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今回の思いつきの萩巡りは、最後にJR山陰線「萩駅」に来た。 たまたまこの近くを通って素敵な建物があると思って覗いたのが「萩駅」だった(正確には旧萩駅舎)。 大正14年(1925)開業のこの駅舎は、洋風の瀟洒な建物である。 近年無人化に伴い無償譲渡された萩市では開業当時の姿に復元し内部は「萩市自然と歴史の博物館」と活 用保存している(平成10年4月より公開)。 白壁、薄緑色の梁・柱・窓枠の線、上部がアーチの屋根の窓と素敵な外観である。 駅前の電話ボックスは大正末期〜昭和初期のものを写真から復元したものだそうで、駅舎と良く似合う。 なお、この駅舎に向かって左にある片流屋根の建物が、現役の駅舎―JR萩駅(無人駅)であった。 萩 駅 萩の陸の玄関として開業したのだろうが、いかんせん町の中心から離れている。 後に東萩駅が開業すると中心駅としての機能は東萩駅に移っている。 |
山陰紀行
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玉江橋で橋本川を渡り、JR山陰線に沿って萩駅に向かって行くと南側に大照院が見えた。 萩市内にある3か所の毛利氏墓所一つ(残りの2つは、東光寺、天樹院)であるので寄ってみた。 大照院は山号を霊椿山と号する臨済宗南禅寺派の寺である。 初代藩主毛利秀就(ヒデナリ)の菩提のため第2代藩主綱広が明暦2年(1656)建立した。 しかし、延享4年(1747)失火により全焼したので第6代藩主宗広が寛延3年(1750)再建し今日に至る。 重文の本堂は修理工事中でみられなかったが、本来本堂の内陣奥に安置されている仏様たちを仮本堂で 間近に拝見することができた。 7代の藩主の墓がある毛利家墓所は、敷地の東側にあり鬱蒼と茂った樹木に囲まれ、600基余の灯篭が並ぶ 清冽にして荘厳なものであった。 寛延3年(1750)建立 重文 切妻造り本瓦葺 重文 18世紀後半建立と見られる 重文 本堂から移された重文の木造赤童子立像などを拝観することができた。 中央に本尊聖観世音菩薩立像、 左に向かって毘沙門天像、右に不動明王像 毛利家墓所 初代秀就(ヒデナリ)、と2代から12代までの偶数代の藩主と夫人の墓が並ぶ。 重臣や所縁の深い人々が献上した燈籠600基余が参道を埋める。 墓石は五輪塔形式で藩主と夫人が並んでいる。 |
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藩校明倫館跡の旧明倫小学校の西隣の中央公園に久坂玄瑞進撃像が立っていた。 NHK大河ドラマ「花燃ゆ」に合わせて建てられたのか? ドラマでは久坂玄瑞は東出昌大が演じている。 城下町を巡った後、南に下り、平安古(ヒヤコ)地区に入り久坂玄瑞旧宅跡を訪ねた。 建物はなく、久坂玄瑞誕生地と言う石標と共に、三条実美の「久坂玄随君追悼碑」を中心に玄瑞の遺詠碑 など碑が2基ばかり建っていた。 入口に立っている2本の幟が写真を撮る上で邪魔だった。 中央公園西側に建つ 平成27年(2015)1月建てられた 久坂玄瑞誕生地 天保11年(1840)5月萩藩医久坂良迪(リョウテキ)の三男としてここに生まれた。 15歳までに母、兄(玄機)、父を相次いで喪い、久坂家を継ぐ。 安政3年(1856)松下村塾に入門 高杉晋作と共に「松下村塾の双璧」とも、 さらに、入江九一、吉田稔麿をくわえて「松下村塾の四天王」と言われた。 安政4年(1857)吉田松陰の妹・文と結婚 文久2年1862)長井雅樂の「航海遠略策」に反対し、藩論を尊攘討幕に一変させた。 これにより長井雅楽は文久3年2月自刃に追い込まれた。 文久2年(1862)12月高杉晋作、伊藤利助(博文)、井上聞太(馨)らと品川御殿場に建設中の イギリス公使館を焼き討ち。 文久3年(1863)5月10日光明寺党(後の奇兵隊の前身)を結成し外国船砲撃。 文久4年(1864 元治元年)7月19日禁門の変で鷹司邸にて自刃 享年25 |
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江戸屋横丁の南の部分に円政寺と言う寺があった。 山号は月輪山と号する真言宗御室派の寺で、元々は大内氏の祈願寺として山口にあったが、毛利輝元が萩 に移ると同時に萩に移転したものらしい。 山門に向かう参道に神明造の鳥居が建つている神仏混淆色の濃い寺である。 高杉晋作と伊藤博文ゆかりの寺だと参道入り口の石標や手書きの案内書に記してあった。 境内に入ると、右手に立派な楼閣風の金毘羅社が建っている。 その拝殿に掲げてある天狗のお面を見ることにより幼少の晋作を剛毅にしたと言われる。 また、11歳の頃の伊藤博文(当時は利助)は母琴子の従兄妹だった当寺の住職恵運に一年半ほど預けられ た。 利助は寺の雑用を行う傍ら恵運から読書・習字を教わったと言う。 住職のお話では、境内の南西隣辺りに、杉文の義理の兄で後に夫となる小田村伊之助(「花燃ゆ」では大 沢たかおが演じている)の邸宅があったそうだ。 高杉晋作、伊藤利助、それに近所の桂小五郎などがこの境内で遊んでいたかも知れないと思うと、今まで は遠い存在の彼らを身近に感じた。 参道には石造の明神鳥居その奥に山門があった。 鳥居は笠木、島木に反りがあり、柱頭部に台輪が付いていた。 鳥居の製作は延享2年(1745) 潜ると奥正面に本堂、右手に金毘羅社があった。 金毘羅社 建立時期は不明。ただし金毘羅社に寄進された鳥居が延享2年(1745)であり、天保年間(1830〜43)に編纂された「八江萩名所図画」に現在の社のままの姿が描かれていることから少なくともその頃には建立されていたのは確実だ。 拝殿は一重裳階付入母屋造り本瓦葺 唐破風向拝は檜皮葺 桁行4m、梁間6.1m十二支の彫刻が巡らしてあった。 正面床には、文政5年(1822)奉納された大鏡が安置されていた。 此の鏡は、第二次大戦中、軍に供出されていた。 しかし、平成18年(2006)競売にだされていたを買い戻したものだとか。 拝殿の前面の左右に置かれている狛犬の台座は素晴らしい彫刻が施されていた。 正面上部に大きな天狗面が掛けられていた。 昔は口髭や頬髯をぶうぼう生やし、金色のピカピカの目を光らせていた。 幼少の頃の高杉晋作は臆病だったらしく、家人はここに連れて来てこの面を見せ、物恐れしない様しつけたとか、 逆に、近所の子供たちはこの面を恐れたが、晋作は喜んで見に行ったとも伝わる。 拝殿蟇股(表、裏) 拝殿の蟇股を良くみると、表からは唐獅子が彫られているが、裏にを見ると牡丹になっていた。 文政3年(1820)奉納されたもの 鼻の頭は多くの人が撫でたせいで黒光りしていた。 石灯籠は高さ4m余で、竿の部分には竜の高彫がしてある堂々としたものだった。 安政5年(1858)造られたもので、山口県下最大とか 本堂には本尊薬師如来立像、不動明王が安置されている。 本堂横の売店では、伊藤利助(博文)が使用したしょいこ、中御門天皇第4皇女宝鏡寺宮真筆の山号などをごたごた山積みと言う感じで展示していた。 |
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萩城下町のメインストリート御成道から折れて○○横丁と呼ばれる小路に入ると、白漆喰の築地塀、ある いは漆喰壁と下目板壁の萩藩中級武士の屋敷が続く。 まるでタイムスリップしたか、テーマパークに入った様だ。 中には、高杉晋作の生まれた屋敷とか、桂小五郎(木戸孝允)の生まれた屋敷があり、小路を歩いている と、今にも彼らが姿を現しそうだった。 菊屋横丁 入口に豪商菊屋があるから菊屋横丁と呼ばれる。 天保10年(1839)8月20日萩藩士高杉小忠太(200石)の長男としてここで生まれた。 もともとは約500坪あったが現在は南半分が残る。 庭、鎮守、産湯に使った井戸などが残っていた。 傍に「東行先生初湯之井」と刻んだ碑が建っていた。 高杉家旧宅からほんの少し南へ下った所に「晋作広場」がありそこに建てられていた。 安政4年(1857)松下村塾入門 安政5年(1858)江戸遊学 文久2年(1862)上海視察 同 12月12日品川御殿場英国公使館焼き討ち 文久3年(1863)3月剃髪し「東行」と号する。 同 6月奇兵隊結成 元治元年(1864)3月29日野山獄に投ぜられる 同 8月四か国連合艦隊との講和会議に奔走 同 12月15日下関挙兵 慶応元年(1866)6月17日小倉口開戦、征長軍との戦いを指揮 慶応3年(1867)4月13日下関新地で病没 命日は14日 享年29 江戸屋横丁 鬢付け油を商っていた江戸屋があったのが名の由来。 南に向かって、木戸孝允誕生の屋敷、旧佐伯丹下屋敷、青木周弼旧宅などがあった。 蘭学者で毛利敬親の侍医だった青木周弼旧宅は現在解体修理工事中であった。 萩藩大組125石藩士の屋敷。 屋敷は昔の状態が保たれており映画のロケにも使用されたとか。 天保4年(1833)6月26日萩藩医和田昌景(石高20石)の長男としてここに生まれた。 8歳で石高150石の桂家の養子(末期養子の為90石に)となったが、翌年養母も死亡したため、嘉永5年(1853)11月江戸にでるまでの約20年間この家で過ごした。 大正15年(1926)子孫の木戸幸一氏より当時の萩町に寄贈された。 |



