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昨日即ち2月26日、訳あって中山寺に参拝した。 天気は快晴の丁度参拝日和で人出は結構あった。 境内の堂宇を一通り巡った後、霊園を抜け、奥の院に向かう手前にある梅園を訪れた。 花は、早咲きの梅がポチポチ咲いていたが、全体的にはまだまだと云う感じで、見ごろは3月中頃という ところだった。 花色は白や濃い赤も若干あったが、ピンクが主体で彩り的にも変化の乏しいものであった。 しかし、温かで天気が良い所為か、訪れる人は多く、熱心に写真を撮っている人、花の下で寛いでいるカ ップル、弁当を広げている家族連れ等を見かけた。
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摂河泉風土記
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妙見山(660)頂上附近では、北斗星・北極星を神格化した北辰妙見大菩薩を祀る日蓮宗霊場「能勢妙見 山」があった。 参道入口に鳥居が立ち、狛犬が鎮座する、神仏混淆の名残りが強い「お寺」だ。 慶長10年(1605)能勢頼次が日乾上人を開山として開基し、勝海舟の信仰も篤かったという日蓮宗霊場とし て広く知られている。 北斗星・北極星はその昔から旅人の指針として仰ぎ見られた星と云うことから、人生の道を導き開いてく れる開運の守護神とされてきた。 正式には無漏山真如寺境外仏堂能勢妙見山」といい、神仏混淆の名残りで鳥居、狛犬があるが、明治の神仏分離のより寺院と明確された。
山門
建築年代不詳 総欅造り、山門が大阪府能勢町と兵庫県川西市の境である。妙見の「妙」は妙なる美しさ、「見」は姿の意が込められ、「美しい姿」と云うことで、江戸時代より 役者、芸能人などの歌舞音曲を志す人々の信仰が篤かった。この浄水堂の柱には「四代目中村歌右衛門の銘があり、150年前に寄進されたことがうかがえる。 明治29年(1896)改修 宗祖日蓮を祀る。 天明7年(1789)能勢頼直により再建。 明治28年(1895)大改修 北辰妙見大菩薩を祀る 寛政8年(1797)能勢頼直が建立 寛政8年(1797)能勢頼直が建立 |
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「里山が素敵だ」と云うNさんに誘われて能勢電鉄終点「妙見口」まで来た。 ここからは能勢の山々のハイキングコースの基点でもあるが、我々はケーブルカーで妙見山(660)に登る ことにした。 里山とは、人が生活の炭、薪などに使う為、定期的に伐採・利用されている山(二次林)のことを言う。 里山林では、十数年の周期で伐採・萌芽再生(切り株から新しい芽を出して樹木を再生)を繰り返す。 そのため、里山林は全体としてモザイク状の景観となる。 炭や薪を利用しなくなった現在では国内の里山林は放置され、その独特の景観が見られなくなった。 しかし、この辺りは今も炭を生産しており、里山景観が維持されており「日本一の里山」といわれている そうだ。 Nさんが誘うだけあって、妙見山に向う途中、日本の原風景と思わせる里山景観が広がっていた。
妙見山に向う途中の里山風景
妙見山参拝者の為の道標 「此れより御山二十二丁」と読める。 大正14年(1925)妙見山参拝者の為開業、戦時中一時撤去されたが、昭和35年(1960)営業再開 妙見山から里山風景 |
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堺の街をぶらりぶらり歩いていると、開口(アグチ)神社が目に入った。 面白い名前と思って境内に足を踏み入れた。 開口(アグチ)と云うのは旧村名からきていることが分ったが、神功皇后が創建に係わることが分った。 神功皇后が三韓より石津浜に上陸され、塩穴松原にて忍熊王(オシクマノミコ)の反乱を平定するべく戦勝祈願の 祈祷をしたおり、老漁師が赤目魚(鯛)を献上した。 神功皇后はそのことを吉祥の証と喜ばれ、八重潮路に向う地に、塩土老翁(シオツチオジ)の御霊をお祀せよと の詔により開口(アグチ)神社が創建されたという。 その後、天永4年(1113)開口(アグチ)村、木戸村、原村の3村の神社の併合により、三村宮、又は三村明神 とも称されるようになった。 地元では「大寺さん」とも呼ばれているらしい。 天平18年(927)行基により念仏寺が建立され、神仏習合の霊地となった。 その後、室町時代の応永32年(1395)朝廷の祈願所になり、さらに応永34年(1397)幕府の祈願所ともなり、 堺の街の中心となった。 そのことで、当神社を単に大寺と称えることにより、民衆の気持ちを表したのかと思える。 昭和39年(1964)再建 祭神 塩土老翁神(シオツチオジノカミ 元開口村の神) 素盞鳴神(スサノオノカミ 元木戸村の神) 生国魂神(イクタマノカミ 元原村の神) 狛 犬 向って左の狛犬は足元に子狛犬が寄り添っている。 境内の隅にあった。 塩土老翁神(シオツチオジノカミ)が影向の時、この石に腰掛け、その後に住吉へ向われ住吉の神になったとも、行基上人と法談した場所とも、弘法大師と対面された時の御座所とも言われる石。 因みに、開口神社は江戸時代には住吉奥之院とも称せられた。 |
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南宗寺を出て、堺駅に向ってぶらりぶらり歩いていると、村野紹鴎屋敷跡碑や千利休屋敷跡があった。 彼らの屋敷と南宗寺は直ぐ近くで、茶道を完成させた彼らの交わりの理由が分るような気がした。 更に歩み、堺のメインロード、大道筋に出ると、与謝野晶子の生家跡の碑が建っていた。 村野紹鴎は文亀2年(1502)大和国生まれ、後に堺に移った。 皮屋の号を持つ豪商の一人 若い頃京で三条西実隆に和歌を、村田珠光一門に茶の湯を学び、堺に帰り津田宗及、今井宗久、千利休らに珠光のわび茶を伝えた。 茶人北向道陳らと交友し、南宗寺の開祖大林宗套に禅を学んだ。 この屋敷跡には利休が常用していたといわれる「椿井」がある。 千利休は豪商魚屋(トトヤ)の長男として生まれ、名は与四郎。初め北向道陳に茶道を学んだが、更に、武野紹鴎に師事し、ついに「わび茶」を大成させた。 千与四郎は茶名を千宗易といい、織田信長、豊臣秀吉に茶頭として仕え、正親町天皇より利休居士号を賜った。 天正15年(1687)10月秀吉の北野大茶会を司り、秀吉に次いで二番の席を設けるなど天下一の茶人として、茶器などにも種々工夫をこらし、さび、さびの境地を切り開いた。 その根底には大徳寺の禅師に深く禅を学び、茶禅一味の悟りに達していたが考えられる。 その後、天正19年(1591)2月秀吉の怒りを買い、京都から追放されて堺に謹慎していたが、京都に呼び戻され2月28日切腹させられた。 没後20年にあたる昭和36年(1961)建立
与謝野晶子は明治11年(1875)菓子商駿河屋を営む鳳宗七の三女として生まれ、明治34年(1901)与謝野鉄幹のもとへ上京するまで堺の街で過ごした。
駿河屋は旧紀州街道に面していたが拡幅の為敷地の大部分は現紀州街道(大道筋)になっている。 |



