ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

摂河泉風土記

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観心寺は梅、桜、牡丹、芙蓉、紅葉と季節折々楽しめる花の寺として近在では知られている。

:)が訪れたのは3月末日であった。観心寺境内の梅林は満開と云うより、やや盛りが過ぎたという感じで

あった。  

しかし、春の長閑な日差しの下、梅の花の美しさを充分堪能できた。

梅林を歩いていると、奥に牛滝堂、恩賜講堂、霊宝殿があった。

霊宝殿には、重文の、厨子入聖僧像、藍葦威肩赤腹巻(アイカワオドシカタアカハラマキ)、楠木家文書、現存最古と言わ

れる鉄灯篭などと共に、多くの平安期の仏像が、間近に拝見できた。

多くの仏像は、仏像の解説書、例えば「日本の仏像(講談社)」、にも紹介されている馴染みのものであっ

た。

同時に、このような山中の寺院に、多くの古仏像が保存されていたことに驚きを禁じえなかった。


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                                梅 林


イメージ 2 牛滝堂
大威徳明王を安置する。


イメージ 3 恩賜講堂
楠公祭には、剣道大会が開かれる。

かかりし程に 湊川にて討たれし楠正成が首をば六条河原に懸けられけり・・・・・

・・・その後尊氏卿、楠が首を召し寄せられて、「朝家私日久しく、相馴れし旧好も便なり。

彼が跡の妻子ども、さこそ今一度空しき皃(カタチ)をも見たく思ふらめ」とて、正成が遺跡(ユイセキ)

へぞ送り遣はされける情けの程こそありがたけれ    (「太平記」巻第16)

楠木正成は弟・正季(マサスエ)と共に、九州から攻め上る足利尊氏を迎え撃つべく、神戸湊川に出陣したが、

延元元年(1336)5月25日衆寡敵せず敗死する。

尊氏は正成の首を京都 六条河原に晒した後、妻子のもとに送り届けた。

敵将尊氏でさえ正成に対し畏敬の念を持っていたようだ。

正成の首は観心寺に葬られ、現在でもその首塚が境内の奥にあった。

戦前は「忠臣大楠公」として正成があがめられた時故、命日には供養が、国家的行事として大々的に行わ

れていたらしいが、今では地元の人たちが中心にしめやかに行われていると聞く。

近くには正成の師・滝覚坊の墓、忠魂の碑が建っていた。

また、山手には後村上天皇桧尾陵(ヒノオリョウ)があり、正成の首塚近くに後村上天皇の母・阿野廉子(アノレンシ)の

墓がひっそりと木々の中にあった。


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                             楠木正成首塚
明治以降相当整備されたようだ。20日〜26日の日曜に楠公祭が催される。

正成の墓、摂州湊川にあるは軀墳なり。ここ(観心寺)に在るは首塚なりという (貝原益軒「南遊紀行」)


イメージ 3 滝覚坊墓
楠木正成の師、和田氏の子孫


イメージ 4 忠魂塔
正成首塚に向かって右手に立っている。


イメージ 8 天誅組讃蹟碑
明治維新の前夜の文久3年(1863)8月
元侍従の中山忠光を擁する天誅組が
大和五條に討ち入る前に立ち寄り、
正成の墓前で戦勝を祈願した。


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                           後村上天皇桧尾陵
御陵入口から約230段の石段を上っていった山腹に陵が築かれていた。
後村上天皇は後醍醐天皇の皇子、幼名・義良(ノリヨシ)親王、延元4年(1339)12歳で第97代天皇として践祚、
正平23年(1368)住吉大社で崩御


イメージ 7 新待賢門院墓
後醍醐天皇の后妃で
後村上天皇の母・阿野廉子(アノレンシ)の墓

観心寺の境内には、御影堂、行者堂、開山堂、と寺に所縁のある僧、行者の像を祀る堂が点在し、四国八

十八ヶ所お砂踏み道場がある点では、他の寺院とそう変わりがないと思える。

しかし、金堂を囲むように7つの星塚が存在するのは、ここ観心寺だけだ。

大同3年(808)弘法大師空海が金堂前にある礼拝石に座り勧請した北斗七星の塚だ。

北斗七星(七星:シツショウ)に厄除消除・福寿増長を願うのが密教の星祭。

真言宗では一般に、正月や冬至・節分に行われるが、全国で唯一星塚のある観心寺では節分の日の星祭を

最も重視する。

いつでもだれでも星めぐりはできるが、星祭の日は特別に参拝者が多いとのことだ。

参拝は、まず最初に金堂の如意輪観音に参拝した後、時計回りに、7つの星塚を廻り、最後に金堂前石段

下に鎮座する訶梨帝母天堂(カリテイモテンドウ)にお参りして、締めくくる。

星塚霊場の参拝路は整備されており約10分で一巡できるが、:)はひと気が無いのを幸いに一つ一つの

星塚に丁寧に参拝するなどして、ゆっくりとまわった。それだけ煩悩が多いと言う事かも知れない。

イメージ 1 御影堂
弘法大師空海を祀る。
参拝すれば進学、学業成就の御利益


イメージ 2 行者堂
役行者を祀る。
ご利益は霊験力向上


イメージ 3 お砂踏み道場
御影堂、行者堂を囲むようにして
四国八十八ヶ所のお砂を埋納したミニ巡礼道である「お砂踏み」が作られていた。


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                               星塚一 貪狼星
星座は空海が祈願して降ったという7つの自然石を祀る。
梵字の刻まれた石を抱え込むように樹木が茂り、それを板垣が囲む。
星塚一貪狼星(トンロウジョウ)から始まって、二 巨門(コモン)星、三 禄存(ロクゾン)星、四 文曲(モンコク)星、五 廉貞(レンジョウ)星、六 武曲(ムコク)星、七 破軍(ハグン)星と名の付いた星座を巡る。


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                               星塚七 破軍星
北斗七星星塚霊場の七番目の星塚「破軍星」が一番大きく、目立つ塚であった。
ここでは、東日本大震災の被災地の一刻も早い復興と福島原発の沈静化を祈願した。


イメージ 8 開山堂(本願堂)
江戸時代初期の建立 宝形造 桧皮葺
実質的開基・道興大師実恵(ジチエ)を祀る。
堂の背後には道興大師実恵の廟がある。

観心寺は高野山真言宗の遺跡(ユイセキ)本山で、山号は檜尾山。

文武天皇の大宝元年(701)役小角(エンノオズヌ 役行者)によって開かれ、始めは雲心寺といった。

その後、平安時代の初め大同3年(808)唐から帰朝して間もない弘法大師空海が訪れ、境内に北斗七星を

勧請した。

さらに、空海は弘仁6年(815)本尊の如意輪観音を刻んで寺号を観心寺と改めた。

空海は高弟で甥の道興大師実恵(ジチエ)に後を託した。実恵はその弟子真紹と共に天長7年(827)より

伽藍建立に着手した。貞観11年(869)には清和天皇が勅願して官寺に準ずる「定額寺」となり、以後、朝

廷の信頼厚く、国家安康と厄除けの祈願寺として、また高野山と奈良・京都の中宿として栄え、

鎌倉時代にかけて寺運は興隆し、南北朝時代には後醍醐天皇の帰依を受け南朝の勅願寺となった。

しかし、南北朝合一以降朝廷との関係は希薄になり、支配層から次第に圧迫されていった。

最盛期には50余坊あった塔頭も江戸時代末には12坊となり、現在は2坊となっている。


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                              金 堂
室町時代初期建立 七間四方 単層入母屋造 大阪府下最古の国宝建造物
建武新政後(1334年頃)後醍醐天皇は楠木正成を奉行に金堂外陣の造営の勅を出されて現在の金堂ができた。
昭和59年(1984)昭和大修理の落慶をみた。そのため、白壁や組み物の丹色も鮮やかである。



イメージ 2 金堂内陣
本尊は如意輪観音、脇侍は不動明王、愛染明王
本尊・脇侍は夫々厨子に納められていた。
毎年4月17,18日に開扉される。
厨子の前には四天王像が安置されていた。



イメージ 3 外陣の賓頭盧尊者
御馴染みの撫で仏様だ。



イメージ 4 礼拝石
金堂前にある石
空海がここで北斗七星を勧請したと伝わる。
礼拝石の先に立っている鉄灯篭は現存する最古の鉄灯篭(重文)のレプリカ。
本物は霊宝殿に展示してある。


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                               建掛堂
三間四方 萱葺 重文 内部に大日如来を安置する。
楠木正成が建武中興の無事を祈って、三重塔を造営始めたが、延元元年(1336)湊川で自刃した為、初層のみで未完のまま現在に伝わる。
木組み部分にくらべ、萱葺屋根がいやに大きい。
なお、文明年間(1469〜87)に塔が再建されたという記録もあり、三重塔の上層が朽ち果てて現在の姿になったという説もある。


イメージ 6 鐘堂



イメージ 7 弁天堂
財運招来の御利益あり



イメージ 8 阿弥陀堂

JR神戸駅近くの湊川神社に在る「楠木正成の墓」を参拝した時から、楠木正成ゆかりの寺・河内の観心寺に

いきたいと思っていた。 

 そう思ってから随分時間が経った。 そこで気候も良いので出かけてみた。

南海電車高野線河内長野駅で下車し、「石見川、金剛ロープウエイ、小吹岩行き」のバスに乗り込む。

バスは金剛葛城のハイカーで満席だった。

約15分、「観心寺」バス停で下りる。 既に自然豊なところであったが下りたのは :)一人だけだった。

直ぐ目に付く本坊門を過ぎ、寺の築地塀に沿って歩くと、駐車場があり、そこには観心講記念碑、や楠木

正成の騎馬像が建ち、この寺が楠木正成ゆかりの寺であることを示していた。

山門から境内に入ると直ぐ、後村上天皇旧跡碑、や正成が学んだという中院があり、南北朝時代に入り込

んでいく気がした。

楠木正成ゆかりの建物史跡としては、中院のほか、後醍醐天皇が正成に外陣造営の勅を出した金堂

(国宝)、正成が造営し始めた三重塔の初層・建掛堂(重文)、足利尊氏が妻子のもとに届けた・正成首塚

があった。

これらについては次稿以降に紹介する。

イメージ 1 本坊門
国道301号線に面し、バス停から直ぐ目に入る。
奥に通じる勅使門、本坊は修理工事中で素屋根が覆われていた。



イメージ 2 観心講記念碑
国道301号線に面する駐車場の端に建つ


イメージ 3 楠木正成銅像
国道301号線に面する駐車場に建つ。
昭和49年(1974)再建
楠木正成所縁の寺であることが分る。


イメージ 4 山門前
国道に面する。
門前には史蹟標「史蹟観心寺」や
寺号「勅願道場南朝史蹟観心寺」
の石標が建つ
山門は朱色に塗られた四脚門である。
寺の正面に造られた楼門を普通山門と云うから
現在のものは、もとは中門だった。


イメージ 7 後村上天皇旧跡
塔頭の惣持院跡である。
正平14年(1359、延之4年)後村上天皇は
惣持院に約10ヶ月間行宮(アングウ)を置いた。



イメージ 5 参 道
参道は緩やかな登り坂道になっている。
参道の置くには国宝の金堂が建ち、
参道途中の向かって左側に中院、
右側に鎮守堂(訶梨帝母天堂)、拝殿が建つ



イメージ 6 中院門
中院は開山道興大師実恵(ジチエ)の弟子真紹が創建した塔頭
楠木正成の曽祖父が再興し、楠木家の菩提寺となった。
楠木正成は8歳から15歳までの学問所で
僧滝覚(リュウカク)に学んだと言われる。




イメージ 8 鎮守堂拝殿
金堂前石段下に鎮座する鎮守堂(訶梨帝母天堂)
を見上げる様に建つ



イメージ 9 鎮守堂(訶梨帝母天堂)
一間社春日造 桧皮葺  重文 
興国5年(1344)後村上天皇が楠木正成の長子・正行(マサツラ)に命じて再興したといわれるが、
現在の建物は天文18年(1549)再興。
慶長19年(1614)豊臣秀頼の命により片桐且元が修理している。
観心寺の鎮守訶梨帝母(カリテイモ=鬼子母神)を祀る。
訶梨帝母(カリテイモ=鬼子母神)はインドの神で
子授け、安産、育児の守り神である。

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