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12日の昼過ぎ、明石公園内の剛ノ池に行った。
剛ノ池周囲の桜(ほとんどがソメイヨシノ)は満開だった。
園内の人出は、平日であるにも拘らず、予想以上に多く、一瞬日曜日かと思ってし
まう程であった。
池の周りの散策路には、花を観賞しながら逍遥する人々、池畔の桜の下では
長閑な陽射しを浴びて花を愛でている人々、池には白鳥船がいくつか浮かび、
池の中から周囲の桜を楽しむ人々、と今は盛りの花を夫々楽しんでいた。
池の畔で日本テレビ系列(NNN・NNS)の24時間TVのエンディングテーマソング「サライ」を気持ちよく歌った。
遠い夢 捨てきれずに 故郷を 捨てた
穏やかな 春の陽射しが 揺れる小さな駅舎(エキ)
別離(ワカレ)より 悲しみより 憧憬(アコガレ)は 強く
寂しさと 背中合わせの 一人だけの旅たち
動き始めた 汽車の窓辺を
流れてゆく 景色だけを じっと見ていた
サクラ吹雪の サライの空は
哀しいほど 碧くすんで 胸が震えた
恋をして 恋に破れ 眠れずに 過ごす
アパートの 窓ガラス越し 見てた夜空の星
この街で 夢追うなら もう少し 強く
ならなけりゃ 時の流れに 負けてしまいそうで
動き始めた 朝の街角
人の群れに 埋もれながら 空を見上げた
サクラ吹雪の サライの空は
流れてゆく 白い雲に 胸が震えた
離れれば 離れるほど なおさらに つのる
この想い 忘れられずに 開く古いアルバム
若い日の 父と母に 包まれて 過ぎた
柔らかな 日々の暮らしを なぞりながら生きる
まぶた閉じれば 浮かぶ景色が
迷いながら いつ帰る 愛の故郷
サクラ吹雪の サライの空へ
いつか帰る その時まで 夢は捨てない
まぶた閉じれば 浮かぶ景色が
迷いながら いつ帰る 愛の故郷
サクラ吹雪の サライの空へ
いつか帰る いつか帰る きっと帰るから |
播磨淡路風土記
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太子町鵤(イカルガ)にある斑鳩寺は聖徳太子創建の古刹であるが、天文10年(1541)の火災で全焼した為、現 在見る堂宇は16世紀以降に建立または再建されたものである。 には三重塔が配されていた。 他に、仁王門直ぐ近くにに宝形造の弥勒堂、三重塔近くに袴腰付の鐘楼が建ち、境内の北には庫裡、客 殿、宝物殿が並んでいた。 は法隆寺の管長が来られるということで、客殿では歓迎の茶会が開かれていた。 そこへ が顔を出したので、是非上がっていけと声を掛けていただき、それに甘えて、美しいご婦人方に混じってお薄を頂いた。 なお、お願いして開けていただいた宝物殿には、聖徳太子勝鬘経御講讃図、木造十二神将像、日光・月光 菩薩像など、重文の絵画・仏像などが展示されており、一見の価値があった。 もと聖徳太子を祀っていた太子堂 天文20年(1551)復興、その後寛文5年(1615)再建 明治末から大正にかけて、西側に中殿、後殿が増築された。 明治43年(1910)〜大正3年(1914)にかけて聖徳殿前殿の西側に中殿と八角堂の後殿を増築し、聖徳太子十六歳孝養像を祀っている。
弥勒堂
弥勒堂は宝形造、中央に弥勒菩薩坐像、向左に延命地蔵菩薩立像、向右には不動明王立像が安置してあった。天正3年(1575)以後に赤松広英により再興、 鐘楼は元禄6年(1693)に再鋳され、 この時、鐘楼の基礎、柱を取替えなどの修理が行われた。 慶安2年(1649)建立 元斑鳩寺塔頭の浄土坊、古くは保性院。 唐破風の玄関を持つ。 斑鳩寺再建に功のあった赤松政秀、広英の供養塔 左右の人に支えていただかなければ持てない様な大きな茶碗でお薄を頂く。 は写っていない、念のため。 |
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(推古天皇 十四年)秋七月に、天皇、皇太子に請せて、勝鬘経を講ぜしめたまふ。 三日に説きをへつ。 この歳に、皇太子、亦法華経を岡本宮に講じたまふ。 天皇、おほきに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子におくりままふ。 因りて、斑鳩寺に納れたまふ。 (「日本書紀」巻第二十二 推古天皇 十四年の条) 大阪府の東、奈良県との境に聖徳太子ゆかりの「太子町」があるが、兵庫県にも同じ地名の「太子町」が あり、その地名から想像されるようにここも聖徳太子ゆかりの地である。 JR山陽本線「網干」駅を下車する。ここはまだ姫路市であるが、北に向かうと、ほどなくして太子町に入 る。その中心部に斑鳩寺がある。斑鳩寺は、播磨国では、鶴林寺と並ぶ太子ゆかりの寺である。 お寺で頂いたパンフレットによれば、推古天皇14年(606)聖徳太子が飛鳥の豊浦宮(今の橘寺)において、 推古天皇の御前にで勝鬘経を講説したところ、大変喜ばれ播磨国揖保郡の水田を聖徳太子に寄進された。 聖徳太子はその地を「斑鳩荘」と名付け、一つの伽藍を建てた。それが斑鳩寺の始まりである。 その後、斑鳩荘を法隆寺に施入されたことにより、法隆寺の荘園として千年近く栄えた。 往古には七堂伽藍、数十の坊院が甍を並べ、華麗を極めた。 しかし、天文10年(1541)尼子政久の播磨侵入後の混乱中堂塔尽く焼失した。 その後、当山中興昌仙法師等により、漸次再建され、現在の伽藍になった。 以上の訳で、当寺は太子創建から一千余年間大和法隆寺の支院であったが、再建後は天台宗となっている そうである。 門の両袖には仁王像が安置されている。 仁王像 仁王像の周りには多数の草鞋が奉納されていた。 講 堂 仁王門をくぐると正面に建つ建物。 明和6年(1765)再建 重文 内陣と外陣は格子で仕切られていた。 本尊は釈迦如来(中央)、観世音菩薩(向左)、薬師如来(向右)、いづれも丈六の巨大な坐像である。 鳥仏師一刀三礼の作と伝え、重文ある。 秘仏で2月22日、23日開帳 新西国霊場第32番、西国薬師霊場第23番 格子から内陣を除くと、秘仏の代わりであろうか?丈六とは程遠い小さな像の如意輪観世音菩薩、薬師如来が安置してあり、中央にある筈の釈迦如来のお姿は見えなかった。 外陣にポツンと置かれていた。 賓頭盧尊者、正しくは賓頭盧頗羅堕(ビンヅルハラダ)といい、お釈迦様の弟子の一人であるが禁止されていた神通力を使った(一説には酒を飲んだ)為破門同然になったので堂内に入れず、堂の外に祀ってある。 神通力に長じているところから自分の身体の悪い所と「賓頭盧さん」の同じ箇所の両方をさすることによって病気がよくなると云われている。 三重塔 仁王門をくぐると境内の左側に建つ。高さ25m 重文 赤松左兵衛尉政秀により永禄8年(1565)再建、昭和25年(1950)から昭和27年(1952)解体修理 輪柱に太子伝来の仏舎利が納めてある。 |
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明石駅南口に樹木にLEDを取り付けて飾っていた。
これは殊更珍しいものではない。
ただ、駅の庇近くに、天井の様な感じでイルミネーションしていた。
規模はそれほどでもないが、まるで星空を見る感じで素敵だった。
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西明石駅在来線東改札口の北口と南口にイルミネーション・オブジェが車窓から少
し見えたので、わざわざ下車して写真に収めた。
北口の白い洋館のオブジェ
南口のツリーのオブジェ |
が訪れた時


