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・・・・・・なほざりならず、おしはかりたまへ。かつは、伊勢、石清水、賀茂、春日、国を護る神々の 擁護に漏れはべらむ。御心の隔てあるべからず。かかればとて、我つゆも変る心なし。 (後深草院二条「とはずがたり」巻3) (・・・・・・いい加減な気持ちからでないんです、考えてみてください。一方、もしそれがいい加減な気持ちからであったら、伊勢、石清水、賀茂、春日といった国を護る神々の加護から漏れることになるでしょう。お心に隠し隔てをなさってはいけません。そうだからといって私は少しも心変わりはしません。) 先週、東京で友人達に会い、側で聞いておれば、つまらないと思われる薀蓄を語り合った。 5月に皆で行く箱根の話から、小田原、鎌倉、鶴岡八幡宮と話が移り、更に石清水八幡宮へと話が来 た。 その時 は関西に居りながら一度も行っていないことに気が付いた。そこで、石清水八幡宮参拝にやって来たと言う訳である。 石清水八幡宮の本宮は男山の山頂にある。 京阪電鉄八幡市駅のすぐ近くに、石清水八幡宮の入口「一の鳥居」があり、そこから緩やかな九十九折の 坂道の参道を上って、頂上の本宮にいけるようになっている。 一方、男山は標高142.5mに過ぎないが、駅前からケーブルカーで一気に山頂にいけるようにもなってい る。 は胸に爆弾を抱えているので、不本意ながら、ケーブルカーで頂上に行きかえりは参道を散策しながら下りてくることにした。 ケーブルカーは15分おきに運行しており、3、4分で山上駅に着いた。 社殿は回廊と築地塀に囲まれ、東西南北に総門を備えた一画に建っていた。 八幡市駅前と男山山頂を結ぶ。 所用時間は3、4分 山頂境内及び社殿は上院と呼ばれる。 三の鳥居が入口となる。 昭和36年(1961)の第二室戸台風で倒壊したため、翌年再建されたもの。 一直線の石畳の約100m参道が続き、左右に石燈籠が並ぶ、頭上は楠などが覆う。 参道両側の石燈籠は、かって多くあり、明治の神仏分離・廃仏毀釈でなくなった僧坊にあったもので、480基あるとか。 参道の突き当たりは南総門 総門の前には手水舎、と供御所が建っている。 供御所の中央にあり、台所守護の神様を祀っている。 供御所は慶長2年(1597)再建 昭和13年(1938)立替 旧総門は頓宮の南門となっている。 左右は回廊となっており、左右北側の信長塀といわれる瓦を練りこんだ築地塀と共に社殿を囲んでいる。 門中央の梁には菊のご門が飾られ、皇室との関係の深さを物語っている。 左右及び北の築地塀の中央に門が設けられている。 東西及び北総門は同じような形をしており、重文である。 |
山城風土記
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隠元橋近くに許波多神社という小さな社あった。 祭神はニニギ尊、アメノオシホノミミ尊、ヤマトイワレビコ尊(神武天皇)、どうやら記紀伝説の中で天 孫降臨に係わる神様だ。 大化元年(645)孝徳天皇の勅願により皇祖の御神霊を奉祀するため創建、と社頭に由緒を記したあった。 一時柳大明神と称したが、明治9年()現在地に移転に伴い、現名称に復したとのことだ。 社 頭 拝 殿 本 殿 元禄5年(1562)建立で重要文化財 |
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萬福寺は建物のたたずまいや内部の荘厳、安置する仏様、それに儀式作法、お経の誦みなど全てが中国色 濃厚な寺(歴代住職の内16人が中国僧であった)で、かって茲を訪れた日本人は、日本でなく異国かと錯 覚に陥ったに違いない。 それを裏付ける句碑が萬福寺境内、総門と三門の間、に建っていた。 「山門を 出れば日本ぞ茶摘うた 菊舎」寛政2年(1790)萬福寺を詣でた時の句。 黄檗山のただずまいに酔いしれた菊舎(長府の人、美濃派の女流俳人)が三門を出た時、門前の茶畑からの茶摘唄が聞こえ、一瞬我に返った時の句だ。彼女は前書きに「見聞に耳目をおどろかしつつ黄檗山の内を拝しめぐり、誠に唐土の心地侍れば」と記している。 菊舎が訪れた頃と違い、市街地化の波は押し寄せ、萬福寺の周辺からは茶摘唄が流れるほどの長閑な風景ではない。それでも小規模な茶畑が少し残っていた。 萬福寺は中国色濃厚な寺であるが、やはり日本的なものがあった。鎮守社である。 天王殿前の向って左手にあった。神様の名や創建時期は分らないがここにも参拝させていただいた。
隠元禅師登岸之地 碑
萬福寺から1kmほど離れた隠元橋(宇治川に架かる橋)詰にこの碑が建っていた。平成20年(2008)建立で、 「万治2年(1659)将軍家綱から寺領を賜ることとなった隠元禅師が 新寺の候補地探しの為船で宇治川を遡られ、この付近に来た時、東方の山(妙高峰)袂から2羽の鶴が舞い上がったのを見られ、縁起良しとして下船され、萬福寺の建設地を決定された。 建設予定地の風景は渡日直前まで住持をされていた中国福建省黄檗山とよく似、又日本に滞留しても故郷を忘れないようにとの思いから新寺の名称を同名の黄檗山萬福寺と名付けられた。 この石碑は禅師の偉業を称えるため、禅師出身地から石材を取り寄せ、中国古来の伝統形式である亀趺の形に仕上げ製作された」と記してあった。 隠元といえば「インゲンマメ」次いで「黄檗宗」が思いつく位だが、実は日本に多くのものをもたらした らしい。 これについて、五木寛之は「百寺巡礼」(講談社)で次の様に述べている。 「とにかく、禅の教えでだけでなく、文化全体にわたって、隠元は日本列島に大きな波紋を起こした。 美術、絵画、骨董、そして信仰、思想さらには生活習慣から風習、流行、世相風俗というものを、そっく り丸ごと日本に伝えたのだった。」 萬福寺から隠元橋に行く途中、塔頭寺院の一つ「宝蔵院」があった。ここの収蔵庫には「鉄眼一切経版 木」約6万枚が収納されている。明の版を底本に作られた為、書体は「明朝体」だ。明朝体活字のルーツ と言われるものだ。 見学したかったが、事前予約制とかで残念ながら見られなかった。
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萬福寺は、明の僧・隠元禅師が寛文元年(1661)4代将軍徳川家綱を大檀越として建立した黄檗宗の寺であ る。 黄檗宗は臨済宗、曹洞宗と共に日本三禅宗の一つで、萬福寺はその大本山として活動している修行の道場 である。 黄檗宗では、儀式作法は明代に制定された仏教儀礼で行われ、毎日誦まれるお経は黄檗唐韻で発音し、中 国明代そのままの法式梵唄を継承している。 五木寛之は彼の著「百寺巡礼」で萬福寺を「中国僧の思いが生き続ける大寺」と評しているが、 境内を巡っていると、中国風の伽藍と共に、禅宗独特の厳しさの雰囲気があり、五木寛之の評通りの感じ を受ける寺であった。 主要伽藍を囲むように廻廊が廻らされていた。 斎堂前の廻廊にぶら下げられていた。木魚の原型となっているもので、時を報じるものとして今でも使われている。 魚は目を閉じることがないと信じられ、常に目を開け修行に励めという意味、魚が銜えている玉は煩悩を表し、背中を叩いて吐き出させるという意味があると、Kさんから聞いたことがある。 青銅製の板で、開版と少し離れて、廻廊にぶら下げられていた。朝と昼の食事と朝課の時に打つもの。 禅堂、西方丈など5箇所に設けられている。開創以来三百余年、朝4時と夜9時に小槌で3打して朗々と唱え、起床と開枕(消灯)を告げ、順次打ち鳴らす。 この諷経で一日が始まり、一日が終わる。 巡照板に記載の五連の句意は次の通り: 謹白大衆(キンダーチョン)−−謹んで大衆(修行僧)に申し上ぐ 生死事大(センスオーダ)−−生死は、事大にして 無常迅速(ウージャンシンソ)−−無常は迅速なり。 各宜醒覚(コーギシンキョ)−−各々、醒覚して、 慎勿放逸(シンウファンイ)−−無為に、時を過ごさぬように。 仏道修行僧の心を、戒めている。(拝観のしおりの裏面より) 絵馬の図柄は布袋様(萬福寺では弥勒菩薩)であった。 総門正面道路向にある井戸。隠元禅師が掘ったと伝えられる。萬福寺を龍に喩え、その龍の目として総門に対して左右一つづつある。寺の発展を祈願したものといわれる。 |
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萬福寺は寛文元年(1661)に建立を始め、寛文8年(1668)にはほぼ完成したようだ。現在の主要建物はその 間に建てられたものであった。 ただ、宗祖、開山を祀る祖師堂、開山堂は例外で、建立時期は少し後だ。 蛇足だが、嘉永6年(1853)薩摩から江戸に向う篤姫(天璋院)が10月5日訪れている。 寛文9年(1669)建立 中央に范道生作の達磨大師像、左右に当山歴代住職の位牌を」安置する。 達磨大師は釈尊から28代目のインド僧、中国に渡って禅を伝え禅宗の初祖となった。 達磨大師像は「十八羅漢像ほどの個性はないが、髭の表現や裙(クン)の結び目を腹前に表す点に明代彫刻の影響がうかがえる。」と「日本の仏像」(講談社)に記述してあったが、遠くてそこまで分らなかった。 開山堂前の朱塗りの門
開山堂
延宝3年(1675)建立 開山隠元禅師(1592〜1673)を祀る。石畳、白壁 卍模様の勾欄の建物、前には白砂が広がって、他の堂宇とは違った雰囲気を醸し出していた。 本尊の御姿は分らなかった。しかし、ようこそおいで下さいました、と合掌。 |
は関西に居りながら一度も行っていないことに気が付いた。


