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松本駅改札口には受験生の合格祈願の為に「深志神社」の神壇と絵馬棚があり、合格祈願の絵馬が奉納さ れていた。駅のサービスの様だが微笑ましい思った。 12:05松本発特急しなの7号に乗る。 の席のボックスには既に3人連れの外国人が乗っていた。一人はせいぜい20歳ぐらいの若い女性で、残り二人は彼女の両親と思われた。 その若い女性は、薄ピンクの花柄模様地で胸と裾に白いフリルが付いたワンピースを着ており、アマン ダ・セイフライド(最近では、ミュージカル映画「マンマ・ミーア!」の主人公ソフィアを演じた女優) 似のなかなか可愛らしい女性であった。 松本では雪はほとんど見かけなかったが、程なくしてどんよりした天気に雪景色になり、やがて 篠ノ井間近の姨捨辺りからは千曲川と篠ノ井が眼下に見えてきた。 車窓からの景色は暗く陰鬱な世界だったが、 の席は近くに可愛らしい女性がいるだけで明るかった。
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甲信越風土記
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松本城へ行くなら序でに旧開智学校も、とHさんに言われていたので、松本城を一通り見た後、旧開智学 校へいった。 松本城から北へ徒歩5分位のところにあった。 開智学校は明治6年(1873)開学し、明治9年(1876)松本の中心を流れる女鳥羽川沿い(現中央1丁目)に擬 洋風校舎を新築した。 昭和38年(1963)閉校し90年の歴史に幕を閉じ、昭和39年(1964)現在地に解体移築復元され、翌年から教育 資料館として公開され、教育熱心と言われる県民性と風土を伝える証となっている。 木造2階建、外壁は漆喰塗、中央部に八角塔屋がついている。明治初期に建てられた校舎とは思えない優 美な建物だった。昭和36年(1961)重要文化財に指定されている。 旧開智学校正面 旧開智学校斜方向 旧開智学校の隣に開智小学校が建っているが、校舎は旧開智学校の校舎を模したのであろうか、中央に塔 屋を持つ素敵な校舎であった。 開智小学校 |
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8:00名古屋発特急「しなの3号」に乗ると10:03に松本に着いた。天気は曇り、着く前は雨が降 っていたらしく道が濡れていた。 松本城の方へ歩いているといやに暑い。寒いと思って厚着で出てきたのが裏目に出たようだ。コートは脱 ぎ捨てた。こうなるとコートは邪魔ものだ。 は長野善光寺参拝を思い立ち、序でに国宝松本城を見ておこうと思って途中下車したのだ。15年ほど前子供を連れて訪れたことがあるので、道順は大体分る。駅から徒歩20分くらいだ。 暦の上では春だが、最も寒い時期とあって、観光客の姿は少ない。むしろ中国の団体が多かった。
松本城全体図
松本城は16世紀始め造られた。信濃の守護小笠原氏の居城林城の支城の一つで、深志城といった。武田信玄によって、追われていた小笠原貞慶が天正10年(1582)本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名を松本城と改めた。 天正18年(1590)小笠原氏が徳川家康に従って下総に移ると、豊臣秀吉は石川数正を封じ、以後6家23代が藩主となり明治を迎えた。 一部の外堀、内堀、天守と付属する建物は残っているが、黒門、太鼓門は復元、二ノ丸御殿跡が史跡公園として整備され、平面復元されていた。 本丸に入る正門。楼門と枡形からなり、本丸防衛の要である。一の門(楼門)は昭和35年(1960)、二の門と袖塀は平成2年(1990)に復元された。 太鼓門枡形は文禄4年(1595)頃築かれ、門台北石垣上に太鼓楼が置かれ、時の合図、登城の合図、火急の合図などの発信源として重要な役割を果たしていた。平成11年(1999)に復元された。
内堀外から見た天守及び櫓
豊臣秀吉に封じられた石川数正及び子・康長が近世城郭として松本城の基礎を固めた。天守・乾小天守の築造年代は文禄2年から3年(1593〜1594)と考えられる。 辰巳付け櫓や月見櫓は寛永年代(1624〜1644)に松平直政により造られた建物である。 登閣すると、厚い壁に矢狭間・鉄砲狭間や石落しがあり、極めて実戦的な城であることが分る。 城内では火縄銃と関連資料の展示をしていた。 埋の橋詰からの天守 天守の石垣上部に工事用の足場が組まれているが、警報用のセンサーを取り付け工事をしているそうだ。 急な階段を登っていくと、最上階は四方眺めがよく、戦の際は望楼として使われたと言う。 天井は井桁梁でがっちりと組まれ、天井中央には二十六夜神という松本城を守る神様が祀られていた。 書院造り風のこの部屋はいざというときには、城主が入る処(御座所)となった。 天井が高く、すべて檜で、鉋がかけられ、鴨居の上には小壁もあり、丁寧なつくりとなっている。 なお、江戸時代以前の天守が現存する城は次の12城だ。 |
の席のボックスには既に3人連れの外国人が乗っていた。


