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本堂前には経堂、鐘楼、宝篋印塔、説法石や石仏があった。 本堂の右手を降りてゆくと、行基が勧請した鎮守権現宮があり、その先に水間寺創建の由来となった「聖 観音出現の滝」が眼下に見えた。滝と言うにはどうかと思うほどの小さな落差の水の流れだった。 天平16年(744)聖武天皇が42歳の時、病気に罹られ、「ここ奈良の都より西南の方向に観世音菩薩がご出 現なされる。」との夢告があった。 そこで、聖武天皇は、行基にこの仏像を探すよう命じられた。 行基は、夢告に従い、この地を訪れたところ、16人の童子が現われ、滝のあたりに導いた。 そこで、行基は白髪の仙人に逢った。 仙人は行基に聖観音菩薩の尊像を手渡し、龍になって昇天した。 この尊像を聖武天皇に捧げたところ、病はたちまち全快した。 聖武天皇は、この尊像を現地にお祀るよう勅命を下し、行基がこの水間の地に堂を建立した、と言うの が、寺記等が伝える水間寺の創建譚である。 本尊の観音像は天皇の病を平癒させたことから、病気平癒という現実的な悩みを聞いてくださる仏とし て、さらに、利益衆生を期待した「厄除け観音」の名で親しまれてきた。 大般若波羅密多経、と大蔵経を納めている。 入口正面に傅大士像と二人の息子普建、普成の像を安置していた。 経堂の入口に安置していた。 傅大士は中国南北朝時代(157〜569)の人、 仏心篤く、又輪蔵を考案したといわれる。 二人の息子、向かって左が長男の普建、右が次男の普成 或る日水に映った父・傅大士の影が、その頭上の天蓋の後に後光が射している様に見えたので、兄普建がこれを指し、弟普成が両手を挙げて驚いている様相を、示している。 千日隔夜宝篋印塔 享保12年(1727)建立。 基壇の一面に前かがみになって胸の前に鈷をさげ、念仏を唱えている隔夜僧を浮き彫りにしている。 行基が熊野権現、蔵王権現、白山権現を勧請したもので、水間寺創建時より祀られている。 今から凡そ1300年前、行基が龍神より聖観音菩薩像を授けられた浄域。 観音像が降臨したという座光石の側面に伝教大師が不動尊を刻み、弘法大師の名号石もあるとのこと。 現在は近づけない様に金網フェンスで囲まれていた。 |
摂河泉風土記
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貝塚から水間鉄道に乗り執着の水間駅まで行く。10駅 15分ほどだった。 この水間鉄道は貝塚市域の臨海部と内陸丘陵部約5.5kmを結んでいる。 もともとは大正15年(1926)名前の由来ともなっている水間観音への参拝客輸送の為に設立された鉄道 だ。 水間駅から10分ほど歩くと、目指す「水間観音」こと「水間寺」に着いた。 平成22年(2010)完成した石造りの「厄除け橋」を渡り境内に入ると、三重塔と本堂が目に入った。 水間寺は、山号を龍谷山、天台宗別格本山で、聖武天皇勅願により行基が開創した寺である。 本尊の聖観音菩薩像は「厄除観音」の名で親しまれており、厄除け、縁結びにご利益があるとか。 早速、東北地方の一刻も早い復興を祈願に本堂に向かった。 三重塔・本堂 三重塔は、かっては多宝塔で多宝如来を安置していた。 古い記録では孝謙天皇が、舎利塔を安置したと伝える。 天正の兵乱で焼失したので萬治年間(1658〜1661)改めて三重塔を建て、釈迦如来を安置した。 その後、失火焼失したので天保5年(1834)再建している 井原西鶴の「日本永代蔵」に記載された「水間寺の利生の銭」は、三重塔の前身の多宝塔建立の説話がモデルと言われている。 なお、この三重塔は江戸時代のもので現存する大阪府下唯一。 天正13年(1585)の兵火(秀吉の根来攻め)と天災で焼失したのを、文政10年(1827)岸和田城主・岡部長愼により再建。 本尊:一寸八分(約5.5cm)の聖観世音菩薩(秘仏) 外陣正面には大きな提灯がぶら提げられ、 その前に鰐口が取り付かれていた。 写真には入っていないが、縁の端には 賓頭盧尊者が置かれていた。 新西国第四番霊場
本堂広縁で裏側に回ると 普賢菩薩像が安置してあった。 本尊の観世音菩薩像が図柄になっている。 初午に乗ってくる仕合せ 江戸にかくれなき俄分限 泉州水間寺利生の銭 (昔、水間寺には賽銭を借用して翌年倍返しする風習があった。ある時、若い男が銭一貫を借用を申し出、寺は名前も国元も聞かず貸してしまった。その後音沙汰がなかったが・・・) その人の住所は武蔵江戸にして 小網町のすゑに 浦人の着きし舟問屋して、次第に家栄えしを よろこびて、掛硯に「仕合丸」と書付け、水間寺の銭を入れ置き、猟師の出船に、子細を語りて、 百文づつかしけるに、借りし人自然に福ありけると遠浦に聞き伝えて、せんぐりに毎年集まりて、 一年一倍の算用につもり、十三年目になりて、元一貫も銭八千百九十二貫にかさみ、東海道を 通し馬につけ送りて、御寺につみかさねければ、僧中横手打ちて、そののち詮議あって、 「末の世の語り句になすべし」と、都よりあまたの番匠をまねきて宝塔を建立、有難き御利生なり。 (井原西鶴「日本永代蔵」巻之一) |
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願泉寺を中心に発展した貝塚寺内町は、東は南海本線、西は大阪湾、南は清水川、北は北境川で囲まれた 中町、北町、南町、西町、及び近木(コギ)町が範囲だった。 その中心に紀州街道(現在の堺阪南線、旧国道26号線)が西南から東北に貫通する。 現在でも、中町、北町、及び西町の範囲に、寺内町の名残りの住宅が点在し、そのうち10家が登録有形 文化財の指定を受けている。 それらの内6家ばかりを見てまわった。 いずれも江戸時代からの建物で現在も人が住んでおられる生きた建物であった。 したがって、時代に合わせた改造は行われているが、寺内町時代の面影は十分に残していた。 ただ残念なのは、これら住宅が点として存在しているだけで、連続した町並みとして、或いは、街全体と しての景観維持への取り組みや工夫が見られなかったことだ。 このままでは遅かれ早かれ消えてしまうことだろう。 並河家は願泉寺住職卜半(ボクハン)家の旧家臣 主屋:天保3年(1832) 土蔵:江戸時代後期 山田家は願泉寺住職卜半(ボクハン)家の旧家臣 主屋:江戸時代末期 竹本家、利斎家住宅 堀之町筋に面して、(手前右が)竹本(久男)家住宅、(その左が)利斎家住宅が並んでいる。 その先に(登録有形文化財に指定されていない)帯谷家住宅が建つ。 竹本家は旧木櫛製造業、東主屋:江戸時代末期、西主屋:昭和7年(1932)頃 利斎家は旧薬種問屋、主屋:江戸時代中頃、土蔵:江戸時代後期 岡本家は旧醤油製造業 主屋:江戸時代中期 天保12年(1841)増築 土蔵:江戸時代中〜後期 宇野家は旧鋳物製造業 主屋:江戸時代末期 東蔵:江戸時代末期 西蔵:明治時代 尾食家は旧旅籠屋・両替商 主屋:天保10年(1839) 昭和6年(1931)国道26号線(現、府道堺阪南線)拡張に伴い切断された。 尾食(オメシ)という姓は紀州の殿様が、参勤交代時に当家で食事したことからと言われている。 |
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願泉寺を出ると、御坊通りを挟んで向かいのお寺に、立派な樹形のカイツカイブキが見えた。 寺は尊光寺(ソンコウジ)といい、山号は二位山、浄土真宗本願寺派に属する寺院であった。 創建年代は明らかでない。 高野山の正了により、真言宗の寺として新井村に開基したと伝えられる。 明応2年(1493)本願寺第8世蓮如に帰依して本願寺末に改宗したとされている。 大永4年(1524)本願寺第9世実如より方便法身(ホウベンホッシン)像を授けられ、尊光寺と称した。 天正16年(1588)貝塚寺内の現在地へ移転した。 明治初年まで興正寺派に属し、江戸時代には麻生郷7ケ村の檀那寺として、各村の道場を支配した。 境内の立派なカイツカイブキは、本堂の前に生え、移転当時からの木と言われているので、樹齢500年程 と想像される。 近づいて見ると、樹の表面は凸凹し、幹の直径は60cmを超えるものであった。 ただ、近くで見るより、むしろ少し離れて全体の樹形を眺めた方が、樹の風格さ、立派さがよく感じられ た。 享保8年(1723)再建 向かって右に鐘楼が立ち、 左に名物のカイツカイブキが生えている。 尊光寺が現在地に移転した時から生えている、といわれている。 幹の径は60cmを超える。 |
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感田神社から北に向かって数分歩くと貝塚寺内町の中心寺院・願泉寺が建っていた。 願泉寺は平成16年(2004)から平成23年(2011)の7年間の予定で「平成の大修理」を実施していて、既に終 了しているようだ。 しかし、境内の整備はなお実施中で、太鼓堂近くでは何やら建設工事をしていた。 願泉寺は、山号が金凉山、浄土真宗本願寺派の寺院で、貝塚御坊とも呼ばれる。 元々は、自刻の阿弥陀如来を安置する為、行基が建てたと伝えられる草庵である。 天文14年(1545)無住であった草庵に、紀州根来寺から卜半(ボクハン)斎了珍を迎え、一向宗の街造りが始め られた。 石山本願寺から寺内町に取り立てられ後、天正5年(1577)には、その支城として織田信長と戦い、 町は焦土化した。 その後、寺も町も再興され、天正11年(1583)紀州鷺ノ森より顕如上人を迎え、同13年(1585)大阪天満に移 るまでの2年間、本願寺御堂となった。 江戸時代には、町は願泉寺の寺領とされ、住職の卜半家の支配が続いた。 願泉寺の名は慶長12年(1607)第12世准如上人から授けられたもの。 平成の大修理を終えた本堂、太鼓堂、表門及び附として鐘楼、築地塀、目隠塀は重要文化財の指定をうけ ているものである。 表門は延宝7年(1679)再建 四脚門 重文 表門左右の築地塀は寛文11年(1674)築 重文 築地塀越に太鼓堂(重文)が覗く 表門正面の冠木長押(カブキナゲシ)上に龍の彫物がある。 元禄3年(1690)作の銘があるそうだ。 表門扉には透彫で装飾され、 表門はこのほか四周組物間に透彫の彫物を置くなど全体的に極めて装飾性が高い。 江戸時代築 重文 柱間三間の築地塀 背後の大きな建物は本堂 表門の正面に位置する。 寛永3年(1663)再建 重文 本尊:阿弥陀如来立像 桁行27.8m、梁行27.0m 外陣外回りは蔀戸、周囲に広縁を廻している 広縁の端には、板戸となっており、雉と桜の絵が描かれていた。 本堂から見て、境内の右手に建つ。 鐘楼は、元禄13年(1700)築、昭和23年(1948)移築 重文 旧鐘楼は戦災で焼失したので、昭和23年貝塚市森の廃青松寺の鐘楼を移築したもの。 吊られている梵鐘は鎌倉時代のもの。(府文化財指定) 本堂から見て、境内の左手に建つ。 太鼓堂は享保4年(1719)再建 重文 切石積の基壇の上に建つ重層の建物。 下層は方3間、四方に花頭窓がある。 上層は方2間、格狭間形の窓があり、中央に巨大な太鼓を備えている。 |



