JR京都線島本駅前の島本町立歴史文化資料館を巡っていたら、近くに「小侍従(コジジュウ)の墓」があるこ とが分かったので行ってみた。 小侍従は平安時代末から鎌倉時代初にかけて活躍した女流歌人である。 後に、能因法師、伊勢 と共に東摂の三歌人とよばれ、家集「小侍従集」があり、新古今和歌集には7首 載っている。 父は石清水八幡宮第25代別当で権大僧都・紀光清(キノコウセイ)、母は、花園左大臣家の女房・小大進(コダイシン)で 和泉式部と並ぶ著名な歌人であった。 恋多き前半生を送り、晩年は水無瀬(ミナセ)に隠棲し、ひたすら信仰に生きたとされる。 が彼女を知ったのは、平家物語である。彼女には「待宵小侍従(マツヨイノコジジュウ)」とも呼ばれ、その由来が記されていたのだ。 小侍従は二条天皇の后・多子(タシ)の女房として仕えていた。 或時、主人である多子から「恋人を待っている宵と、恋人が別れて帰って行く朝とでは、どちらが趣深 い」と問われ、
が帰って行く朝を告げる鶏の鳴き声など、なんでもない)と当意即妙に「待宵」を推す歌をよんだので、 それによって、「待宵」と名が付けられた、という。 因みに、由来となった歌は新古今集の巻第十三 恋歌三にもあるが、初句と第4句が 若干異なって いる。 島本駅から西南に15分程田園地帯を歩き、名神高速道路の脇に、小侍従の墓という五輪塔と小侍従顕彰碑 が建っていた。 近くに立つ説明板によると、もとは東西約4.8m、南北約3.6mの墓地を持ち、大正の頃まで高さ0.9mの 五輪の石塔が建っていたそうで、現在は水輪(円形部分)だけが残っている。 近くに建つ顕彰碑は、慶安3年(1650)高槻城主永井日向守直清がたてたもの。 いづれも名神高速道路拡幅工事に伴い、平成7年(1995)現在地に移築されたとのこと。 小侍従は皇后藤原多子に仕え、太皇太后小侍従としてしばしば歌合わせに出席するなど一流歌人として 歌壇に確かな位置を占めるようになった。 そんな小侍従は、どういう事情があったのか知らないが、59歳の時出家した。 冒頭の歌は治承3年(1179)秋、突然の出家に臨んでの詠歌である。 「おもひをのぶ」という詞書がある。 歌意は「石清水八幡宮の清冽な流れにつながる子孫として、私だけが家名を汚してしまった。なんとして も汚名を濯がなくては」と言ったところであろうか、今後の生き様の決意をうたっている。 尼になった小侍従は、水無瀬山麓の桜井にあった真如院(応仁の乱の兵火に遭い廃絶)を開基隠棲したと か、石清水八幡宮が鎮座する男山の中谷の椿坊(款冬坊 カントウボウ)に住んだと伝えられる。 小侍従の墓に立ち東を遠望すれば、霞の中に、JR在来線、新幹線など鉄道線路越しに(淀川は線路に遮ら れて全く見えない)、石清水八幡宮が鎮座する男山が正面に望める。 小侍従の頃は、淀川を挟んで、ずうっと間近に見えたに違いない。 前半生を恋歌に華やかな才気を発揮した小侍従は、晩年この景色を眺めながらどんな思い出日々を 過ごしたのだろうか?と思わずにはいられなかった。 平成7年(1995)移設 水輪が残っていたということだが、水輪を含め五輪塔全体がそう古くないように見える。 移設の際、造り変えられたのであろうか? 慶安3年(1650)建立 撰文は林羅山 待宵の小侍従といふ女房も、此御所にぞ使ひける。 この女房を待宵と申しける事は、或時御所にて、「待つ宵、帰る朝、いづれかあはれはまされる」と 御尋ねありければ、「待つ宵の ふけゆく鐘の 声聞けば かへるあしたの 鳥はものかは」と よみたりけるによってこそ、待宵とは召されけれ。(「平家物語」巻第五 月見) |
摂河泉風土記
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JR京都線「島本」駅前の右手前方に、この辺りにしては立派な風格のある建物がみえる。 島本町立歴史文化資料館である。 前項で述べた「桜井の驛跡」の戦前の熱気の名残を示す建物であった。 パンフレット等によると、大阪財界の重鎮の一人で、旧三和銀行元取締役であった一瀬粂吉ら京阪地方の 有志により、楠公父子が別れたという「桜井の驛」跡の拡張整備するとともに、昭和16年(1941)記念館と して「麗天館」を建てた。 戦後は「大阪府立青年の家」の講堂として使われていたが、閉所後島本町に譲渡され、平成20年(2008) 歴史文化資料館として現在の形で開館したものだ。 入ってみると、町内の歴史スポットの紹介や昔の生活用具、民具、出土品などを展示してあった。 この辺りも、かっては大阪、京都の長閑な近郊であったに違いないが、急速な都市化、市街地化で多くの 物が消えた。 ここに少しでも遺されれば・・、とおもった。 |
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晴れたり曇ったりして天気が定まらない日、JR京都線「島本」駅を出た。 駅のすぐ左手に史蹟公園「桜井の驛跡(楠正成伝説地)」があった。 ここは、建武3年(延元元年 1336)九州から攻め上って来る足利尊氏勢を迎え撃つため、兵庫に赴く楠正 成(クスノキマサシゲ)が討死覚悟し、その後を託すために嫡子正行(マサツラ)と別れたと伝えられるところである。 正行の生年がはっきりしていないが、太平記では正行は11歳(異本では13歳)となっていて、涙をそそる。 また、正行に与えた庭訓の中に、この時の正成の心情をうかがうことができて興味深い。 しかし、この時正行は20歳ぐらいになっていた筈という説や、「桜井の別れ」は「太平記」以外に資料に はなく、そもそも「桜井の別れ」はなかった、という説もある。 とはいえ、戦前は楠正成は神格化され、「桜井の別れ」の物語は、教科書に必ず載り、唱歌にされた。 そして「桜井の驛跡」は楠正成ゆかりの地として一大聖地になった。 このため、公園内には多くの石碑や所縁のものが今でも置かれていた。 ここが楠正成ゆかりの地として整備された発端は、明治9年(1876)英国公使ハリー・S・パークス等が西国街 道沿いに建立した「楠公父子訣児の処」碑であった。 明治末年に結成された楠公父子訣児之処修興会等によって敷地が拡張され、大正10年(1921)には国の史跡 に指定された。 昭和10年(1935)には「大楠公600年祭」が大々的に催されたという。 戦前は「桜井驛跡」周辺では記念品を売る店や食堂があり、記念絵葉書の販売もあったそうである。 今見渡したところ、駅右手に建つ「島本町歴史資料館」がかって賑わっていた頃建てられた「麗元館」と いう以外賑わいを彷彿させるものはなかった。 JR島本駅通りに面して建つ 側面に 「史蹟 名勝天然記念物保存法により 大正10年3月 内務大臣指定」 と刻んであった 「楠公父子訣児の処」碑 明治9年(1876)11月建立 正成を顕彰した碑 表題字は大阪府権知事渡辺昇の書 裏面に英国公使ハリー・S・パークスの英文が刻まれている。 「西暦1336年湊川の戦いに赴くに際し、この地で子・正行と別れた。忠臣・楠正成の忠義を外国人として讃えるものである。ハリー・S・パークス」 楠公父子別れの石像 平成16年(2004)造立 台座の「滅私奉公」の題字は近衛文麿の書 元は、昭和15年(1940)新京阪電鉄(現阪急電鉄)「桜井の驛」前の青葉公園に建てられた銅像だったが、戦時供出によりコンクリート製になり、戦後移転したりしたが、有志により現在に至っている。 松尾芭蕉は桜井の別れの画像を見て、次のように詠んでいる。 いうまでもなく、「楠」は忠義の心が鉄石の如く堅固な正成、「なでし子」は11歳の正行をさしている。
正成之像
鉄肝石心此人之情
「楠公父子訣別之所」碑 大正2年(1912)7月建碑 題字は陸軍大将・乃木希典の書 裏面には枢密院顧問官・細川潤次郎の撰文、寺西易堂の書 明治天皇御製碑 昭和6年(1931)建碑 表面の書は海軍元帥・東郷平八郎
裏面上部「七生報国」は小笠原長生の書、下部の漢詩は頼山陽の「翁過桜井驛」の詩で、文政8年(1825)尺代村に来遊した時の作と思われる。 書は第四師団長・林弥三吉 明治27年(1894)建立 当時は「楠公父子訣児の処」碑と並んで玉垣の中にあった。 昭和14年(1935)史跡の拡張により現在地に移された。 旗掛松、子別れ松とも呼ばれる。 西国街道の端にある枝を広げた老松のもとに駒を止め、楠父子が訣別したと伝えられる。 明治30年(1897)枯死し、一部切り取って小屋に保存。 楠正成、これを最後と思ひ定めたりければ、嫡子正行が十一歳にて父が供したりけるを、 桜井の宿より河内へ帰し遣はすとて 庭訓を遣しけるは、 「獅子は子を産んで三日を経る時、万仭の石壁より母これを投ぐるに、その獅子の機分あれば、 教へざるに中より身を翻して、死する事を得ずといへり。 況や汝はすでに十歳を余れり。 一言耳に留まらば、吾が戒めに違ふ事なけれ。 今度の合戦天下の安否と思ふ間、今生に汝が顔を見ん事、これ限りと思ふなり。 正成討死すと聞かば、天下は必ず天下は将軍の代となるべしと心得べし。 しかりといへども、一旦身命を資(タス)けんがために、多年の忠烈を失ひて、降参不義の行迹(フルマヒ) を致す事あるべからず。 一族若党の一人も死に残ってあらん程は、金剛山に引き籠り、敵寄せ来たらば、命を兵刃に堕し、 名を後代に遺すべし。 これをぞ汝が孝行と思ふべし。」 と、涙を拭って申し含め、主上より給はりたる菊作りの刀を記念(カタミ)に見よとてとらせつつ、 各東西に別れにかり。 (「太平記」巻第十六 楠正成兄弟兵庫下向の事) −桜井の訣別(青葉茂れる桜井の)− 落合直文 作詞 奥山朝恭 作曲 明治36年 1.青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木(コ)の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧(ヨロイ)の袖の上(エ)に 散るは涙かはた露か 2.正成涙を打ち払い 我が子正行(マサツラ)呼び寄せて 父は兵庫に赴かん 彼方(カナタ)の浦にて討ち死せん 汝(イマシ)はここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ 3.父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人 いかで帰らん帰られん この正行は年こそは 未だ若けれ諸ともに 御供(オントモ)仕えん死出の旅 4.汝をここより帰さんは 我が私の為ならず おのれ討死為さんには 世は尊氏の儘(ママ)ならん 早く生い立ち大君(オオキミ)に 仕えまつれよ国の為 5.この一刀(ヒトフリ)は往(イ)にし年 君の賜いしものなるぞ この世の別れの形見にと 汝(いまし)にこれを贈りてん 行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん 6.共に見送り見返りて 別れを惜しむ折からに またも降りくる五月雨の 空に聞こゆる時鳥(ホトトギス) 誰か哀れと聞かざらん あわれ血に泣くその声を |
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JR和泉府中駅から国道480号を東500mほどに行くと「雷落ちない、日本最古の寺、受験就職落ちな い、天神さんゆかりの寺」と言ったキャッチコピーが目に付いた看板が立っていた。 少し興味を持ったので、その近くの寺を覗いた。 西福寺といい、境内の奥に小さな本堂が建つ小さなお寺である。 創建は奈良時代の泉寺と仏性寺にさかのぼり、鎌倉時代初期、東大寺再興に尽力し、この地に生まれたと いう伝承がある俊乗坊重源が中興開基と伝わる。 雷とのかかわりは、奈良時代天平宝宇2年(758)仏性寺で沙弥道行(シャミドウギョウ)が雷封じのため大般若 経を書き写し伊勢神宮に奉納した、ことにあるようだ。 因みに、奉納した大般若経は、伊賀の常楽寺に現存する「大般若経」(国宝)がそれであるとのこと。 本堂の、向かって右に側に雷井戸があり、次のような伝説が伝わっている。 昔、境内の井戸に雷が落ちた時、村人が井戸に蓋をして雷を閉じ込めた。 逃げ場を失った雷は許しを乞うた。 その時、この地(桑原という)に今後絶対落ちないと約束した。 それで、村人は井戸の蓋を取り、雷を逃がしてやった。 それ以来この地に雷は落ちないといわれており、雷鳴すると「くわばら、くわばら」というのはこれに由 来するとのことだ。 この伝説は、江戸時代の「和泉名所図絵」にも記載されているとのことだった。 天神さんゆかりの寺という「天神さん」とは、菅原道真のことではなく、まさしく雷神のことだった。 看 板 本 堂 本尊は十一面観音、難聴・耳鳴りなどの病気平癒にも御利益があるとか。 秘仏なのか、本堂の扉から覗いてみると厨子の扉は閉まっていた。 雷井戸 本堂の横にあり、石垣に囲まれ石で蓋が閉まっていた。石の上に小銭が置かれてあった。 絵 馬 図柄は風神雷神図であった。 |
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施福寺の参拝を終え、頃山道を下っている頃に、アメリカ大統領選は現職のオバマが勝利を収めた、とイ ンターネットは伝えていた。 出発までに、時間が少しあるようなので、参道入り口近くにある満願寺に足を運んだ。 門前には「満願弁財天」と記された幟が立てられ、標柱もそうなっていた。 本尊は弁財天なのか?実のところ、本堂で参拝しても堂内が暗くてよくわからなかった。 本堂の裏には空海が修業したという「満願の滝」が流れていた。 「満願の滝」は全長70mほどの滝であるが、時期の所為であろうか、水量は少なかった。 |
が彼女を知ったのは、平家物語である。

