|
茶道は堺の茶人、武野紹鴎や千利休などによって完成された。その「茶禅一味」の精神基盤は、南宗寺の 歴代の和尚に参禅することによって確立された、と言われている。 この関係もあってか、南宗寺には紹鴎の墓碑、利休及び三千家の墓碑があり、また、利休好みの茶室、遺 愛の手水鉢、紹鴎遺愛の石燈籠などがあった。 戦災で焼失したものを戦後再建 聖観音菩薩を安置する。 古田織部好みの作庭 国の名勝庭園に指定 戦災で焼失したものを昭和35年(1960)再建 利休好みの茶室 利休遺愛の手水鉢 紹鴎遺愛の石燈籠 中央に利休宗易居士の碑、 右に不審庵(表千家)、 左に今日庵(裏千家)、官休庵(武者小路千家)の碑が立つ。 千家一門の墓の隣に建つ。 武野紹鴎は千利休の茶の師。 堺に住み、村田珠光に学んだ。 この供養塔に耳を当てると、シュンシュンとお茶の湯を沸かす音がするそうだ。 やってみたが、茶の心得がない所為だろうか には聞こえなかった。紹鴎の供養塔の隣に建つ。 牡丹花肖柏は室町時代の連歌師 宗祇につき堺古今伝授と称す |
摂河泉風土記
[ リスト | 詳細 ]
|
徳川家康は元和2年(1616)駿府城で死去、享年75歳。 駿府の久能山に葬られ、一年後下野国日光に改葬 された、と云うのが定説である。 しかし、これを覆す様な伝説が堺の南宗寺にある。 徳川家康は、実はその前に戦死していた。密かに埋葬され、墓は堺の南宗寺開山堂下にあるというのだ。 それを裏付けるように、2代将軍秀忠、3代将軍家光がわざわざ南宗寺を訪れているし、歴代堺奉行は赴任 の際南宗寺を参拝している、と云うのだ。 この伝承は何時生れたのか知らないが、情報が隠されがちな当時、僅かな情報からの憶測が生んだ 伝説が長く続いているのは面白いと思った。 重層の様式で山内最古の建物、下層は茶室 内部に元和9年(1623)徳川秀忠次いで家光両将軍の御成りをを記した板額が掛かる。 このことや東照宮が祀られていることなどにより、徳川家康が後藤又兵衛の槍に刺され、開山堂の下に埋葬されているという伝説が残った。 江戸初期建立 重文 戦災で焼失した東照宮の本殿、拝殿に通じる門。 徳川時代には堺奉行赴任の際は常に南宗寺に参拝したといわれる。 文政年間(1918〜1930)の建築といわれた東照宮は空襲で焼失し、その後に東照宮跡碑が昭和42年(1967)建立。 開山堂は昭和20年(1945)空襲で焼失。 徳川家康の戦死埋葬碑の伝説がある、かって床下にあった卵形の無名碑。 |
|
南海電鉄「港駅」を下車、土居川に沿って歩くこと十数分、やがて国道26号線に当り、そこで川も終わ る。 そこから左手は寺町で幾つかの寺が並ぶ。 寺町辺りをぶらりぶらり歩いていると、南宗寺が建っていた。 南宗寺は山号を龍興山と称し、臨済宗大徳寺派の寺院だ。 境内には重文の山門、唐門、仏殿があり、伝説の徳川家康の墓がある寺、紹鸚や利休が参禅した寺として 知られている。 南宗寺は大永6年(1526)京都大徳寺の住職古嶽宗旦が堺の一小院を「南宗庵」と改称したのが始まりだ。 その後、三好長慶が父・元長の菩提を発願し、南宗庵を移転し壮大な寺院を造営し、南宗寺とした。 しかし、天正2年(1574)松永久秀の乱、慶長20年(1615)大阪夏の陣で堂宇は悉く灰燼に帰した。 当時の住職・沢庵宗彭と堺奉行・喜多見若狭守勝重は、南宗寺の復興に尽力し元和元年(1619)現在地に再建 し、1650年頃には伽藍が整えられた。 昭和20年(1945)太平洋戦争により、開山堂、実相庵(戦後再建)、方丈(戦後再建)等が焼失した。 正保4年(1647)建立 重文 禅宗様と和様の折衷様式 「甘露門」の額が掛かる。 承応元年(1652)建立、 重文 方三間の主室も回りに裳階をつけた方五間本瓦葺きの建物で、小規模ながら純粋の禅宗様仏殿 内部に入ると、床は瓦敷き土間となっている。 中央に本尊・釈迦如来像が安置されている。 左右にあるはずの脇侍・文殊、普賢菩薩像はない。 盗まれたそうだ。 狩野信政による「八方睨みの龍」が描かれていた。 禅 堂 明治4年(1871)建立 昭和14年(1939)改築 中央に文殊菩薩を祀り、坐禅修行の道場 寺域の西端に三好元長、長慶父子を始めとする三好一族の墓が並んでいる。 |
|
西方院は叡福寺とは道を挟んで向かい合う浄土宗の寺院で、山号は南向山。 叡福寺隔夜堂の前に「聖徳太子御乳母三尼御廟所西方院」の標柱が建ち、その路地のような上り坂の 参道を行くとすぐに西方寺の門前に着いた。 推古天皇30年(622)聖徳太子崩御の後、その乳母という3人の侍女が落飾し、御廟の前に創建した最古の 尼寺だそうで、もとは叡福寺の塔頭で「法楽寺」と呼ばれていたそうだ。 境内はこじんまりとしており落ち着いていた。境内の南隅、鐘楼近くに三尼供養塔が建っていた。 西方院門前 聖徳太子の死後、乳母だった月益(蘇我馬子の娘)、日益(小野妹子の娘)、照姫(物部守屋の娘)の3人は剃髪し、その名も善信、禅蔵、恵善と称し、太子御廟の前に一宇を建立した。 本尊は阿弥陀如来 3尼は太子の遺髪を納め、太子自作の阿弥陀如来像を安置して、ひたすら弥陀の西方浄土を欣求したと伝えられる。 新西国霊場第八番札所 |
|
夏四月の丙寅の朔戊辰の日に 皇太子 みずから初めて憲法十七条を作る 一に曰く、和を以て貴しと為し さかふることを無きを宗とせよ・・・・・ 二に曰く、篤く三宝を敬え 三宝とは仏・法・僧なり 即四生の終帰 万国の極宗なり はなはだ悪しきものは少なし よく教えうるをもって従う それ三宝に帰りまつらずんば
何をもって柱かる直さん (「日本書紀」豊御食炊屋姫天皇 推古天皇12年)
叡福寺は聖徳太子の御廟を守護する寺とあって、我が国の真言宗の祖弘法大師空海をはじめ、浄土真宗の親鸞、融通念仏の良忍、時宗の一遍、日蓮宗の日蓮、浄土宗の西山上人證空などの名僧たちが次々と参籠 したという。 境内の堂宇を巡っていると、弘法大師堂、見真大師堂というお堂があったのは、宗派を越えて太子を崇拝 し帰依しようという太子信仰が活発であった名残りであろう。 境 内 南大門附近から東側を眺めた境内、客殿、念仏堂と並び、その先(北方向)に弘法大師堂、見真大師堂、経蔵などが建っていた。 天正年間(1573〜1592)河内国高屋城が陥落した際の古木を用いて建てられた。 2軒続きの大部屋四室に応接間もある。 本尊は信州善光寺如来を模して造られた阿弥陀如来像、脇侍は観音・勢至菩薩。 善光寺48願所中の第13番札所。 本尊は弘法大師(60歳)像 弘法大師が自ら三鈷をもって刻まれたと伝えられる。 胎内には八相相承(釈迦八相)の仏舎利が納められている。 明治45年(1912)建立、本尊は親鸞の坐像 親鸞が88歳で参籠した時、自らこの像を刻んで遺したという。 因みに、見真大師とは浄土真宗開祖親鸞のこと。 東西両本願寺が幕末の朝廷及び明治政府に大師号をもらおうと働きかけ、明治9年(1876)見真大師号が宣下されたもの。 「親鸞は念仏弾圧による流罪も経験した民衆宗教の開祖。朝廷から栄誉を受ける立場になかった」との意見が現在の教団内部にあるそうだ。 六角形の建物で、多くの写経が納められている。 |
には聞こえなかった。

