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長岡宮跡大極殿公園の西に南真経寺があり、東に進み大極殿公園、阪急京都線、内裏内郭築地回廊跡を過 ぎると北真経寺が建っていた。この間約400m。 両寺は、ほぼ東西に位置するのに'、南真経寺、北真経寺というのは不思議だと思う。 この両寺とも山号を鶏冠山と号し、本尊を十界曼荼羅とする日蓮宗の寺である。 元々は同じ寺であったのが江戸時代に幕府の政策により2寺に分かれたものである。 日蓮の弟子・日像上人は、京都布教の日蓮の遺命を受けて、永仁2年(1294)京都に入ったが、他宗派から の迫害を受け、しばしば京都から追放された。 これを三黜三赦(サンチュウサンシャ 三度追放されて三度赦された)と言う。 ところで、現在地に真言寺という真言宗の寺があった。 当時の住持・実賢が日像上人の教化により日蓮宗に改宗した。 この時寺名も、真言寺の「真」と日像上人の幼名・経一丸の「経」とって真経寺と改めた。 この年次については、寺伝では徳治2年(1307)とするが、延慶3年(1310)という説もある。 いずれにせよ、真経寺は関西における最初の日蓮宗の寺となり、日像上人は布教活動の拠点となった。 江戸時代の承応3年(1654)真経寺は二つに分けられ、北真経寺は檀林(寺の学問所)に、南真経寺は鶏冠井 (カイデ)村民の信仰の場となった。 法華経の信仰を現した鶏冠井題目(カンデダイモク)踊りは京都府無形民俗文化財となっている。
山門の向って左前には、正面に「南無妙法蓮華経 鶏冠山真経寺」側面に「日蓮宗関西最初弘教之地」、「開山日像菩薩三黜三赦(サンチュウサンシャ)之霊跡」と刻まれた寺標が建っている。 開山堂 明治初年に整理した台帳によれば寛永11年(1634)の建立 山門正面に建つ桁行8間、梁行7間の建物、正面の「真経寺」の額は本阿彌光悦のよるもの。 開山堂に向って右手に建つ方4間の建物 明治初年に整理した台帳によれば正徳4年(1714)の建立 鐘楼は、明治初年に整理した台帳によれば、元禄12年(1699)と記されている。
明治8年(1875)檀林は廃され、学舎の殆どが取り壊され、旧講堂が本堂として残り、檀林の面影を残している。 なお、境内は、長岡京時代の内裏のあった場所に位置している。 本 堂 |
山城風土記
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長岡宮遺跡朝堂院公園から西に150mほど歩くと、南北に通る西国街道にであった。 その角に石塔寺という日蓮宗のお寺が建っていた。 門前の説明板によれば、 このお寺は鎌倉時代末の延慶3年(1310)開山日像上人が現在の場所に題目石塔を建立し、 文中年間(1469〜87)にこの石塔の傍らに建てた堂宇を本堂としたのが始まりと伝えられている。 寛文年間には独立本山に成長し、その末寺は近畿一円に総数33ケ寺に達した。 現在でも周辺に、御塔屋敷、御塔下、御塔道などの地名を残す大寺だったようである。 日像上人については、近くに所縁の寺院南・北真経寺があり、門前の西国街道を300m北に 日像上人が説法したという説法石があった。 ところで石塔寺周辺は、寺が建立時から650年ほど前の長岡京時代(784〜794)は都の中心地で、造営長官 で桓武天皇の腹心・藤原種継が,延暦4年(785)9月暗殺された場所だそうだ。 中納言兼式部卿近江按察使藤原種継、賊に襲い射れ、両箭身を貫きて薨ず(「日本紀略」延暦四年 九月乙卯の条)とあるから射殺されたのだろう。 これが切っ掛けで、皇太弟・早良親王が叛逆を疑われ、淡路島流刑になった。 早良親王は無実を主張し、移送途中抗議して絶食し憤死した。 その後、疫病流行、洪水などの災害発生し、それが早良親王の怨霊の祟りと看做され平安京遷都の一因と なったと言われている。 しかし、石塔寺の廻りを見渡してもその様なことを伝えるものは全くなかった。 山号が法性山、本尊は十界曼荼羅 石塔寺境内 毎年5月に行われる鶏冠井題目踊(カイデダイモクオドリ)は京都府の無形民俗文化財の指定を受けている。 説法石 石塔寺門前の西国街道を北(京都方向)に約300m向日神社参道入口にあった。 徳治2年(1307)5月日像上人がこの石に於いて法華経を読誦し説法したところ |
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京都郊外の地図を見ていたら、長岡宮跡が目に入った。 長岡京と言えば、平城京から平安京に遷都した時、途中10年間ばかりの都である。 平城京と平安京が、歴史的にあまりにも大きいので、高校の教科書でも名前が載る位であったので、よく 知らない。 そこで、現地確認しようと午後からふらふらと出かけた。 阪急京都線「西向日」駅で下車し、北に数分歩くと長岡宮跡朝堂院公園があった。 そこで史跡をお世話していただいている方がおられたので、種々教えていただいた。 長岡京は、桓武天皇が、延暦3年(784)11月11日平城京から乙訓(オトクニ)地区(向日市、長岡市、大山崎市、 京都市一部)に移した都で、東西4.3km、南北5.3kmの広大な都市だ。 北に天皇の住まいである内裏や、政務を儀式を行う大極殿を始めとするいわば官庁街の朝堂院からなる長 岡宮があった。 延暦13年(794)10月22日平安京に都を移して、長岡京はその使命を終えた。 (長岡京遷都理由、長岡京選択の理由、平安京遷都理由などの説明を頂いたが、まとまりが付かなくなる ので記載するのはやめる。) 長岡京遷都については「続日本記」などで明らかであったが、正確な位置について詳らかでなかった。 昭和30年(1955)一郷土史家である西京高校教諭・中山修一主導で、朝堂院南門が初めて発掘された。 この発見を契機として大極殿、朝堂院第一〜三院、第四院、楼閣跡、内裏築地回廊跡などが次々と発掘さ れ、当時の政治・儀式の中心施設の姿が明らかになり、国の史跡に指定された。 このように長岡宮跡は「朝堂院公園」、200mほど北の「大極殿公園」、そこより東に200mの「内裏内郭築 地回廊跡」からなり住宅街に小規模な史跡公園として3ヶ所に点在していた。 この点は意外だった。 長岡宮跡は、史跡としては新しく、既に住宅街化していたため用地確保の点からもこうなってしまったの だろう。 平安中期の法令集にも「長岡京左京三条一坊八、九、十三、十六町、二坊三、四、六町を勅旨所の 藍畑、三条一坊十町を近衛府の蓮池にせよ」(「類聚三代格」による延暦14年1月29日付太政官符)と 記されるが如く、平安京遷都の際、長岡京の資材を流用した。 このため現長岡宮跡には、礎石は全く見られず、発掘により建物の場所が確認された個所は芝生や樹木が 植えられ、一部には柱跡の目印としてコンクリートの円柱あるいは円板が置かれていただけで、当時を偲 ぶものは全くなかった。 もし、説明板や標柱がなければ完全に見落としてしまうであろう。 長岡京は東西4.3km、南北5.3km 中央南北に朱雀大路が貫き 大路小路を縦横に通した碁盤目状に街区を区画していた。 朱雀大路の北の端に長岡宮が位置する。 長岡宮は東西1.1km、南北1.6kmで、 殆どが現在の向日市内に入る。 北に後殿、大極殿が位置し、 南の朝堂院には、中庭と八つの建物(朝堂)が左右対称に置かれ、政務や儀式が行われた。 これらの施設は後期難波宮(大阪市)の資材が用いられた。 朝堂院公園は南門跡、楼閣、回廊、第四朝堂跡からなる。 標柱がある近くが南門跡 楼閣跡及び奥の回廊跡には柱跡の位置に目印が設けられていた。 最奥は第四朝堂で基壇相当個所は芝生を植えた土檀となっていた。 朝堂院公園より北200mほどのところにあった。 説明板の近くに復元した朱塗りの宝憧(ホウドウ)が2基あった。(写真では1基のみ写っている) 宝憧(ホウドウ)は元旦などの儀式に旗をたてるもので、7基あったそうである。 朝堂院で政務評議して、大極殿で天皇にたいして決済を伺う朝政の場であったが、長岡京の時代になると政務は内裏で行われるようになり、主に朝賀の儀式饗宴の場となった。 大極殿の北に、天皇が大極殿に出向く控えの間である後殿跡があった。 大極殿・朝堂院の東側に内裏があった。 内裏の西北の内郭築地回廊跡が史跡として残っている。 大極殿公園から200mほど東(阪急京都線東側)にあった。 柱跡はコンクリト円板が埋め込まれていた。 昭和41年(1966)発掘で発見され、昭和43年(1968)天皇の住居である内裏正殿が確認され(北真経寺境内)、内裏内郭築地回廊の北西部であることが判明し、国の史跡に指定された。 中央に土塀を設け、両側に廊下を通す、特異な構造である。 |
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離宮八幡宮は、貞観元年(859)以来の歴史を持つ古社である。 また、鎮座する場所が、桂川、宇治川、木津川の三川が合流して大淀川になる地峡で山崎津として水陸交 通の要として栄えたところである。 離宮八幡宮の、それほど広くは無い境内を巡ると、境内社のほかに、油座を組織して油を独占的に商った ことを記念する碑や石像、その結果得た守護不入の権を示す神領境標石などがあった。 離宮八幡宮の前は西国街道である。 離宮八幡宮参拝の後、周辺をぶらついた。 街道沿いに今なお風格ある民家が点在するが、淀川岸に向かったところに建っていた民家も写真に収め た。 なお、司馬遼太郎は「国盗り物語」の前半で山崎の油座について生き生きと描写すると共に、次の様な 薀蓄を披瀝しているので紹介する。 山崎八幡宮(離宮八幡宮)の神官は、・・・・ 津田氏の世襲で、当主津田定房氏は46代目である。 ・・・・ こんにち往年の盛大さをしのぶよすがもないが、ただおもしろいことに、東京油問屋市場、吉原製 油、味の素、昭和産業といった全国の食用油の会社、組合がいまなお氏子になっている。 (司馬遼太郎「国盗り物語」運さだめ) 本邦製油発祥地碑(左)と油祖像(右) 清和天皇の頃に、離宮八幡宮の神人が「長木」という道具で荏胡麻を絞って油を採り、灯火に用いた。 これが始まりで、油を製造し、売り歩いた。 八幡宮の保護下、彼等は油座を結成し、関料、津(港)の使用料の免除、製造独占権を得た。 室町時代になると、宮廷はもとより全国の社寺や一般の人々が山崎産の荏胡麻油を使用し、全国にその名が知られた。 しかし、織田信長が登場し、彼が行う楽市楽座の政策により座の独占は崩壊し、さらに、江戸時代に入ると菜種油に油の座を譲った。 神領の四隅に設置された境の標石の一部 向かって右の標石: 正面「従是北 八幡宮音神領大山崎荘」 右横面「殺生禁断所」 左横面「守護不入所」 向かって左の標石: 正面「従是西 八幡宮御神領守護不入之所」 右横面「殺生禁断所」 左横面「大山崎総荘」 奥に左から稲荷社、高天宮神社、住吉社、 右横に、奥から気比宮、鹿島神社、蛭子神社、天照皇太神社、武内社が並ぶ。 境内社は他に境内に点在していた。 腰掛天神社 の隣りの注連縄が掛けられた石 菅原道真が九州に流された時、西国街道の脇にあったこの石に座って休息した。 なお、「大鏡」では、道真の山崎での様子を次の様に述べている。 なきことにより、かく罪せられたまふを、かしこく思し嘆きて、やがて山崎にて出家せしめたまひて、 都遠くなるままに、あはれに心ぼそく思されて、 君が住む 宿の梢を ゆくゆくと かくるるまでも かへり見しかな (「大鏡」天 左大臣時平) (罪なくして、この様に罰せられてたのをひどくお嘆けきになられて、そのまま山崎で出家なされた。 そして、しだいに都が遠ざかるにつれて、しみじみと心細くなられてお詠みになられた歌 「都遠く・・・ : あなた様がお住みになられている家の木立の梢を、道をたどりつつ、すっかり見えなくなるまでも、振り返り振り返り見たことでした」) 境内の隅に置かれていた。 行基建立の山崎院にあった五重塔の心礎と考えられ、 山崎院廃絶後、相応寺塔心礎に再利用されたらしい。 近在の民家 離宮八幡宮の前は西国街道であった。 今なお風格ある民家が点在するが、 淀川岸に向かったところに建っていた民家を写真に収めた。 |
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離宮八幡宮は、JR山崎駅の直ぐ近くにあった。 駅舎を背にして駅入口で立つと、右手にこんもりとした杜が見える。そこが離宮八幡宮だった。 駅からは東門が近いが、南面に徳川家光が再建した風格ある惣門があった。 境内に入ると、北側に中門、社殿が建ち、西側に摂社・末社などが鎮座していた。 平安時代の初めの頃の貞観元年(859)、清和天皇が太陽が我が身に宿る夢を御覧になった時のお告げ により、九州の宇佐八幡宮から神霊を奉じて帰郷した僧・行教が山崎津で夜の山に霊光を見た。 そこでこの地を掘ると岩間に清水が湧出したので、ここに「石清水」の八幡宮を創建した。 丁度そこが嵯峨天皇の離宮「河陽宮」の地だった。 その後、対岸の男山にも分祀され、以後そちらが「石清水八幡宮」と称されるようになり、 こちらは「離宮八幡宮」と号するようになった。 かっては、水無瀬川より、円明寺に及ぶ広大な神領を有し、江戸時代には「西の日光」といわれる程の壮 麗優美な社殿を構えていた。 しかし、幕末の元治元年(1864)禁門の変では長州藩屯所となった為、惣門、東門を除き、全て兵火で焼失 した。 更に、明治4年(1871)境内北側に東海道線が敷設され、境内は大幅に縮小した。 しかし、明治12年(1879)社殿が再興され、昭和4年(1929)改築され、現在に至っている。 JR山崎駅から一番近い。 延宝年間(1673〜1680)に建立されたと考えられている薬医門。 寛延12年(1635)三代将軍徳川家光によって再興された。 鳥居の奥には神門、拝殿及び本殿が建つ。 神門の右前には「河陽宮故址碑」、「本邦製油発祥地碑」や油祖像が建つ。 祭神は 応神天皇 姫三神:田心姫命(タギリヒメノミコト)、 市杵島姫命(イチキシマノミコト) 湍津姫命(タギツヒメノミコト) 酒解(サカトケ)大神(又は 大山祇命) 淀川という大河の北、即ち陽の当たる所にあると言うことから 嵯峨天皇の離宮が河陽の宮と称せられた。 寛永11年(1634)勝龍寺城主永井日向守が幕府の命で当社社殿を造営した時、記念として奉献したもの。 行教が奉じた神霊を最初にここに鎮座した切っ掛けになった泉。 男山に創建された石清水八幡宮の名の由来がこの泉に由るそうだ。 |


