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午前中斑鳩を廻り、午後13時ごろ奈良へ来た。 JR奈良駅で下車し、ぶらぶらしながら奈良公園を横断し、山辺の路の入口近くの「新薬師寺」、「白毫 寺」までいって来た。 JR奈良駅近くでは、米穀店の軒先に杉の葉を使って造った「ミミズク」らしき飾りが吊り下げられており 面白いので、思わずカメラをパチリ。 平日の所為か、思ったよりというか、予想通りに観光客が少なく、人を掻き分けて歩くということはな い。 春日神社方向に向って猿沢の池と興福寺の間の道を歩いていると道脇に「植桜楓之碑」が建っていた。 此の道は今まで何度と無く歩いているが、この碑には初めて気が付いた。 碑の傍に、碑の文章の写しと解説が書いてあった。 それによると幕末の弘化3年(1846)から嘉永4年(1851)の5年間奈良奉行を勤めた川路聖謨(カワジトシアキラ)の呼 びかけで桜と楓を植樹した時、嘉永3年(1850)喜んだ人々が建碑し、川路聖謨が乞われて文を記したもの で、植樹により造られた憩いの場を維持する為、今後も補う為の植樹することを訴えている考えはそのま ま現代に通じている。 市民の憩いの場、観光地となっている現在の奈良公園の整備の前駆的活動が、江戸時代末から既に 始まっていたことがよく分る。 植桜楓之碑 ・・・都人相議し、旧観を復さんと欲し、すなはち桜楓数千株を一刹の中に植う。 以って高円佐保の境におよびぶ・・・ (相談して、昔の美しい姿にしようと、桜と楓の数千株を東大寺・興福寺を中心に植樹し、南は白毫寺、西は佐保川堤まで及んだ。) ・・・みな以って遊人を娯しませて心月を怡(ヨロコ)ばすに足る。衆人喜び甚しく碑を建て 其事を勒せんとして記を余に請う。・・・ (植樹して人々が喜びが大きく記念碑を建てることにし碑文を頼んできた。) ・・・唯に都人の其の楽しみを得るのみならず、而して四方の来遊者もまた相とともに其の楽しみを 亨(ウ)く。 此余の欣懌してやむあたわざるところなり。 然れども歳月の久しき、桜や楓や枯槁の憂い無きにあたわず。 後人の若し能く之を補えは、則ち今日の遊観の楽しき、百世を閲みして替えざるべし。 此れ又余の後人に望むところなり。・・・ (地元の人々も、他所から来た人々も楽しめる。しかし、長い間には枯れてしまうので、後世の人々も植樹して木を補ってくれることを望む) 植桜楓之碑碑文 |
大和風土記
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法隆寺南から1km西に行くと奈良街道に面して龍田神社が鎮座している。 奈良街道は、このあたりでは国道25線にほぼ平行しており、古い民家を散見する。 龍田神社は今では天御柱大神、国御柱大神を主祭神に龍田大明神(龍田比古大神、龍田比女大神)を併祀し てる形になっているが、元々は龍田大明神を祭る神社である。 龍田大明神は、法隆寺建設地を探している聖徳太子を斑鳩の地に案内し、法隆寺の守護を約束した。 このため、法隆寺建立とともに、法隆寺守護と鬼門除神として龍田大明神を祭ったのが始まりである。 江戸時代までは法隆寺の管理化にあったが、明治の神仏分離で分かれた。 奈良街道に面して建つ鳥居の奥正面には社殿が、その前に左に大蘇鉄と「金剛流発祥之地」碑、右手に 大楠と根元に楠大明神の祠があった。 一見、極普通の神社であった。 中央本殿に天御柱大神、国御柱大神 右殿に龍田大明神(龍田比古大神、龍田比女大神) 左殿に天児屋根大神ほか3神 及び瀧祭大神 を祀っている。 この辺りは坂戸郷と呼ばれ、大和猿楽の四座の一つ、坂戸座を源流とする能・金剛流発祥の地である。 楠の樹齢は推定1000年とか |
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此地はもと聖徳太子の御学問処で、推古天皇の御創立になった官寺で、昔はたいしたものであったの だらうが、今は当時の建物塔許り残ってゐて他はみすぼらしい堂宇許りだ。(高浜虚子「斑鳩物語」中) 法輪寺から田園の中の道を東に700m程行くと法起寺が建っていた。 実をたわわに実らせた穂の稲田や野菜畑が広がっている。それに無花果園もあった。 高浜虚子の「斑鳩物語」では、主人公が4月に仕事で法起寺を訪れ、三重塔から眺める景色として、菜の 花畑と梨棚が続いていると描写していたが、その中の梨園は全く見なかった。 そして、法起寺の近くでは、菜の花畑の代わりにコスモス畑が広がり、法起寺の塔との組み合わせの 景観は素晴らしかった。 法起寺は南に使用されない南大門、その北の先に講堂が建ち、途中に、右側に我が国最古の三重塔で国宝 の三重塔、左側に鐘楼跡の石組みと聖天堂が建っていた。 「斑鳩物語」で”みすぼらしい堂宇”といっているのは講堂や聖天堂を指しているのだろうか? みすぼらしい堂宇とは思わないが、講堂も聖天堂も扉を堅く閉ざし中を拝観できなかった。 法起寺は、推古14年(606)聖徳太子が法華経を講説したという岡本宮を寺に改めたものと伝え、 聖徳太子建立7ヶ寺の一つに数えられている。 三重塔にあった露盤銘によると、推古30年(622)2月22日聖徳太子は薨去に臨み、長子の山背大兄王(ヤマシロオ オエノオウ)に岡本宮を改めて寺とすることを命じたという。 その後寺観を整え、奈良時代に入っても相当栄えていたが、平安時代には法隆寺の管理下に入った。 寺運は徐々に衰え、江戸時代の初め頃には三重塔を残すのみだったという。 その荒廃を憂いた真政円忍とその弟子達により、三重塔を修復し、講堂を再建、聖天堂を建立し、現在の 寺観が整えられた。 講堂の向って左となりに昭和57年(1982)建てられた収蔵庫があり、本尊の十一面観音菩薩立像(平安時 代、重文)、真政円忍像などの仏像が安置してあった。 ただ、外から扉のガラス窓から覗く様にして拝観するようになったおり、反射してよく分らなかった。 外からの眺め 左端の建物が南大門、聖天堂の屋根、国宝の三重塔を望む 南大門は使われていないらしく、 門の前は草ぼうぼうであった。 普段の出入は西門で行っている。 三重塔 慶雲3年(706)建立 我が国最古の三重塔 国宝。 昭和47年(1972)〜昭和50年(1975)解体修理 一重の石段上に建ち、三間四方三層、高さ23.9m 文久3年(1868)建立 内部は中央に歓喜天 背後横一列に向って左から 大日如来(江戸時代) 阿弥陀如来(江戸時代) 地蔵菩薩(平安時代) が並んでいるそうだ。 元禄7年(1694)再建 昭和53年(1978)修理 正面に「法起寺」の額が掲げられている。 因みに、聖徳太子建立7カ寺とは、平安時代法隆寺の僧が聖徳太子の伝承などを収録した「上宮聖徳法王 定説」に太子縁の寺として挙られている寺で、次の寺の名が記されている。 法隆寺:奈良県斑鳩町 四天王寺:大阪府大阪市 広隆寺:京都府京都市 法起寺:奈良県斑鳩町 中宮寺:奈良県斑鳩町 橘寺:奈良県明日香村 葛城寺 現在廃寺 所在地は確定しておらず、3箇所が候補地として挙がっている。
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南にひらいた山門を入ると、右に重層の金堂があり、左に三重の塔を仰ぐ。塔と金堂の間を北へ すすむと講堂があり、講堂の右側に鐘楼がある。廻廊こそないがこの配置は法隆寺と全く同一である。 ― 中 略 ― 金堂も講堂も名ばかりと云っていいほど荒れ果てている。寺域を囲む築地もむろんわずかしか残って いない。松の大樹と雑草につつまれて蒼然たる有様である。(亀井勝一郎「大和古寺風物誌」法輪寺) 法隆寺東院伽藍から北に約1km進む。此のあたりでは田園が広がっている。 今は、頭を垂れた稲田越しに法輪寺の三重塔が望めた。 昭和17年亀井勝一郎が訪れた法輪寺は、冒頭に記した様な状態であった。 しかし、法隆寺式といわれる伽藍の配置は変わっていないが、建物は変わっている。 現在は、表門(山門)の先正面にある講堂は昭和35年(1960)鉄筋コンクリート造の収蔵庫となっており、 亀井が訪れた頃金堂に安置していた諸仏を安置している。 三重塔は昭和19年(1944)の落雷で焼失してしまい、昭和50年(1975)再建されている。 金堂(宝暦11年、1761再建)は廻りを柵で近づけられないようになっていたが、その後と手入れはされてい るようだ。 講堂の背後には妙見堂(平成15年、2003建替)、地蔵堂と建ち、境内もきちん整理されていた。 講堂で薬師如来坐像(飛鳥時代 重文)、虚空蔵菩薩立像(飛鳥時代 重文)、等重文6体を含む仏像、 及び 鴟尾瓦(飛鳥時代、重文)などの寺宝を拝観した。 が訪れた法輪寺は、飛鳥からの由緒を持つ古寺の風格はあるが、亀井が記す様な荒廃した寺ではなかった。 法輪寺の由緒、伽藍、諸仏について、 が知り得たことより、法輪寺の公式HPに丁寧に説明されていることが分った。 したがって、これ以上御託を書くのは止め、そのHPを末尾に紹介しておく。 遠 望 昭和35年(1960)改築 本尊を初め諸仏を安置 宝暦11年(1761)再建 昭和50年(1975)再建 平成15年(2003)建替 江戸時代 築 石像地蔵菩薩立像(鎌倉時代末)を安置 |
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法隆寺の夢殿の南門の前に宿屋が三軒ほど固まっている。 其の中の一軒の大黒屋といふうちに車屋は梶棒を下ろした。 −−−−−−−−− 此の座敷のすぐ下から菜の花が咲き続いて居る。 さうして菜の花許りでは無く其と点接して梨子の棚がある。其の梨子も今は花盛りだ。 (高浜虚子「斑鳩物語」上) 近畿全体が晴れとの天気予報だったので、奈良地方に観光に出かけた。 10時頃法隆寺駅を降り、駅前の自転車店でレンタルサイクルを借た。 早速北に向かって自転車を漕ぐと法隆寺東院伽藍南門前に出た。 そこで、夏目漱石に触発されて小説を書き出した高浜虚子の「斑鳩物語」を思い出した。 「斑鳩物語」では、主人公の「余」がこの前の旅館「大黒屋」に投宿する所から、物語が始まる。 そして、ここから、鉄道線路まで菜の花畑と梨の棚続く様子を描いていたが、周囲を見渡した所、時季が 違うとは言え、宅地化市街化の波は、今はそれを殆ど偲べなくしている。 描写は次のようの続く、 黄色い菜の花が織物の地で、白い梨子の花は高く浮き織りになってゐるやうだ。 殊に梨子の花は密生してゐない。其荒い隙間から菜の花の透いて見えるのが際立って美しい。 其に処々麦畑も点在して居る。 偶々燈心草を作った水田もある。 梨子の花は其等に頓着なく浮織りになって遠く彼方に続いて居る。 半里も離れた所にレールの少し高い土手が見える。(高浜虚子「斑鳩物語」上) 法隆寺東院には、修学旅行で来ているのであろうか、高校生で溢れていた。 法隆寺の北にある法輪寺、法起寺を拝観し終え、再び法隆寺に戻って中門の方へ回ると、 今度は小学生の団体が続々と続いていた。 天気予報通り、極めて天気が良い。彼等のためにも喜ばずはいられなかった。 東院南門(不明門) 室町中期の長禄3年(1459)建立、三軒一戸の八脚門、重文 現在東院伽藍の出入は西門であるが、正門はこの南門である。かっては推古天皇の宸筆による勅額(現在は東京国立博物館に収蔵)が掲げられており、一般の通行が許されず門が閉じられていたので、不明門(アケズノモン)とも呼ばれるようになったとか。 五重塔と中門 中門(国宝)は西院伽藍の本来の出入口(現在、拝観は回廊の西南隅から入る。 東西に和銅4年(711)造立の金剛力士像(塑造、重文)が安置。 回廊(国宝)越しに五重塔(国宝)の上半分が覗く。 |
が訪れた法輪寺は、飛鳥からの由緒を持つ古寺の風格はあるが、亀井が記す様な荒廃した寺では


