙門天に学業、福徳の成就を願い、 あるいは愛染明王に縁結びを求めての参拝者が多いとか。 外陣の天井には燕が巣を作って子育てをしていた。 燕の糞に注意しながらも、何故か心休まる気分だった。 安置されているのは平安末期の優作・本尊・毘沙門天(重文)や愛染明王。 厨子に安置されているのか、格子戸から覗いた限りでは拝見できなかった。 おにゃんこみくじ 外陣には種々の参拝グッズが販売されていた。 その中に猫の形の容器にお御籤が入っている「おにゃんこみくじ」がある。 |
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長閑な田園風景が続く三木市郊外を、鶯の鳴き声を聞きながらぶらりぶらり歩く。 今時分は急ぎ足にすると直ぐに汗ばんでしまう。 山陽自動車道「三木東IC」出入り口から県道85号を北に500mほどすすむと「大谷口」の標識があり、 そこを右折する(即ち東に入る)。 志染川の支流・大谷側に沿って900mほど歩くと、突如として仁王門が現れた。 これが目指す所の「伽那院(ガヤイン)」の仁王門で、道の真ん中にポツンと建っている感じだ。 更に100mほど進むと伽那院の境内や建物があったので、昔の寺域が後退し、 仁王門だけが取り残されたのだろう。 仁王門の左右に安置されているのは、天正年間羽柴秀吉の三木攻めの際、頭部と脚部を焼失したという 無残なお姿の仁王様。 三木周辺の社寺のほとんどが、秀吉の三木攻めの際、兵火に遭い焼失している。 伽那院(ガヤイン)も例外ではなかったようだ。 大正時代の再建 華頭窓だけは前の建物の遺物 無残な姿の仁王像 左右に安置されているのは行基の作と伝えられる金剛力士像。 天正年間(1578年頃)羽柴秀吉(豊臣秀吉)の三木攻めに際して頭部と脚部が焼失したという。 山号は「大谷山」、本山修験宗の寺院で、「山伏の寺」で知られる。 総門近くの駐車場の端、大谷川岸に立つと、対岸の崖に見られる。 柱状節理と呼ばれる神戸層の特異な露岩である。 垂直に断層が走り、その左右で約1mの食い違いがはっきりと見とれる。 |
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山陽自動車道「三木東IC」入口辺りの西側山裾に「千体地蔵」があった。 周囲は全くの田園風景が広がり、平日の真昼中とあってか、人影は全く無い。 小さなお堂の廻りに小さな石仏ーお地蔵様ーが多数置かれている。 中央のお堂の中には高さ1mほどの地蔵像が安置されていた。 天平時代、行基が悪病退散を祈願して彫ったという伝承があるらしいが、確かなことは不明。 古くから子安地蔵として信仰されていて、奉納された地蔵像が多数になって「千体地蔵」と呼ばれる ようになった。 今でも信仰を集めており、8月24日の地蔵盆には参詣者が多いとのこと。 奉納された石仏 単に置かれているのでなく、岩肌を穿って、貼り付ける様な感じで石仏を安置してある。 石仏の中には、石仏とは思えぬほど風化しているものもある。 昭和54年(1979)建立 |
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GW直前に Iさんから、三木市志染町窟屋にある「志染の石室」の「金水」が見ごろになっている、 との知らせを受けた。 6月中頃までは見られると言うことだったので、昨日行って来た。 広大な三木総合防災公園の北端で、県道85号「奥田橋東詰」から東南に200mほど入った谷にあった。 「志染の石室」と呼ばれる洞窟の中は湧き水をたたえ、表面が黄金色の縞模様が広がっていた。 これがIさんの言うところの「(窟屋の)金水」だ。 微細藻類の「ひかり藻」が繁殖し水面に浮き上がると、差し込んだ光を反射して黄金色に見えるのだ。 一時現れなくなっていたが、平成14年(2002)に約40年ぶりに出現して以来、毎年出現しているとのこと。 さらに、今年は特に美しいとのことだった。 志染の石室は、「日本書紀」や「播磨国風土記」によると、第20代安康天皇が崩御した後、皇位をめぐる 争いが起こり、第21代雄略天皇に斬殺された市辺押磐皇子(イチベノオシワカノミコ)の二人の王子、億計(オケ)と弘計 (ヲケ)の兄弟が隠れ住んだ場所と伝える。 後に弟の弘計(ヲケ)が第23代顕宗天皇、兄の億計(オケ)が第24代仁賢天皇になったという。 また、こういうところは信仰の場所となるらしく、整然と並んだ石仏とお堂が側に建っていた。 石室とは反対側には 石組みされ、庭園風になっていた。 三木総合防災公園の整備・開発に合わせ、平成17年(2005)「志染の石室」、「窟屋の金水」を整備したと のこと。 大概こうした施設は整備したのは良いが、後はほったらかしというと言う所が多い。 しかし、ここはゴミや目立つような雑草が見当たらず、日頃、多分地元の方と思うが、こまめにお世話し ていただいていることを実感する。 この辺りを散策した時、ここで一服するのに丁度良さそうだ。 鬱蒼とした木々の道を下ると「志染の石室」と呼ばれる洞窟がある。 志染の石室 高さ2.7m、幅14.5m、奥行き7.2mの洞窟で、中は水をたたえている。 窟屋の金水 山中の池や洞窟の中の水溜りに発生する淡水産の単細胞藻類「ひかり藻」が大量発生し、水面に浮かぶと 葉緑素やカロチノイドという成分が光に反射して黄金色にする。 郡西国30番 本尊は十一面観音 |


