ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

山陰紀行

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萩城下町と言えば、萩城外堀から東側一帯、参勤交代時大名行列が通った御成道、豪商の名が付いた菊屋

横丁、伊勢屋横丁、江戸屋横丁辺りを指すらしい。

町筋は碁盤目状に画され、豪商や萩藩士たちがすんでいたところである。

メインストリート御成道に面して互いに対峙するように、豪商の住宅が建っていた。

両家の主屋同士が向かい合い、久保田家の主屋は菊屋より立ちが高い。

それは、建てられた時代の特徴を表しているという。


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                               旧久保田家住宅
主屋、門、塀、離れが御成道に面して建っている。
久保田家は呉服商、酒造業を営んだ。
幕末から明治前期にかけての建物として酒造業(明治30年代まで「あらたま酒店」を営業)が繁栄した往時の姿を良く伝えている。



イメージ 2 透かし彫りの欄間




イメージ 3 つし二階
主屋の屋根裏に物置や使用人の寝間とした「つし二階」を設けている為、主屋の立ちが高くなっている。





イメージ 4 雛飾り
4月3日まで、「萩城下の古き雛たち」と市内から持ち寄った御雛様を飾り展示していた。




イメージ 5 雛飾り




イメージ 6

                                菊 屋
御成道に北に面して建つ。 豪壮ななまこ壁の倉が続く。主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場などは重文
菊屋家は代々萩藩の御用達を勤めた豪商。幕府の役人の宿泊所にもなった。
主屋が17世紀中頃、本蔵、金蔵などは18世紀から19世紀頃と思われている。
敷地は幕政時代よりも倍近く広くなっている。維新後南側の武家屋敷を買い足して拡張したのであろう。





イメージ 7 菊屋長屋門
万治元年(1659)2代藩主毛利綱広が初入国に当たって、表向きが長塀で見かけが悪いので長屋門の普請を命じられて建てた。菊屋家の正門で幕府の上使を迎える時使用した。
現在の建物は古図面に基づいて復元したもの。

萩市街を南北に貫く県道64号(吉田通り)の吉田交差点南西の区画一帯をうろついていたら、常念寺筋と呼

ばれる小路を挟んで(西側)野山獄跡、(東側)岩倉獄跡があった。

建物はなく、かって獄舎があった一部が整備され碑が置かれているにすぎない。

設置されていた説明板によると、獄の由来は次の様だった。

正保2年(1645)9月17日夜、藩士岩倉孫兵衛(大組 200石)は酒に酔って、道を隔てた西隣家の藩士野山六

右衛門(大組 200石)の家に切り込み、家族を殺傷した。

この事件の為岩倉は斬首となり、両家も取り潰され、屋敷は藩の獄舎となった。




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                                野山獄跡
野山獄は上牢として士分の者を収容した。
安政元年(1854)海外渡航に失敗した松陰は萩に帰され、ここに投ぜられたが、ここで仲間の囚人を教化するという前例のない教育活動を行った。
この様子を、吉田松陰は安政2年(1855)6月書いた「福堂策」の中で次の様に記している。
余、野山獄に来りてより、日々書を読み文を作り、傍ら忠孝節義を以って同囚と相切磋する
ことを得、獄中駸々(シンシン)乎として化に向ふの勢あるを覚ゆ、是れに因りて知る、福堂も亦難
からざることを
また維新前夜の藩内抗争の中で、正義派(尊攘派)、俗論派(保守佐幕派)双方の藩士が投ぜられ、処刑された場所である。
元治元年(1864)10月24日野山獄に投獄された尊攘派11人は、11月12日4人、12月19日7人がここで斬首された。それを悼む十一烈士の碑が建っている。
俗論派(保守佐幕派)では文久3年(1863)坪井九右衛門、慶応元年(1865)閏5月椋梨藤太(今NHK大河ドラマ「花燃ゆ」では内藤剛志が演じていますね〜。)がここで斬首された。



イメージ 2

                                岩倉獄跡
岩倉獄は下牢として庶民を収容した。
安政元年(1854)海外渡航に失敗した松陰と同行した門下生金子重輔(重之助)はここに投ぜられ、安政2年(1855)1月11日病死した。
田中義一筆による「金子重輔君絶命の処」碑、松陰が与えた詩碑が建っていた。

旧明倫小学校は、今は春休みで生徒の姿が見えないだけだと思えるほど、きれいに整理されていた。

それもそのはず、昨年まで実際に校舎として使われていたそうで、昨年北側に新校舎に移ったという。

旧明倫館小学校の校舎、特に本館は、屋根には鴟尾置かれ、外観は白漆喰壁と黒板壁、連続する窓の意匠

となかなか風格のある建物である。

昭和10年(1935)10月10日建てられものだそうで、鴟尾は旧藩校「明倫館」の聖廟をモチーフにしたとか。

いずれにしても、廃校後どうなる事かと(有備館でガイドさんに)聞いたら、保存することが決まっている

とのこと。

維持ずるのは大変かも知れないが、今や萩の貴重な財産だ。後世の為ぜひ頑張ってほしい。


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                           旧明倫小学校本館中央玄関
棟には鴟尾置かれている




イメージ 2

                             本館と2,3,4号棟
中央玄関と同様に、東西両端の棟に鴟尾置かれている。
外観は、本館が1階が板張りに、2階は白漆喰塗、北に並ぶ3棟が1,2階とも板張りになっている。




イメージ 3

                             旧明倫小学校体育館
平成27年1月11日から平成28年1月10日までの予定で、文と萩の物語「花燃ゆ」大河ドラマ館となっていた。

旧明倫館小学校の構内周辺にある藩校「明倫館の遺構を見て回る。

北側に廻ってみると、自然石を使った大きな碑が3基並んでた。

その西側には藩校のものとして残っているのは我国唯一という水練池があり、そん傍に聖賢堂があった。

柵越しに明倫小学校の新しい校舎が陽を浴びていた。


イメージ 1 吉田松陰先生講学の跡碑
吉田松陰は山鹿流兵学師範として天保10年(1835)10歳から20歳まで旧明倫館で、嘉永4年(1851)22歳までここ新明倫館で教授した。
昭和33年(1958)松陰没後百年を記念して建立




イメージ 2 村田清風先生徳業之碑(右)
「美挙鴻徳」碑(左)
村田清風(1783〜1855)は13代藩主毛利敬親の元で藩政改革、特に財政改革に努めた。
また、教育普及にも力を注ぎ、その一環として、嘉永2年(1849)新明倫館を完成させた。



イメージ 3 水練池
周囲を玄武岩の切石で築いてある。
東西39.5m、南北15.5m、深さ1.5m
現在東側と南側に池に下りる石段が設けられているが、古図では東側の中央から騎馬で池に駆け降り易い様、斜面になっており、また石段の位置も違っている。藩政時代ここで遊泳並びに水中騎馬が行われた。
藩校の水練池が我国に現存する唯一のもの。





イメージ 4 聖賢堂
明倫館の聖廟前観徳門の左右にあった東塾・西塾の遺構。
明倫館は廃校後、両塾あわせて1棟とし、市内東田町の阿呼神社境内に移築されていた。
大正7年(1918)再び元の地の明倫館址へ移築された。
吉妻造起り屋根桟瓦葺
大棟の両端には一文字三星の毛利家家紋の鬼瓦が載せてある。




イメージ 5

                                案内図

萩には、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」でも度々登場する藩校「明倫館」があった。

吉田寅次郎(松陰)、や小田村伊之助(蚊取素彦)もここで教鞭をふるった。

その跡を訪ねると、それは昨年まで現役だった萩市立明倫小学校の構内にあった。

というより、慶応3年(1867)明倫館が廃校となった後、明治9年(1876)頃には建物は大半の建物は破却され

たり、一部はよそに移築された。

その跡地に小学校が建てられたのだ。

近年、移築されていた明倫館の一部の建物がこの旧地に再び集約移築されたのである。

明倫館は5代藩主毛利吉元の代の享保3年(1718)萩城三の丸追廻筋(堀内)に開校した。敷地980坪だった。

13代藩主毛利敬親(タカチカ)の代の嘉永2年(1849)に現在地に敷地15、184坪、建物総坪数11、328坪、

練兵場2,020坪の広大な規模の新明倫館に移った。


イメージ 1 旧明倫小学校校門
向って右前に「明倫館址」の碑が建つ




イメージ 2

                                   南門(表御門)
明倫館の正門、 切妻造本瓦葺四脚門   弘化5年(1848)正月に建立
明治15年(1882)西田町の本願寺山口別院萩分院の表門として移築された。
山口別院からの寄付を受け平成16年(2004)建築当初の位置に復原した。




イメージ 3 明倫館碑
2基ある。
向って左は元文6年(1741)6代藩主毛利宗広が創立の由来を伝える為に建てたもの。
向って右は嘉永2年(1849)13代藩主毛利敬親が新明倫館開校を記念して建てたもの。





イメージ 4 碑文を削られた跡
向って右の毛利敬親の建てた碑の碑文の一部が削り取られた部分がある。
幕府に対する忠心を意味する「幕命而」の部分である。




イメージ 5 観徳門
嘉永2年(1849)建立
木造瓦棒銅板葺 出入り口は一間一戸
左右に唐破風そ備えた平唐門
両袖に連子格子の塀を付けている。
扉は上部に連子を入れた桟唐戸で両開きとなっている。
孔子を祀った聖廟の前門。
明倫館正門と聖廟との中間に位置し、冸水(ハンスイ)に架かる万歳橋を渡り、聖廟を巡らす石柵内への入り口になっていた。
本願寺萩別院に移されて客殿門となっていたが昭和57年(1982)明倫小学校敷地内の現在地に移された。



イメージ 6 有備館
明倫館内に建築された剣術と槍術の稽古場。
明倫館の建物で唯一残ったもの。
木造一重入母屋造桟瓦葺平屋建
桁行37.8m、梁間10.8mと南北に長い建物
有備館の名称は大正4年江戸桜田の萩藩邸内にあった藩の文武講習所の名をとって改称したもので、当時の図面では「剣槍稽古場」と記載されている。
小学校の教室に使われそのように改められたが、昭和44年〜45年にかけて保存修理が行われ、移築当初の建物様式に戻された。



イメージ 7 有備館入口
有備館は藩士の練武のほか他国からの剣槍の修行者との試合場
即ち「他国修業者引請剣槍場」でもあった。
入口にはその旨の額が架かっていた。
入り口の右手に藩主臨場の場合使う控えの間がある。
文久2年(1862)1月14日土佐の坂本竜馬が土佐勤王党首領武市瑞山の手紙を久坂玄瑞にとどける為萩に来て9日間滞在した。
その間に、有備館にて試合したと言われている。




イメージ 8 有備館剣術場
北半分は板間39畳の剣術場、西側は藩主の上覧場としている。
南半分は土間54畳の槍術場その西側は上覧場としている。
旧明倫館にあった時は剣術場と槍術場は別の建物として分かれていた。
新明倫館に移る際、二つの建物を一つに合わせ現在の位置に移転改築されたものと伝えられている。

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