ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

甲信越風土記

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所のさまは、眺望などはなけれども、生身(ショウジン)の如来と聞きまゐらすれば、頼もしくおぼえて

百万遍の念仏など申して明かし暮らすほどに・・・・・・ (後深草院二条「とはずがたり」巻4)
(善光寺のある所は、眺望などはきかないけれども、ご本尊は生身の如来と伺っているので、頼もしく思われて百万遍の念仏などを唱え明かし暮らすうちに・・・・・・)


雪が残る善光寺境内をぶらつく。 

イメージ 1経蔵
宝暦9年(1759)建立 内部中央に角型の回転式輪蔵があり、元禄7年(1694)に寄進された鉄眼黄檗版一切経の教本が納められている。輪蔵の腕木を押して一回転させると、中の教本を全て読んだのと同じ功徳が得られると言われている。 重要文化財
経蔵の前には、輪廻塔が立っていた。 石柱にはめ込まれている車輪状の石(輪廻車)を廻すと諸々の苦悩が抜け出すと言われたいる。



イメージ 2鐘楼
嘉永6年(1853)再建 屋根は檜皮葺。 6本の柱をもつ珍しい形式。柱の本数は「南無阿弥陀仏」の六字名号に因むと言われている。 梵鐘(重要美術品)は寛文7年(1667)鋳造の名鐘。毎時時の鐘として用いられている。


極楽の 鐘の響きに 目を覚まし 五色の愛に そうぞ嬉しき



イメージ 3爪彫如来像
親鸞聖人が越後から東国への旅の途中、善光寺に百日間逗留した際、逗留中聖人が爪で彫られた石造の阿弥陀如来像と言われ、どう言う訳か知らないが、眼病を治して下さる仏様として篤く信仰されている。
お堂の前の奉納された絵馬や千羽鶴で像は良く分らない。



イメージ 4日本忠霊殿
昭和54年(1979)完成。 戊辰戦争から太平洋戦争に至る戦没者を祀っている。


イメージ 5旧如来堂跡地蔵尊
三門を出て仲見世の途中。善光寺本堂は古くは「如来堂」と呼ばれ、皇極天皇元年(642)の創建から元禄13年(1700)までの間はこの場所にあった。旧本堂内の瑠璃壇の位置に地蔵尊が祀られている。


イメージ 6

                          釈迦堂
仲見世から東に一筋奥にあるお堂。 正しくは善光寺世尊院釈迦堂。
天延3年(973)越後国古多ヶ浜より漁師の網にかかった釈迦像を本尊としている。
本尊は鎌倉時代の作とされる我が国唯一の等身大(1.7m)の銅像釈迦涅槃像。重要文化財
善光寺のご開帳中、ここにも回向柱が立てられ釈迦堂の涅槃像と繋がっている。
堂内には、毘沙門天、不動明王(普段は開帳されていない)等が安置されている。



「善光寺信仰の特徴は、本尊が日本で最初の仏像と崇められたことで、特定の宗派に限定されないこと、

また信仰が広まった中世には珍しく、女人の救済を説いた点にある。宗派、男女を問わない広い門戸は、

貴賎を問わず人々から篤い信仰を集めた。特に江戸時代には女性の参詣者が多く見られ、『牛に引かれて

善光寺詣り』はその象徴である。さらに出開帳として本尊の前立が全国各地を巡り、人気を博したことで

も有名である。」(講談社:日本の仏像No.47 P.29)

五木寛之はその著「百寺巡礼」(第5巻 50番善光寺)で「無宗派の寺としてありながら、現世利益を求め

る善男善女が引きもきらずに参拝する善光寺。求道的な修行の寺や、きびしい信心をひとすじに守る寺か

らすれば、きわめて通俗的な観光寺のように見えるかもしれない。」しかし、濁れる世界に生きざるを得

ない庶民の中に入っていった「濁れる川に生きる覚悟をした寺」と評している。

それに要約される寺だと、:)は参拝し境内を巡っていて改めた実感した。

:)は今まで何度か参拝に訪れた。とは言え、直近では平成9年(1997)のご開帳の時だ。

善光寺の本尊一光三尊阿弥陀像は絶対の秘仏で、その身代わりとも言うべき前立本尊でさえ7年毎にし

かご開帳されない。

ご開帳のときは本堂に高さ10mの大回向柱が立てられる。前立本尊の阿弥陀如来の右手に結ばれた糸

は、やがて善の綱となり、大回向柱と繋がれる。

参拝者は大回向柱に触れることは、直接前立本尊に触れて同じ功徳があると信じられている。

前回訪れた時には:)も大回向柱に触れてきたし、内陣に入り、前立本尊を拝見した。

遠くて黒くて、お姿が良く分らなかったというのが実感だったことを記憶している。

平安時代には既に東国を中心に善光寺の信仰が広まり、信州のシンボルとなっていたらしい。

善光寺には全国からおおくの人々が極楽往生を願って訪れると共に、江戸時代には地元で行う居開帳は勿

論、各地に出向いて行う出開帳が行われ人気を博したとも伝えられる。

身は茲に 心は信濃の 善光寺 導きたまえ 弥陀の浄土へ


今回境内を廻っていると、役目がすんだ歴代回向柱が経堂近くにまとめて立てられていた。

イメージ 1


最も高く、新しい回向柱は数年前のご開帳のときのものであろうか? 朽ちて少し低い回向柱は平成9年

のものであろうか? 更に前のものは更に低くなっており、こうして大回向柱は朽ちて地に戻っていくよ

うだ。

本堂前に立てられていた頃のざわめきは全く想像ができない。ただ地に戻るのを待って静かに立ってい

た。

日本最初の仏像一光三尊阿弥陀如来像を本尊とする善光寺は、現在浄土宗大本山「大本願」と天台宗大本

山「大勧進」の二つの機構によって運営されており、両本坊の住職が善光寺の住職となっている。

即ち善光寺の住職は2人いて、全ての行事に夫々1回都合2回行うそうだ。

大本願

仁王門近くに本坊がある。

開山は善光寺が創建されたとき(642)大臣蘇我馬子の姫を善光寺守護の寺務職にしたことに始まると言

われている。その後、代々皇族の尼公(ニコウ)上人が法灯を継いでいる。

建物は明治24年(1891)火事で焼失し、今の建物はその後再建されたもの。

イメージ 1 イメージ 2


大勧進

三門の近くに本坊がある。勧進は神仏のため寄付を募ると言う意味で、大勧進はその元締め的な存在を指

す。従って大勧進とは役職名だったが善光寺ではこの役職名が寺名として残った。大勧進の住職は貫主(カ

ンス)と呼ばれる。

イメージ 3門は寛政元年(1789)建立


イメージ 4護摩堂は正面中央に厄除け不動明王、右側に愛染明王、左側に玄三大師(慈恵大師、おみくじを作ったといわれる)


イメージ 5萬善堂(本堂)

善光寺縁起はこう伝える。

昔天竺の月蓋長者欲深い人だった。しかし、娘の如是姫の病気を阿弥陀如来に治してもらい、改心して深

く仏教に帰依するようになった。

如来の姿をこの世に留め、終生お仕えしたいと言う長者の願いに応じ、釈尊と阿弥陀如来は龍宮の閻浮壇

金(エンブダゴン)によって阿弥陀如来と寸分違わぬ姿の一光三尊阿弥陀如来像(一つの光背に阿弥陀如来、

観音菩薩、勢至菩薩が並ぶ像)を出現させた。

長者が亡くなった後、この像は百済に渡り、舒明天皇の時代、仏教伝来と共に聖明王により日本に献じら

れた。像は一旦宮中に迎えられたが、疫病が広がったため、排仏派の物部氏によって難波の堀江に捨てら

れてしまった。

当時国司のお供で都に上っていた信濃国麻績郷(現在の飯田市)の住人・本田善光がそこを通りかかった

時、像は彼を呼びとめ堀から飛び出し背中に負った。

彼は像を背負って故郷に持ち帰り、自宅を寺に改め、像を手厚く祀ったのが善光寺の始まりである。

その後、像が善光の枕元に立って、水内郷(現在の長野市)に移りたいと告げられたので、皇極天皇元年

(642)現在地に安置するようになった。

うずもれる 難波の池の 弥陀如来 背においます 本田善光




表参道(中央通)を北上するとやがて道が細くなり長方形の敷石道となり、左右は宿坊が建ち並ぶ、

ここから三門まで約400m続く。敷石道は正徳4年(1714)完成し、敷石は約7000枚あり、これほどの規模を

持つ近世以前の敷石の参道は全国的に稀だそうだ。

イメージ 1

                                 善光寺参道


程なくして住職の一人を務める浄土宗の本坊「大本願」を過ぎると仁王門が現れた。大正3年(1918)の再

建で、仁王像は高村光雲と米原雲海の合作だとのこと。

イメージ 2

                                  仁 王 門 


イメージ 3 イメージ 4
                                  仁 王 像


仁王門を過ぎると宿坊は少し引っ込み、土産物店が建ち並ぶ。

売り子の呼び込みの声を聞きながら歩いていき、住職の一人を務める天台宗の本坊「大勧進」前を過ぎた

所に三門が建っていた。寛延3年(1750)建立 重文だ。

屋根は平成14年から19年の修理で栩葺きに復元されたそうだ。

イメージ 5

                                    三 門


三門を過ぎると目の前に本堂が聳える。宝永4年(1707)の再建で裳階を廻らせた二重屋根で正面からは分

りにくいが、撞木造りといわれる独特の形をしている。国宝で、国宝に指定されている木造建築の中で3

番目の大きさとのこと。

イメージ 6

                                     本 堂
遠くとも 一度は詣れ 善光寺 救い給ふは 弥陀の誓願


撮影が禁止されているので写真で説明できないが、外陣にはなで仏のびんずる尊者像、親鸞聖人お花松、

閻魔王像などの十王像が安置されていた。

内陣に入ると、左右の壇上に丈六の弥勒菩薩、地蔵菩薩安置されていた。間近で拝見するのでただ圧倒さ

れたきぶんであった。

内々陣左側本尊を祀る瑠璃壇、右側には本田善光、夫人・弥生の前、息子・善佐像を祀っていた。

参拝した後、お戒壇めぐりをした。本尊の安置されている瑠璃壇下の真っ暗な廻廊を通り、中ほどに懸る

「極楽の錠前」を探り当てて、秘仏である本尊と結縁してきた。これで極楽往生は間違いないだろう。

12:53長野に着いた。雪が随分残っていた。天気はいつ雪や雨が降っても不思議でない状態だった。

長野駅から善光寺表参道(中央通)を歩き善光寺に向う。

長野駅から善光寺まで約2Kmある。

明治21年(1888)長野駅開業の際、阿弥陀如来の立てた48願の中で特に重要な「弥陀の18願」に因み、善光

寺の本堂から18丁(約2Km)の場所に駅舎を建設した。

表参道道には1丁(約109m)毎に丁石が置かれており、因みに、十八丁の石は長野駅新幹線改札前にあっ

た。

表参道にはどこの都会に見られるビルや店舗が建ち並んでいるが、なかには流石に門前町らしいと思わせ

るような伝統的な和風建築あるいはそれを模した建物が見られたり、明治・大正に建てられ、国有形文化

財に指定されているようなクラシックな洋風建築も見られた。

善光寺まで約20分ほどだったが、歩いた価値があった。

イメージ 1

白壁土蔵造りの建物

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藤屋旅館
大正13年(1924)築 木造3階建 2、3階窓周りタイルを貼り、3階窓には欄干が設けられている。
藤屋旅館は長野屈指の老舗旅館。白壁土蔵造りの町並みの中にあって、アールデコ調の様式美を放っている。

イメージ 3

喫茶れんが館
明治45年(1912)信濃牛馬合資会社として建てられた。善光寺郵便局、長野市物産館として利用されたが
平成21年(2009)から喫茶れんが館としてオープン。

イメージ 4

中澤時計本店
大正13年(1924)築 木造2階建 外観は鉄筋コンクリートの洗出仕上げ
中澤時計は長野の老舗時計店。

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