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山門を過ぎると、現世御利益を競うように掲げ参拝者の呼び込みを図っている様に塔頭寺院が並んでい る。 向って左側に総持院、宝蔵院、観音院、右側に華蔵院、成就院となっていた。 母子息災の鬼子母神像、進学成就の御利益、卯年守り本尊の知恵の文殊こと、文殊菩薩像、富貴長命の福禄寿像を祀る。 家業繁昌に御利益、酉年守り本尊の不動明王像と脇侍の制咤迦・矜羯羅童子像を祀っていた。 音楽上達、財福知恵にご利益の弁財天像、未・申年守り本尊の大日如来像、健康長寿の延命地蔵尊像を祀る。 辰・巳年守り本尊の普賢菩薩像を祀る。 |
摂河泉風土記
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境内を巡る。平日であったが参拝人の姿は多く見られた。主要堂宇等については既に記述しているので 重複は避ける為未記述のものに限る。 大黒堂 中央に本尊大黒天像(子年守り本尊)、向って左側に千手観音菩薩像が安置してあった。 寿老神堂 中央に本尊寿老神像と子育地蔵尊、向って左側に勢至菩薩像(牛年守り本尊)が安置してあった。なお右側にも像が安置してあったが何方か分らなかった。 大師堂 堂宇の中で一番高い所にあり、弘法大師像を安置している。 中山寺古墳の石窟入口と石棺 中山寺境内にある古墳は寺伝によれば、第14代仲哀天皇の先后大仲津媛の墳墓とされ、別名「石の櫃(カラト)」とも称される。古墳洞内の大きさは横幅2.5m、奥行き3.6m、高さ3.2mで石窟内には石棺が安置されている。 |
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昨年7月頃西国33所第24番札所中山寺を参拝した。このとき徳川家光が再建したと言う豪壮な山門は修 復工事の最中で、素屋根にすっぽりと覆われ全く見られなかった。半年ほど前に工事も終り、見られるよ うになったと耳にしていたので、再び訪れた。 山門全景 仁王像 弁柄漆仕上げの仁王様が安置され、その近くには大きな草鞋、柵の周りには小さな草鞋が多数奉納されていた。 獅子と狛犬 門の背面には、弁柄漆仕上げされて復元修復された獅子(左)と狛犬(右)が鎮座していた。 |
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神功皇后が創祀の摂津四神社の一つ広田神社に参拝した。 実はこの神社の外苑のコバノミツバツツジが有名で、今は満開だろうと思い、よく確認しないで出かけた のである。 しかし、来てみたら半月以上前に終わって1輪も花を付けていなかった。 今は参道に植えられたヒラトツツジの花ががっかりした気持ちを慰めてくれた。 広田神社の創祀は「日本書紀」に記されている。 神功皇后摂政元年(201)神功皇后が新羅遠征からかえって来た時、武庫の沖で船が進まなくなり、占う と、「わが荒御魂は皇居に近づかず。御心、広田国(現在の芦屋、西宮、尼崎西部)に居らむとす」との 天照大御神の神託があった。 そこで、神功皇后は天照大御神の荒御魂を広田国に祀らせたところ、船が進み、仲哀天皇の先后大仲媛(オ オナカツヒメ)の子・忍熊王(オシクマオウ)の謀反を鎮圧することができたと言う。 甲 山 西宮市街北部にある山、当初の鎮座地は甲山山麓とも言われている。 その後、数度の移転を繰り返し、享保13年〈1728〉現在地に遷座した。 伊勢神宮の式年遷宮の用材を譲り受け、昭和31年(1956〉造営 天照大御神の荒御魂を祀る。 本殿は、伊勢神宮の式年遷宮時、荒祭宮(アラマツリノミヤ)の旧社殿を譲り受け、昭和38年(1963)移築したもの。 第一脇殿には住吉大神、第二脇殿には八幡大神を祀る。 第三脇殿には諏訪建御名方富大神(スワノタケミナカタトミノオオカミ)、第四脇殿には高皇産霊大神(タカミムスビノオオカミ)を祀る。 翼廊に酒樽が奉納されていた。その中にタイガースのマークの入った酒樽が二個あった。 阪神タイガースは、毎年必勝繁栄祈願するのが恒例行事となっている。 創立年代不詳 延喜式に名が見える。 元は広田神社東南約1.5kmの所にあったが、大正6年(1917)境内に移し、戦後本社に合祀していた。 平成2年(1990)社殿を再建し奉斎。 向って左から、松尾神社及び稲荷神社、地神社、春日神社、子安神社、八坂神社 |
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JR学研都市線「四条畷」駅、この辺りは約650年前四条畷の合戦のあったところだ。駅から1kmほどの ところに四条畷神社あると聞いたので下車する。 大楠公(楠正成)が湊川の戦で敗死したあと南朝を支えた武将の一人楠正行(楠正成の息子、小楠公)は 度々足利尊氏方を破った。正平3年(1348)1月5日足利尊氏が派遣した高師直、師泰の大軍とここ四条畷に て激突したが、衆寡敵せず、敗死したのだ。 駅から約15分飯盛山(318)の山腹に建てられていた。午前中あれほど晴れていたのに雲が全天を覆い、 風さえ出始めた。気温は冬としては暖かの筈だが寒さを感じる。境内には人影は全く無く 一人だけだった。 明治23年(1890)創建。 石段を上りきり振り返ると遥か先に小楠公の墓所が見える。ただ、周囲は市街化しており戦場だった事への感慨は少しも湧かなかった。 楠正行(小楠公)、はじめ25柱を祀る 拝殿の向かって左側に建てられている摂社。小楠公の母を祀る。 干支を図柄にした絵馬に混じって、冑の図柄の絵馬が多数あった。 延元元年(1336)死を覚悟の兵庫出陣に当り、桜井駅において11歳の正行に天皇への忠誠を言い渡した。 青葉茂れる桜井の 1.青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木の下蔭に駒とめて 世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か 2.正成涙を打ち払い 我が子正行呼び寄せて 父は兵庫に赴かん 彼方の浦にて討ち死にせん いましはここ迄来たれども とくとく帰れふるさとへ 小楠公墓所 参道を下り西へ約1km、突き当たりに小楠公墓所があった。 討ち死にした正行の遺体は現在地にに移され、南無権現と書いた小碑を建て2本の楠の若木を両脇に植えて墓とした。年を経て一株の如く合した楠は、この小碑を内に包み込み幹周り10m以上の大木に成長した。近くに大久保利通の筆になる高さ約6.5mの大碑石が建っていた。 |
一人だけだっ


