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行基は、慶雲元年(704)「もとの生家を掃き清めて仏閣となす」(「行基年譜」)として、行基が 誕生した生家を寺とした。これが家原寺(エバラジ)の開創である。 聖武天皇の頃伽藍が整えられ、勅願所となった。 その後衰退したが、西大寺再興で知られる叡尊が寛元3年(1245)再興した。 行覚が住職だった正和5年(1316)大和の菅原寺の本記を元に「行基菩薩行状絵伝」(重文)を完成させ、 行基信仰を喧伝した。 かっては多くの小院を有したが、兵火などで衰退した。 江戸時代には、田安家の帰依もあり寺勢を回復し、今日に至っている。 本尊は薬師如来像(秘仏) 33年に一度開扉されるとか。直近開扉は2004年 西国薬師第十五番霊場 行基菩薩誕生塚 塚の頂に六角屋根のお堂が建っており、中には行基菩薩の御影が掲げてあった。 開山堂 正面の扉に「興正菩薩、行基菩薩、弘法大師」と書いた紙が張り出されていた。 しかし、覗いてみると、2体像しかなかった。 興正菩薩とは、西大寺再興で知られ、家原寺を再興した叡尊。 平成元年(1989)建立 総檜造り 本尊として金剛界大日如来を安置 弘法大師像を安置する。 |
摂河泉風土記
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家原寺(エバラジ)は、山号を一乗山と号し、高野山真言宗の別格本山である。 行基が慶雲元年(704)誕生した生家を寺とし、自刻の文殊菩薩を安置したのが、始まりと伝える。 一乗山の謂れは、お経の中に「一乗菩提峰如 菩薩修行記」という言葉があり、人が仏となる修行をする 場所と言うことから来ている。 また、家原寺とは、「家」は行基自身の生家、「原」は行基の両親、特に母のお腹を指している。 南大門の正面奥に、家原寺の本堂(文殊堂)が建つ。 本堂の手の届く範囲には、願い事(ほとんどが合格祈願だが)を書いた白いハンカチ貼り付けられ、一種異 様な感じをうけた。 外陣に入ると、奉納された額や絵馬が多数掲げられていたが、柱や梁にはチョークで落書きされてい た。 家原寺は別名「落書き寺」とも言われ、落書きは許されているらしい。 外陣に佇んでいると、落書き、ハンカチ、絵馬などから受験生の必死の思いが伝わる。 は思う、自分の力では及ばぬ部分は、神仏にお願いすればよい。しかし、その前にマキャヴェッリの、次の言葉を知っておくのも悪くない。 私たちの、自由意志が消滅してしまわないように、 私たちの諸行為の半ばまでを運命の女神が支配しているのは真実だとしても、 残る半ばの支配は、あるいはほぼそれくらいまでの支配は 彼女が私たちにまかせているのも真実である。 (河島英昭訳「君主論」25章) 慶安元年(1648)再建 本尊は行基作と伝えられる文殊菩薩(秘仏) 本尊の行基作と伝えられる文殊菩薩は秘仏の為、厨子に納められており、お前立ちの文殊菩薩像が厨子の前に安置してあった 内陣とは格子で区切られ、額、絵馬が掲げられ、小絵馬や千羽鶴がぶら提げられていた。 梁や柱にはチョークで落書きがしてあった。 外陣の額・絵馬 小絵馬は達磨さんの顔の図柄に五角形という珍しい形だった。 |
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貝塚市内の行基に所縁のある寺に参拝してきたので、その帰り、行基生誕地として、又、「智慧の文殊」 として知られる「家原寺(エバラジ)」に寄った。 JR阪和線津久野駅で下車して、南口から約10分歩いた所に建っていた。 本尊は行基自刻の文殊菩薩(秘仏)、ご利益は学業成就とか。 平日で寒い日にも拘らず、参拝者の姿をちらほら見かけた。やはり受験シーズンの所為であろうか? 両側に仁王像が護る門 仁王像 南大門を入ると左手に建つ。 周囲はお百度参りする場となっている。 不動明王を安置する。 お堂の手前で入山料代わりに、境内清掃費を備え付けの箱に納める。 マニ車の中にお経が納められており、手で廻すとお経を一巻唱えたのと同じ功徳があると言われている。 ネパールより友好の印として贈られたもの。 手前は石鉢、奥が井戸 残念ながら、謂れは分らなかった。
地蔵堂
水掛地蔵尊が安置されている。 |
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相当な年配者だったら、昭和37年(1962)頃起きた「水間寺事件」を思い出すかもしれない。 直木賞作家でもあった故今東光が住職を務めていたことから、相当新聞を賑わせていた。 それから約半世紀、あれはどう決着付いたのだろうかと思いながら境内を巡った。 秬谷川(キビタニガワ)に架かる通天橋を渡り、水間公園の方へ向かった。 途中に行基堂、薬師堂、観音堂等の堂宇があるからだ。 この辺りになると、一般の参拝者はほとんど来ない。 すれ違ったのはジョギング姿の人であった。 17世紀中頃の建物。 開山・行基像を安置する。 鏡池は行基が開削したといわれ、行基が鏡代りに水の面に姿を写したからこの名が付いた。 この池は蛙も蛭も棲まないという。 聖き水には汚れた生き物は生きることができないからだというが、その割には、見た目には汚れていた。 池の中央に建つ小堂は瑞泉堂。 聖観世音菩薩像を安置する。 行基水、薬師水とも呼ばれる。 近くの薬師堂に安置する薬師如来にお供えする水を汲む。 小さな覆屋が付けられている。 行基が勅命により、聖観音の出現を願い、自ら彫った薬師如来像を祀るために建立。 現在の建物はコンクリート製。 満州で犠牲になった開拓民方がたの霊を祀る。 平成3年(1991)大阪府開拓民自興会建立 |
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境内にお夏清十郎の墓があると、Nさんから聞かされていた。 が知る「お夏・清十郎」といえば、寛文2年(1662)、大店の娘・お夏と、手代・清十郎の駆け落ち事件で、結局二人は捕まり、清十郎は死罪、お夏は気が狂ってしまうと言う悲恋で、浄瑠璃、歌舞伎、その他文芸 作品の題材となっていて、広く知られている物語だ。 また、(まだ訪れてはいないが)お夏清十郎の墓が姫路城下慶雲寺にある。 それが何故、水間寺に?と思った。 しかし、こちらの「お夏・清十郎」は身分の垣根を越えて恋愛成就するという、全く時代も筋も違う物語 であった。 二人の墓は、恋愛成就のご利益のある愛染堂の前庭にあった。 この物語を題材にした映画が作られたのであろう、往年の大スター田中絹代、林長二郎(長谷川一夫)が 奉納した花筒が置かれてあった。 縁結びの仏様・愛染明王を祀る。 恋愛祈願、良縁祈願に訪れる参詣者が多いそうだ。 愛染堂 本尊は、行基が椿の木から刻んだと言われる愛染明王、 中を覗いても仏様の御姿は良く分らなかった。 本尊が椿の木を刻んだ仏様ということで、図柄は椿の花であった。 お夏清十郎の墓 高さ1.5mほどの宝篋印塔で塔身には梵字が浮き彫りされている。 前の一対の石造花筒には(向かって左に)田中絹代、(右)林長二郎の名が刻まれている。 「お夏清十郎」の物語は、境内に建つ、それをを刻んだ碑によると次の通りだった。 鎌倉時代末のこと、伏見天皇の勅使が水間寺を参拝した。随身に山名清十郎がいた。 勅使供応に出た地元の豪農・楠右衛門の娘・お夏は、清十郎と相思相愛の中になるが、身分の違いで別れな けばならなかった。 しかし、清十郎を忘れる難いお夏は、水間寺の愛染明王に、毎夜再開を祈願した。 やがて、南北朝の戦が始まり、清十郎は南朝方として出陣し、住吉渡辺橋の戦で敗者の身になってしま う。それを聞いたお夏は、戦場に赴き清十郎を探し求める。 愛染明王の御加護により、住吉の松原で巡り会い、水間に手に手にとって帰った。 山名清十郎の生存を知った北朝方は、水間に追手を差し向けた。 その時、清十郎の家来・山名忠平が身代わりになって首を討たれた。岸和田淨円寺の首塚がそれである。 その後のお夏と清十郎は仲睦ましく暮らした。 とまれ、伏見天皇は永仁6年(1298)に譲位している。また、南北朝の戦が始まるのは元弘元年(1331)だ。 と言うことは、お夏が清十郎に再会したのは30年以上経ていることになる。 愛染明王の御加護をもってしても、恋を成就するにはこれぐらいの時を必要とする、と言うことなのか? 元禄年間(1688〜1704)に建立 本堂と愛染堂の間に位置する処に建つ。 |
は思う、自分の力では及ばぬ部分は、神仏にお願いすればよい。


