ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

大和風土記

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:)は、所用があって橿原市在住のCさん宅を訪れた。

辞する際、近くにおふさ観音があると教えてくださった。

以前からその名はよく聞いていたので、暑いが行って見ることにした。

JR畝傍駅東側の南北に通る道を、南に十数分ほど下ると、そこがおふさ観音であった。

門前には催し物のチラシや、観光パンフレットなどが置かれ、ポスターが貼られた賑やかな寺だ。

正面の本堂までの参道は勿論のこと、境内中風鈴が吊り下げられ、風がほとんど無いにも関わらず涼やか

な音色を奏でていた。

風が吹いていたらさぞや煩いのでは?と、余計なことまで考えてしまった。

8月31日まで風鈴祭りとして境内中を風鈴で飾り、風鈴の即売もしているそうだ。

おふさ観音は、山号を十無量山と号し、高野山真言宗別格本山観音寺と呼ぶのが正式らしい。

パンフレットによると、寺の縁起は次の通りだ。

本堂の建つ一帯は、かっては「鯉ヶ淵」と呼ばれる大きな池だった。

慶安3年(1650)4月早朝、土地の娘・おふさが池の辺りを歩いていると、白い亀の背中に乗った観音様が現

われた。

そこで、この池に小さなお堂を建て、その観音様を祀った。

時代を経て、現在の寺へと発展し、庶民信仰の寺として親しまれているとのことであった。

確かに、平日にもかかわらず、参拝者が訪れていた。

本堂まえにてボケ封じを祈願した。


イメージ 1

                             おふさ観音寺門


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                              本 堂
参道には風鈴が、本堂軒先には祈願を記した短冊が吊り下げられていた。
本尊十一面観音立像、内陣に入り間近に寄っても、周囲が暗いのと、御本尊自体も褐色であったので、御姿は良く分らなかった。
徹底的に本物に似せて造った人形「生き人形」の飯田喜八郎像を公開してた。
飯田喜八郎は明治時代おふさ観音の発展に貢献した人物だ。
大和ボケ封じ霊場  大和十三仏霊場八番札所




イメージ 4 亀の池
本堂(向って)左横にある小さな池
多くの亀が甲羅干しをしていた。
白い亀は見当たらなかった。



イメージ 5

                              円空庭・鯉の池
境内奥に日本庭園「円空庭」があり、無量公開されていた。
鯉の池を中心に作庭されており、ここでも風鈴がアクセントとして吊り下げられていた。

夏は、世に知らず暑き  (清少納言「枕草子」122段)


数日前に立秋となり暦の上では秋となったが、連日猛暑が続く。

平安の何某の女官は「世に類も無いほどの暑いのがいい」と言っている。

扇風機やクラーなぞ無い時代だが、パンツ一枚の様な姿で過ごしていたのだろうか?

そんなことを思いながら、近鉄八木西口駅から、汗をふきふき初瀬街道(国道165号)を東に向って歩いて

いた。

JR桜井線「畝傍駅」手前に、小振りながらこの辺りとは異なる"ルネサンス風の意匠"の建物が建ってい

た。

鉄筋コンクリート2階建で、両側を円柱で飾られた中央出入口があり、その上部にはアーチ型の窓が設け

られている。

左隅には「登録有形文化財」のプレートが貼り付けられていた。

昭和3年(1928)六十八銀行(南都銀行の前身の一つ)八木支店として建てられたものだ。

その後、一時映画館にもなったが、昭和38年(1963)和歌山相互銀行(後、和歌山銀行)橿原支店となり、現

在はウエディングレストランとなっている。

設計は、奈良県技師の舟橋俊一で、銀行建築としての風格が十分に出ている。

ただ中央出入口と上部のアーチ窓の間に、昼間なので点灯されていないが、ネオンサイン灯があるのはア

ンバランス感が否めず、建物の風格を壊していると思った。


イメージ 1

                    旧六十八銀行八木支店(旧和歌山銀行橿原支店)

村上義光(ヨシテル)の墓から緩やかな坂道を下りてくると、吉野神宮の前に着いた。その間約1kmだ。

吉野神宮は明治25年(1892)「吉野宮」として創建でされ、大正7年(1918)「吉野神宮」に改称された。

祭神は、延元4年(1339)吉野で崩御された後醍醐天皇。

吉野山丈六平に鎮座し、正面社頭から境内に入ると、大きな鳥居、手水舎、神門と続き、北面する拝殿、

本殿が建っていた。

現在の社殿は昭和7年(1932)改築されたもので、いづれも銅板葺の建物である。

我々が訪れた時は、時折参拝者が訪れる程度で、静寂としていた。

この後、吉野神宮から近鉄吉野神宮駅までは15分程度であった。



イメージ 1 吉野神宮社頭



イメージ 2 正面鳥居



イメージ 3 手水舎・神門



イメージ 4 拝 殿



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                               本 殿
 後醍醐天皇を祀る。  
後村上天皇がお作りになられたといわれ、吉水神社(明治7年まで吉水院)に奉安されていた後醍醐天皇の尊像もここに移されている。

金峯山寺黒門を過ぎると、普通は、吉野山ロープウェイで下るか、又は、七曲坂を歩いて下って帰ること

になる。

我々は、時間があるので、このまま尾根道の車道を進み、吉野神宮に向かうことにした。

緩やかな坂道が続いた。

観光コースから外れている所為か、歩いている人は殆ど見かけなかった。

途中、掘割に架かる大橋や村上義光(ヨシテル)の墓があり、大塔宮護良(モリナガ)親王が北条方と戦った往時の

よすがを偲んだ。

その他、美しい吉野山の風景と共に、芭蕉句碑、峰の薬師堂跡があり、綺麗に並んだ杉並木があったり

し、それらをうろうろ見ている内に吉野神宮に着いた。


イメージ 1 大 橋
尾根道を遮断するような形でつくった掘割に架かる橋
掘割は元弘3年(1333)大塔宮護良(モリナガ)親王が北条幕府に対し吉野城に立て籠もった時のもの。
現在は堀部分の空間を埋めた鉄筋コンクリート造となっている。


イメージ 2 芭蕉句碑
芭蕉の句碑と称するものが道脇に2つ立っていた。
一つは全く文字が分らず、他の方は達筆過ぎて何が書かれているのか分らなかった。
因みに、芭蕉は貞享元年(1683)と元禄元年(1688)の二度吉野を訪れている。



イメージ 3 村上義光墓への標石
左側の道脇に建っていた。
標石に従って杉林の中に入るとすぐに村上義光(ヨシテル)の墓があった。



イメージ 4 イメージ 5
                              村上義光廟所
石柵に囲まれた中に義光の墓石である宝篋印塔と、柵の右外に忠烈碑が建っていた。
石柵正面の向かって左側にはミニチュアの鎧が奉納されていた。
村上彦四郎義光は信州埴科の人で、早くから大塔宮護良親王に従って北条幕府と戦ったが、元弘3年(1333)吉野城が落ちる時、大塔宮の身代わりになって蔵王堂二天門の高櫓の上で腹をかき切って果てた。
その義光の首を検分した北条方が大塔宮でないことを知り、ここに捨てられたのを里人が弔って墓としたものという。
太平記によれば、義光の首は京都へ持っていかれたので、ここには胴体が埋葬されたのであろうか?
忠烈碑は天明3年(1773)大和高取藩士内藤景文が義光の戦功を讃えて建てたもの。
なお、義光の子・義隆も、父と共に死のうとしたが、大塔宮を護って落ち延びるように諭され、高野山に向かう途中、追いかけてきた敵と戦い討ち死にし、義隆の墓が勝手神社の南西1kmの所にあるそうだ。


村上父子が敵を防ぎ、うち死しけるその間に、宮は危ふき死を遁れさせ給ひて、高野山へぞ

落ちさせ給ひける

さる程に、二階堂出羽入道、村上が宮のまねをして腹を切ったりつるを実と心得て、その頸を

取って京都へ上せ、六波羅の実検に晒しければ、あるにもあらぬ頸なりと申しけれな、獄門に

懸くるまでもなくて九原の苔に埋もれけるこそ無慙(ムザン)なれ。(「太平記」巻第七)



イメージ 6 峰の薬師堂跡
義光の墓を過ぎ杉林が途切れた道脇に標石が立っていた。
明治初年まで瓦葺の大きなお寺があったが、廃仏毀釈で取り壊され、本尊の薬師如来は行方不明となり、
石造不動明王は如意輪寺の境内に移され、今も近畿36不動尊の第三十番難切不動尊として厚い信仰を受けているそうだ。


イメージ 7 杉の並木
道路沿いに、幹が垂直に剪定された杉が綺麗に並んでいた。

銅鳥居から黒門に向かっている途中、左手に「関屋地蔵尊」を幟を立てたお寺があったので覗いてみた。

弘願寺といい、元は金峯山寺の末寺山之坊であったが、現在真言宗高野山派の末寺である。

弘願寺の門を入ると、左手に小さな厨子形の地蔵堂があり、そこに安置されている石仏が関屋地蔵尊と呼

ばれるお地蔵であった。

お地蔵様は、像高約1.2m 大きな舟形光背を背に、右手に錫杖、左手に宝珠を持っ分厚い半肉彫りの立像

で、眼はやや細めでかすかに笑みをたたえていた。

明治初年関屋桜のほとりにあったものを移したもので、古くから除災招福、病難消除、とりわけ歯の痛み

に霊験あるとのことであった。


イメージ 1 弘願寺



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                         地蔵堂と関屋地蔵尊
光背の右側に「為供養法華経千部施主」、左側に「永正12年(1515)乙亥八月十五日」とあり右側の行に法名らしき文字が見える。頭上にも7個の梵字が刻まれていて、恐らくいずれかの結縁衆が法華経一千部読誦供養の記念に現世安穏・極楽往生を願って造立したのだろう、と説明してあった。

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