ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

甲信越風土記

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サッカー女子ワールドカップ・ドイツ大会で、なでしこ・ジャパンがFIFAランキング1位で、過去24戦して

0勝のアメリカを破り優勝したニュースで沸く7月18日の朝、「駒ケ岳千畳敷カール、上高地、乗鞍」

の旅に出かけた。

天候は雨、風は幸いにない。大型で強い台風6号が南九州に上陸したとか、近畿には明日接近する予報。

これから天気は悪くなっても、良くなる見込みはない。

「今まで天気が良かったのに、今日になって天候が崩れるなんて」と、ぼやいたら、連れが「誰かさんの

日頃の行いの所為だ」とおっしゃった。沈黙!!

駒ヶ根ICまでを名神高速、中央自動車道を走り、駒ヶ根ロープウェイの起点・しらび平(標高1662m)に

着いたのは14時を過ぎていた。

幸いに天気は長野県に入った頃、曇りになった。

駒ヶ根ロープウェイは、千畳敷までの標高差950mを一気に上った。

そこは中央アルプスの主峰、宝剣岳(2931)眼前に聳え、その東斜面に千畳敷カールと言われるカールが広

がっていた。

天気は何時雨が降っても不思議でない曇りだが、幸いにカールには霧が無い。

カールを囲む中岳(2925)、駒ケ岳(2956)は雲で良く分らない。

カールは氷河時代、氷河が削りとった谷で、雪渓が未だ残り、ハイマツと可憐な花を付ける高山植物など

が生えている。

今は、コバイケソウ、クロユリ、チングルマ、キンバイソウ、ヨツバシオガマ、コイワカガミなどの高山植物が満開だった。


イメージ 1 駒ヶ根ロープウェイ
我国最初の山岳ロープウェイと言われる。
斜長2333m(高度差950m)を7.5分で行き交う。


イメージ 3 イメージ 2
                                山 腹
ゴンドラが上ると共に山腹の植相は変化し、幾筋の瀧が眺められた



イメージ 4 頂上駅近く
頂上駅「千畳敷」(2612)に近づくと大きな木の姿は無い。



イメージ 5

                                千畳敷カール
高い峰が宝剣岳(2931)。
中岳(2925)、駒ケ岳(2956)は雲で見えない。まばらに雪渓が見られる。




イメージ 6

                                千畳敷カール
千畳敷カールは高山植物のお花畑となっていた。


イメージ 9

                                 お花畑
カールはお花畑を見られる様に約40分程度でまわれる遊歩道が作られていた。



イメージ 7

                                千畳敷カール
手前の池は剣ケ池。ここからの眺めが一番と言われている。



イメージ 8

                                駒ヶ根市方向
晴天であれば、南アルプス、富士山が眺められるそうだ。
錦秋を求めての旅の二日目、岐阜県側の新穂高温泉から長野県側の上高地に移った。
上高地は英国人宣教師ウオルター・ウェストンにより、その著書「日本アルプスの登山と探検」で紹介されて以来、日本アルプスの登山口、あるいは日本屈指の景勝地と知られるようになった。
今日も、秋の景勝を探索しようとする多く人々が訪れていた。
だが、今日は更に曇っており、霧も深い、梓川沿いを散策中にとうとう雨が降り出した。
は駆け込んだ五千尺ホテルで、洋ナシのタルトを口に入れながら、大雨と風がないのがせめて、と自らを慰めるのだった。
 
イメージ 1
散策路の紅葉
 
 
 
イメージ 2
焼岳と大正池
焼岳(2355)は北アルプス唯一の活火山。明治末期と大正初期の活発な活動により現在のような山体、鐘状火山になった。大正4年(1915)の大爆発によって梓川が堰き止められて大正池ができた。池の中のに立つ立ち枯れの樹木が綺麗だ。
焼岳は、最近では、昭和37年(1962)爆発があり、泥流を大正池まで押し出した。
 
 
イメージ 3
梓川に掛かる河童橋
河童橋は上高地のシンボル的な存在の吊り橋。奥に奥穂高岳(3190)が眺められるはずだが・・・。
橋の上で、傘をさしながら恨めしげに、穂高連峰が聳えていそうな方向に眺めている人が多くいた。
架設は明治43年(1910)、その後老朽化で度々架け替えられて現在の橋は5代目である。
河童橋の近くに五千尺ホテルが建っていた。
 
芥川龍之介は昭和2年(1927)河童橋周辺を舞台に「河童」を書いた。
 
・・・ぼくは人並みにリュク・サックを背負い、あの上高地の温泉宿から穂高山に登ろうとしました。・・・・
 
僕は「あっ」と思う拍子にあの上高地の温泉宿の側に「河童橋」と云う橋のあることを思い出した。
                                             ( 芥川龍之介「河童」 )
 
 
関連記事
 
 

軽井沢は明治時代外国人の避暑地として開かれたところだ。

明治中ごろ来日し、日本アルプスを紹介した英国人宣教師・ウオルター・ウェストンも次の様に記してい

る。

軽井沢は涼しい気候と爽やかな高原と、さらに、その周辺の丘陵で変化に富んだ散策が楽しめる

ことで、在日外国人の間で避暑地として人気が高まりつつある。

目はしの利く、地元の商人たちが、それをあて込んで、店を出し、外国産の食品を売る様になった。
    (ウオルター・ウェストン著、黒岩健訳「日本アルプスの登山と探検」《大江出版社》第二章)




国道141号線、有料道路を下り軽井沢に着いた。軽井沢にはずーと昔来て以来のことだ。

水車通り、旧軽井沢銀座通りを1時間ばかりぶらりついた。

盛夏の真昼だから人出は少ないと思っていたが、逆に夏休みということであろうか、観光客の姿が多かっ

た。しかし、旧軽井沢銀座通り沿いの喫茶店「ミカドコーヒー」の店員によれば、行楽シーズンになると

大都会の混雑をそのまま移したような大混雑になるとか。


イメージ 1 聖パウロカトリック教会
近代建築の巨匠アントニン・レイモンドにの設計
三角屋根にコンクリートの打ち放しの独特な外観
訪れた時は丁度礼拝の最中で中に入れなかった。


イメージ 2 芭蕉句碑
天保14年(1843)当地の俳人小林玉蓬によって芭蕉150回忌に建てられたもの。
馬をさへ ながむる 雪の あした哉  芭蕉翁



イメージ 3 日本聖教会 軽井沢ショー記念礼拝堂
宣教師A.C.ショーが明治19年(1886)建てた軽井沢で最古の教会



イメージ 4 軽井沢写真館
19世紀西洋上流子女風に着飾った記念写真が展示してあった。このように撮ってくれるのだろう。
写真から、連れ合いは「若草物語」(オルコット作、マーチ家のメグ、ジョー、ベス、エイミーの四姉妹を指したのだろう)を連想したらしいが、:)はダッシュウッド家の三姉妹エリノア、マリアンヌ、マーガレット("Sense and Sensibility" by Jane Austen)を連想していた。


イメージ 5 土屋写真館
天皇、皇后陛下(当時皇太子、正田美智子さん)出会い当時の写真を始め、一昔、二昔前の軽井沢風景写真を展示していた。



イメージ 6 フランスベーカリー
ジョン・レノンも良く訪れたという老舗のパン屋



イメージ 7 軽井沢会テニスコート
天皇、皇后陛下(当時皇太子、正田美智子さん)出会いの場となったことで広く知られた。



イメージ 8 軽井沢教会
明治38年(1905)に開かれた日本人の為の教会
現在は幼稚園を併設している


イメージ 9 ミカドコーヒー
モカソフトがおいしいことで評判。
確かにおいしかった。しかし、店から叱られるかもしれないが、モカソフトならどこで食べてもおいしい。


イメージ 10 旧軽井沢銀座通り
ミカドコーヒーの二階テラスから撮った。
人では多いと思ったが、店員によれば、シーズンになればこんなもんではないとのこと。

善光寺表参道(中央通り)を南に下る。長野駅近くの「かるかや山」交差点北東角に苅萱道心・石童丸ゆ

かりの寺で、絵解きをして下さる寺として知られる西光寺があったので寄ってみた。

参拝人は:)だけだが絵解きをお願いすると快くやって頂いた。約50分で「苅萱道心石童丸御親子御絵

伝」、「冥土の旅たち(十王めぐり)」、「六道地獄絵」を拝聴した。

  なお、長野市には、苅萱道心石童丸ゆかり寺として西光寺のほか「往生寺」もあり、そこでも絵解き

をして下さるそうだ。

イメージ 1門 前
正式には苅萱山寂照院西光寺。開祖苅萱(道心)上人
苅萱上人が正治元年(1199)に開山し、入寂後信照坊道念上人(幼名:石堂丸)がこの寺に来て、父の菩提のために苅萱塚を建立し63歳にて入寂した寺である。


イメージ 2本 堂
苅萱上人と信照坊道念上人(幼名:石堂丸)が刻んだ二体の地蔵尊を本尊として安置している


イメージ 3苅萱道心・石道丸親子の銅像
高野山奥の院無明の橋で、苅萱道心が父を訪ねて来た石童丸と会った場面。
父苅萱上人は石童丸を我が子と知りながらも仏に捧げしこの身、道心が鈍っては、遂に親子の名乗りをしないまま、下山を促す。


イメージ 4

                           本尊・苅萱親子地蔵尊
子授け、安産子育、家内隆昌の御利益のあるお地蔵様だそうだ。



イメージ 5

                           苅萱道心石童丸御親子御絵伝



イメージ 6

                           十王像



イメージ 7

                           六道地獄絵




なお、絵解きが終わった時、外は既に暗くなっており、境内の苅萱塚、大師堂、朝日山大蛇の塚などを拝

観することが出来なかった。

---関連記事 ---
高野山苅萱堂

苅萱道心と石童丸


今から凡そ800年前、九州6ヶ国の国守加藤左衛門重氏は、(本妻と妾妻の醜い本心を見た為、お家騒動が

持ち上がった為、周囲で先立だれた為とかにより)世の無常を悟り、京の黒谷に上り法然上人の弟子とな

ったある夜、延命地蔵のお告げを受け、高野山へ入った。

国に残された千里御前は男子を出産し「石童丸」と命名。

石童丸13歳の春、父恋しさをつのらせ、母と共に黒谷へ、さらに高野山へと長い旅に出た。

当時、高野山は女人禁制、石童丸は母を麓の宿に残し、父を尋ねて山内に入り、三日三晩の後、奥の院

は無明の橋で、花桶を提げた僧に出会う。この僧こそ父・苅萱道心だった。

道心は、石童丸が我が子であると知るが、仏に捧げた身ゆえ名乗ることが出来ず、「尋ねし父は、すでに

この世にない」と告げ、山を下るよう諭した。

山を下ってみると、母は長旅の疲れからもはや帰らぬ人となっていた。

泣く泣く国に帰れば、姉も亡くなっていた。

そこで、石童丸は再び高野山に上り、父と思う苅萱道心を師僧と仰ぎ、心照坊道念と名乗り、34年間修行

した。

ある日、苅萱道心は、善光寺如来に導かれて信濃の地に下り、一寺(今日の苅萱山西光寺)を建立。

一刀三礼の地蔵尊を刻み、14年間常行念仏に励み、83歳で大往生を遂げた。

道念は、父苅萱の往生したことを悟り、当山に移り住み、父の菩提安かれと苅萱塚を建立。

自身も一刀三礼の地蔵尊を刻み、親子地蔵尊として本堂に安置。その後も念仏に励み、63歳で極楽浄土に

赴いた。(西光寺冊子から)

信濃国の住人、おうみの本田善光と言ふ者、都へのぼりたりけるが、彼如来に遭ひ奉りたりけるに、

やがていざなひ参らせて、昼は善光、如来を負ひ奉り、夜は善光、如来におはれ奉ッて、

信濃国へ下り、水内(ミノチ)の郡に安置し奉ッしよりこのかた・・・・・・(「平家物語」巻第2 善光寺炎上)
(信濃国の住人、麻績(オウミ)の本田善光という者が京に上ったが、その阿弥陀如来像に逢い、そのままお誘いして、昼は善光が如来像を背負い、夜は善光が如来に背負われて信濃に下り、水内郡に安置した。それ以来、・・・・・・)


善光寺から約300m西に湯福(ユブク)神社がある。

社頭の鳥居の前に向って左に「大本願」右に「大勧進」と彫られた石柱が立っている。

祭神は建御名方命(タケミナカタノミコト)荒御霊で、古来より善光寺の氏神・鎮守の神である。

そして、境内には本田善光廟がある。

イメージ 1

                            社 頭
鎮座は詳らかでないが、日本書紀に持統天皇5年(691)に風鎮祭の記録があることから、古くからこの地方の氏神として崇敬されていたことが分る。


イメージ 2

                             拝 殿
建御名方命(タケミナカタノミコト)は大国主命の御子神で信濃国の国土開発に当った。特に当社は大神の荒御霊(積極的、活動的な魂)を祀り、力強い神の働きを持つ。
「湯福」の社名は風の吹く形容から息吹(イブキ)の神の御名がイフクの神、ユブクの神に変わってきたもの。
拝殿前の2本の大欅は樹齢一千年を越えると言われている。


イメージ 3

                            本田善光廟
拝殿の左手前に善光寺開祖本田善光の墓と言われる磐があった。平成20年(2008)廟を建立したもの。

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