ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

山陰紀行

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途中、萩高等学校の敷地内に明治20年(1887)築の瀟洒な旧教員室や藩主別邸江風山月書楼(コウフウサンゲッショウロ

ウ)跡を見て、堀内伝統的建造物群保存地区の南の方橋本川近くに行ってみた。

城下町を偲ばせる鍵曲や,重文の萩藩重臣口羽(クチバ)家住宅があった。

口羽家住宅は内部公開していたので覗いてみた。

口羽家は毛利氏の庶流で、もとは石見国邑智(オオチ)郡口羽村を領した用路城主せあるが、関ヶ原の戦の

後、毛利氏に従い萩に移り、藩の寄組士(1,018石余)として代々三の丸(堀内)に住んだ。

口羽家住宅は、主屋と表門が揃って残り、萩城下に現存する屋敷としては古い。

昭和51年(1976)から解体復元工事が行われ、昭和54年(1979)に竣工した。

城下町の雰囲気を色濃く残す地区にあり、庭からの眺める湖畔の気色は絶景であった。



イメージ 1

                               堀内地区街路風景




イメージ 2 萩学校教員室
明治20年(1887)明倫館が改組して創立した萩中学の教員室として明倫館の敷地に建てられた。
萩中学は間もなく萩学校と改称され、明治22年(1889)県立萩中学校となって堀内に移転した後は、明倫尋常高等小学校の教員室や図書館として使用されていた。
その後、萩市役所の敷地内に移築され庁舎の一部として使用されていたが、昭和44年(1969)萩高等学校の敷地内(現在地)に再度移転修復され、萩高沿革資料館として使用されている。



イメージ 3 江風山月書楼跡 
江風山月書楼(コウフウサンゲッショウロウ)は萩藩主別邸の一つで、川手御殿、花江御殿とも呼ばれた。
明治元年(1858)民有になったが、花江茶亭は明治22年(1889)萩出身の政治家品川弥二郎らによって買い取られ、指月公園内に移された。
現在門や屋敷の一部が残っている。



イメージ 4 口羽家住宅表門
萩に残っているものとして最も雄大な規模を持つ長屋門。
延宝3年(1675)江戸藩邸の門を拝領して萩に移築したと伝えられるが、現存の門は建築手法からみて18世紀後半のものと思われる。




イメージ 5 口羽家住宅
18世紀末から19世紀初の頃建てられたと思われる。



イメージ 6 口羽家庭園からの風景 
橋本川対岸玉江地区を臨む



イメージ 7

                                  堀内鍵曲 
鍵曲は、敵の侵入や攻撃に備える為、左右が高い土塀で囲まれた見通しの利かない鍵手形(カギノテガタ)の道路。

友人Hと自転車で萩に3か所ある伝統的建物群保存地区の一つ、堀内を廻っている。

タイムスリップしたような街中の中に、萩博物館があり覗いてみた、

更に、東に進み堀内の東端に明治・大正・昭和にかけての長州閥の一人とされる田中義一の像が高く立って

いた。

田中義一が、大正後半に入手した田中家別邸が平安古(ヒヤコ)の橋本川畔に残っているが、それについて

はあらためて別稿で記すつもりだ。



イメージ 1

                                堀内街路風景
堀内地区の上級武士の屋敷跡の石垣が残り、屋敷跡地には、明治維新後植えられた夏みかんがたわわに黄色い実を下げていた。その先には、武士たちを支え、彼らの誇りの象徴だった萩城の城郭が失われた指月山(143)が望まれる。




イメージ 2 萩博物館入口
萩・堀内の街並みに合わせた門、建物となっている。



イメージ 3 萩博物館 
萩の自然、歴史、民俗、産業、美術工芸などに関する資料を展示。
敷地内には夏みかんを園樹として植えられていた。



イメージ 4 井上剣花坊句碑
井上剣花坊は明治3年萩で生まれた。
新聞記者を勤めるかたわら川柳の改革復興に尽力した。
昭和9年(1934)没 享年65
巣立ちした あとははじめの 二羽になり
                剣花坊句



イメージ 5 萩博物館隅櫓
昭和20年(1945)頃まで現在地に在った建物を古写真を元に復元したもの



イメージ 6 田中義一像 
田中義一(1863〜1929)は藩主の御六尺(かごかき)田中家の三男として文久3年(1863)乙熊が生まれた。
乙熊は3歳の時、平安古(ヒヤコ)に移り、成長して義一と名を改めた。
13歳の時、真堀小学校の授業性(代用教員)に登用され、萩の乱にも参加したが、後に陸大に進学した。
大正7年(1918)以降陸軍大臣次いで大将に進み、再び陸軍大臣。
大正14年(1925)政友会総裁、昭和2年(1927)内閣総理大臣となり外務大臣、拓務大臣をも兼務した
昭和4年(1929)没 男爵



イメージ 7 田中義一生誕地 
萩城下町菊屋横丁、菊屋家住宅西側に残されていた。

阿武川下流の三角州上に位置する萩城城下町は慶長5年(1600)9月の関ヶ原の戦に敗れた毛利輝元が

安芸広島を追われ、すべての領土を没収され、長子秀就(ヒデナリ)が改めて周防・長門2か国36万9千石が

与えられ萩を本拠とする。

これが、長州毛利家の出発点となった。

輝元は慶長9年(1604)指月山に城を、町割りを行い、萩藩経営の安定に努めた。

寛永2年(1625)萩城内で死没。

その輝元は萩城旧三の丸の堀内の天授院墓所に眠っている。

天授院墓所には輝元と夫人および殉死した長井治郎左衛門の墓石がある。

これらの墓は花崗岩製の五輪塔形式である。

ここは以前、輝元の隠居所・四本松邸があった所で、輝元死後天授院(輝元の法号による)が菩提寺として

建てられたが、明治2年(1869)廃寺となり墓所のみ残った。



イメージ 1

                               堀内街路風景




イメージ 2 天授院墓所唐門



イメージ 3 毛利輝元墓所参道 
長さ約64mで敷石、石燈籠も良好な状態だった。



イメージ 4 輝元火葬場跡
唐門を潜って直ぐ右手にあった。




イメージ 5 長井元房墓
輝元夫妻墓所近く、向かって左手にあった。
輝元が亡くなると、深い恩を感じていた元房も後を追って殉死した。
元房が大変可愛がっていた猫は、元房の死後、この墓から離れようとせず、49日の法要の日に舌を噛んで死んでいたと伝える。



イメージ 6 毛利輝元夫妻墓所 
五輪塔の高さは輝元が2.1m、夫人が1.8mといずれも大型である。

毛利輝元は、天文22年(1563)1月22日毛利隆元の長男として安芸国吉田郡山城(現広島県安芸高田市)に生

まれた。

毛利元就の孫にあたる。永禄6年(1563)父隆元の死去に伴い家督を継ぎ、祖父元就の養育を受けた。

織田信長や豊臣秀吉と覇を競い中国地方8か国112万石を領有する大大名に成長し、天正17年(1589)広島に

居城を築いた。

豊臣政権下では、五大老となり、権勢を誇ったが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに敗れ、周防・長門2か国

36万9千石に削封された。

慶長9年(1604)居城を萩に定め、同年11月11日萩城に入った。

萩開府にあって、城下町の建設を推し進めるとともに萩藩経営の安定に腐心した。

寛永2年(1625)4月27日萩城内で死没、享年73。



イメージ 7 旧毛利家別邸表門 
天授院墓所近くに建つ。
毛利元徳が鎌倉材木座に建てた別邸の表門。
明治の建築であるが規模は大きくて雄大。
桟瓦葺、寄棟造
大正10年(1921)別邸と共に萩市東田町に移されたが、昭和49年(1974)再び現在地に移築された。



   関  連  記  事








維新の大業を伝える香山公園、山口市   香山墓地(毛利家墓所)

萩城下町武家屋敷を廻り、外堀を渡って旧萩城三の丸・堀之内地区に入った。

この辺りには、藩政時代は藩の諸役所や毛利一門、永代家老、寄組などの大身の侍屋敷が立ち並んでいた

ところである。

しかし、それらの邸宅も明治以降ほとんど姿を消し、わずかにその地割を示す土塀や長屋門が残り、往時

を偲ばせている。

現在、この堀内地区は重要伝統的建造物保存地区に指定されている。

また土塀・石垣越しに見える夏みかんは士族救済のため広大な屋敷跡に植栽されたものであり、近代萩の

歴史を物語っていた。


イメージ 1 萩城外堀
萩城三の丸(堀内)と城下町を分ける堀。
元和8年(1622)に完成したと言われている。
約740mある。
城下町側から町屋が張り出してきたため、堀の幅は40mから25m、16mとじだいにつれて狭くなった。




イメージ 2 北の総門
脇戸付高麗門 切妻造、高さ約7m
平成16年(2004)復元完成、平成23年(2011)周辺整備
北、中、平安古(ヒヤコ)の3か所にあった総門(三の丸の入り口)の一つ。



イメージ 3 旧益田家物見矢倉 
益田家は萩藩永代家老(12,062石余)。
幕末の当主親施(チカノブ)は、13代藩主毛利敬親(タカチカ)を援け藩政改革を行ったが、元治元年(1864)禁門の変の責任者として切腹させられた。




イメージ 4 旧繁沢家長屋門
繁沢(ハンザワ)家は、阿川毛利家(7,391石余)の分家で萩藩寄組に属した。




イメージ 5 旧周布家長屋門
萩藩永代家老益田家の庶流で、大組士筆頭(1、530石余)周布(スフ)家の萩屋敷表門。
腰部を下見張りとし、基礎に見事な切石積があり、上部は白漆喰大壁造。
江戸中期の代表的な武家屋敷長屋の様式を残している。



イメージ 6 問田益田氏旧宅土塀 
土塀は延長231.7mあり、往時の姿を良く留めている。
問田益田氏は萩藩永代家老益田家の分家筋にあたり、給領地(4,096石余)を問田(現山口市)に持っていたのでこう呼ばれた。



イメージ 7 旧福原家萩屋敷門 
萩藩永代家老福原家(11,314石余)の萩上屋敷の表門である。
建造年代は江戸中期ころと思われる。
萩に現存する武家屋敷の門はほとんど門番所のある長屋門であるが、この門は珍しく門番所がない。



イメージ 8

                               堀内街路 

東光寺境内に隣接して毛利家東光寺廟所があった。

廟所に至る参道には、殉難士碑と古井戸続いて維新殉難者の墓が並ぶ。

奥の廟所小門を潜ると、老杉・松の大樹が生い茂る周囲の中に、萩藩主3代吉就(ヨシナリ)、5代吉元。7代重

成、9代斉房、11代斉元並びに各夫人10基の他、枝葉近親者20余基の墓があった。

墓の周囲には、玉垣16か所、5藩主および吉元の嗣子宗元の業績を記した神道石碑が6基、鳥居5基、重

臣諸家が献上した石燈籠500余基が建っていた。

藩主夫妻・一族関係者の墓は、唐破風の笠石を乗せた角柱形で、特に藩主夫妻のものには家紋が陽刻して

あった。

なお、萩市内には毛利家墓所としてはこの他として、萩藩祖輝元の墓がある「天樹院墓所」、初代藩主と

偶数代藩主の墓がある「大照院墓所」がある。



イメージ 2 毛利家墓所入口



イメージ 3

                                毛利家墓所 



イメージ 4

                                毛利家墓所




イメージ 5

                                 毛利家墓所


イメージ 1 殉難士碑・古井戸
毛利家墓所に至る参道には、殉難士碑と古井戸続いて4大夫と11烈士ら維新殉難者の墓が並んでいた。

元治元年(1864)7月19日に勃発した禁門の変と同年8月下関戦争の敗北により,藩論は幕府へひたすら謝罪

降伏に転換し,尊皇攘夷派(急進派)が一掃されて恭順派が藩の政権を握った。

第一次長州出兵が迫る中、益田右衛門介、国司信濃(クニシシナノ)、福原越後の3家老が禁門の変の責任を問わ

れ、同年11月11日自刃を命ぜられ、益田、国司は徳山で、福原は岩国で夫々自刃した。

また、12月25日萩で家老の清水清太郎も自刃を命じられた。

また、10月24日尊皇攘夷派の11人が野山獄に投獄された。

11月12日に竹内正兵衛、中村九郎、佐久間左兵衛、宍戸左馬之助の4人が斬首され、

12月19日前田孫右衛門、毛利登人(ノボル)、山田亦介(マタスケ)、渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、大和国之助、松島

剛蔵の7人が斬首された。

明治維新後、旧藩士杉孫七郎、杉民治(タミジ 吉田松陰の兄 梅太郎)らは殉死した4大夫と11烈士の墓が

各所に散在し、香花も絶えて十分な世話もできない状態であることを見聞きし、

明治22年(1889)彼らの招魂墓を建てた。

明治31年(1898)には禁門の変・萩藩征討の起因の責を感じて山口で自刃した周布政之助の招魂墓も同所に

建立された。

なお、墓所の右隅には撰鋒隊士のため、明木権現原で暗殺された桜井三木三、香川平助、冷泉五郎等鎮静

会議員の墓があった。



   関  連  記  事





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