ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

播磨淡路風土記

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

宝珠山中腹にある観音堂に参拝し、坂越の裏道、宝珠山の麓を通って、坂越駅に向う。

スムーズに歩いたのではなく、行きつ戻りつしながら、時には犬に吠え立てられながら、田舎道の散策を

楽しんだ。

こうした中にも興味を惹いたものがあったのでここに取上げておく。


イメージ 1

                        妙見寺観音堂
大避神社の境内を抜け、宝珠山を少し登っていくと山の中腹に建っていた。
真言宗古儀派の寺院であり、天平勝宝年間(749〜757)に行基が開山し、後に、大同元年(806)空海が中興したと伝えられる。
かっては宝珠山の中腹にかけて16坊5庵を有していたが、文明17年(1485)の僧兵の一揆により焼失した。
観音堂は萬治2年(1659)建立され、現在の堂は享保7年(1772)再建されたもの。


イメージ 2 児島高徳朝臣の墓
妙見寺観音堂から降りてくる途中に建つ。
児島高徳は、南北朝内乱期、新田義貞と共に足利尊氏と戦った南朝の忠臣。
元弘の変(1333)に敗れ隠岐に流される途中の後醍醐天皇に院庄(現 岡山県津山市)で厳重な警護をくぐり柳の木に次の十字の詩を刻み、天皇を励ましたことで知られる。
天莫空勾践 時非無范蠡(天、勾践を空しゅうする莫れ 時に范蠡無きしも非ず)」(「太平記」巻第4)
その意は、「天は中国春秋時代の呉に敗れた越王勾践の時の様に帝を見捨てないでしょう。必ずや范蠡の様な忠臣が現われることでしょう」である。




イメージ 3 小倉御前の墓
旧坂越浦会所の近くに建っている五輪塔
南北朝時代、南朝の後亀山天皇の皇子・小倉宮が坂越に隠れ住み、後に海に身を投じたといわれる。


イメージ 4 鳥井の地蔵堂
大道の一筋離れた細い裏道に建っていた。
坂越が廻船の港として栄えた頃に建てられた。
回りに取り付けられた彫刻はその頃の優れた芸術品
海側にはかぼちゃ、山側には二股大根、大根の彫刻には小さな鼠が彫り込まれている。
どちらも縁起の良い図柄

坂越浦沿いの道から少し入ったところに大避神社(オオサケジンジャ)が鎮座していた。

この神社は秦河勝(ハタノカワkツ)を祀る。

秦河勝は聖徳太子の死後、蘇我入鹿の乱を避け、坂越にたどり着き、千種川流域の開拓に尽くした。

秦河勝の墓といわれる円墳が、大避神社正面の沖の生島(イキシマ)にある。

神社を巡っていて、拝殿隣の絵馬堂に古い絵馬に混じって、旧宮内省楽部の岡正雄氏や宮内庁楽部の東儀

俊美氏が、立派な絵馬を最近奉納しているのに目を引いた。

;)は秦河勝といえば、聖徳太子に使えた渡来系の豪族で、京都太秦に住み、広隆寺を建てたとか、播磨加

古川の鶴林寺の創建に係わったと伝えられることぐらいしか知らない。

そこでWikipediaの秦河勝(ハタノカワkツ)に関する記事を見ると、猿楽(能楽)の祖でもあり、観阿弥、世阿弥父子は

河勝の子孫と称していたし、楽家として知られる東儀家も河勝の子孫であると言う。

それで絵馬堂に、宮内省楽部の岡正雄氏や宮内庁楽部の東儀俊美氏が絵馬を奉納している謎が解けた。


イメージ 1 大避神社社頭
宝珠山の山裾、坂越浦に面して建っている。


イメージ 2 神 門
延享3年(1746)再建
石段の上に建てられていた。

イメージ 3 イメージ 4
                         神 像
神門の左右には神像が安置してあった。


イメージ 5 イメージ 6
                         仁王像
神門の裏の左右には仁王像が安置してあった。神仏混淆の名残りだろうか。


イメージ 7 社 殿
拝殿は延享3年(1746)、本殿は明和6年(1769)再建
祭神は秦河勝(ハタノカワカツ)、天照皇大神、春日大神


イメージ 8 絵馬殿
数えてみると約40もの絵馬が奉納されていた。中には280年前の貴重な船絵馬も現存している。
祭礼用和船「楽船」が安置してあった。


イメージ 9 絵馬
平成10年(1998)元宮内省式部職楽部の岡正雄氏奉納。 
氏は絵馬にはっきりと楽祖秦河勝後裔を名乗っている。


イメージ 10 絵馬
平成13年(2001)宮内庁楽部元主席楽長東儀俊美氏奉納

坂越の中心街で古い町並みが続く大道を東に進んでいくと、黒羽目板あるいは漆喰壁がつづく奥藤(オクトウ)

酒造の酒蔵や家屋だ。この辺りが坂越で一番美しい町並み、といわれている。

酒蔵の一部は奥藤酒造郷土館となっていた。

奥藤酒造を過ぎると直ぐに坂越浦に出た。沖には秦河勝の伝説が伝わる生島(イキシマ)が美しい。

海岸に面して旧坂越浦会所が建っていた。江戸時代の村会所を復元したもので、建物は商家の造りに武家

屋敷のしつらえが整えられた珍しいものらしい。

これも内部を拝観したが、;)のように建物に素人には、建物の特徴よりも二階からの海の景色の方

が印象的だった。

イメージ 1 イメージ 2
                            奥藤酒造
奥藤酒造は慶長6年(1601)から続く造り酒屋。 家屋は大名の本陣に当てられたほどの格式の高い建物で約300年ほど前に建てられた。また、寛文年間(1661〜1637)に建てられた酒蔵も現存している。
酒蔵の一角にある郷土館は大庄屋や船手庄屋も務めた奥藤家に残る酒造道具、廻船業関係の資料、生活用具などを自由に見学が出来る。


イメージ 3

                            奥藤酒造全景


イメージ 4

                             生 島
坂越の町から目と鼻の先に浮かぶ周囲僅か1.6kmの小島
秦河勝は聖徳太子の死後、蘇我入鹿の乱を避け、坂越のこの島に上陸したと伝えられ、秦河勝の墓とされる円墳がある。
また、古来より大避神社の神地として入ることを禁じてきたので、樹木が原始のままの状態を保っており、国の天然記念物に指定されている。
大避神社の船祭りの渡御が行われる際のお旅所があり、そこに祭りに使われる和船が格納されている船倉がある。


イメージ 5旧坂越浦会所
天保2〜3年(1831〜1832)行政や商業の事務をとる為、村会所として建てられ、赤穂藩の茶屋的役割を担っていた。
坂越は赤穂藩の商業の中心として繁栄した。
2階の藩主専用の部屋・観海楼に度々殿様が訪れている。
現在の建物は平成6年(1994)復元したもの。

JR赤穂線「坂越(サコシ)」で下車した。

坂越(サコシ)は西に千種川が流れ、東側は坂越浦に面しているため廻船で発展し、播州赤穂藩の商業の中心

として繁栄した。

その名残りの古い町並みー都市景観大賞に選ばれたことがあるーがあるとのことだったので、訪れた。

坂越駅から東に歩くと程なくして千種川に出た。堤を北、即ち上流側に歩き、最初の橋「旧坂越橋」を渡

る。渡った先に「高瀬舟船場跡」の標柱が建っていた。ここから東に下りてゆくと坂越の大道に続き、坂

越の町並みを通り抜け坂越浦にでる。

道は綺麗な化粧敷石が敷かれ、めぼしい建物や旧蹟には説明や案内が表示されていたので、非常に分りや

すかった。

イメージ 1 「高瀬舟船着場跡」碑
この辺りが文化文政頃(1804〜1830)から坂越村の河川輸送船の発着場だった。


イメージ 2 木戸門跡広場
昔はここに門があり、門番がいて坂越の守りに当った。
高さ約2m、幅約4mの復元した門がモニュメントとして建てられていた。
平成7年(1995)復元



イメージ 3 道標
広場の前に道標があった。
「右大阪 左城下」と読める。



イメージ 4 町並み
木戸門跡広場跡から坂越浦海岸まで古い町並みが続く


イメージ 5 妙道寺山門
途中、町並みに混じって山門が建っていた。
光明山妙道寺、浄土真宗本願寺派の寺で享禄5年(1532)開基
門の上にある大亀などの彫刻は見事


イメージ 6 妙道寺本堂
本尊は阿弥陀如来(木造)
寛永9年(1632)高砂沖で魚網にかかったものを奥藤又次郎が譲り受け本堂に安置したと伝えられる。



イメージ 7 坂越町並み館(旧奥藤銀行)
奥藤銀行として親しまれていた建屋を、坂越の町並み景観創造の活動拠点として平成6年(1994)修景整備。
塩が政府の専売となった明治時代、それまでの船主は廻船の仕事をやめ、銀行業を開始した。
旧奥藤銀行もそのひとつ。
建築意匠を変えず、外観、屋根などの補修整備にとどめた建物は昔ながらの風情たっぷり。
山陽電鉄「人丸」駅を下車し、海側に5分ほど歩くと中崎公会堂が建っていた。
松等の木々が周囲に植え込まれ、一見して豪壮な感じがする建物だ。
中崎公会堂は明治44年(1911)明石郡公会堂として当時の明石町と11ヶ村によって建てられたものだ。
奈良・鎌倉時代の建築様式を採り入れた荘重なもので、杮落としに夏目漱石を招いて講演したとか。
老朽化のため、昭和58年(1983)大規模な改修工事が行われ、創建当時の姿に近いものに復元された。
以前に来た時は、ジャズダンスの練習が行われていたが、今回訪れた時は、偶々何も行われていなかったので中に入れてもらった。
 
イメージ 1
中崎公会堂外観
 
 
公会堂は公共の木造建築物としては明石市内最大の建物と言う。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2大広間
廊下に取り巻かれて大広間があり、普段は各種催し物が行われている。
正面は花頭窓、床の間、違い棚があり、元々は床張りでなく畳敷きであったのでは、と推測した。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3広間天大井
 
大広間の天井はシンプルながら落ち着きのある格天井となっていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夏目漱石は、明治44年(1911)8月13日の午後、半年前に竣工したばかりの木の香も新しい公会堂で、西日の照りつける中ですし詰めになった千余人の聴衆に「道楽と職業」という題で講演した。
明石という処は海水浴をする土地とは知っていたが、講演する土地とは知らなかった。
ところが来てみると非常に大きな建物がある。成程、これ程大きな建物を造れば、その中で講演する人を呼ばなければ宝の持ち腐れになる。
従って西日がカンカン照って暑くはzるが、折角の建物に対してもあなた方は来てみる必要があり、また我々は講演する義務があるような気がする。」と話始めた。
 


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事