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吉野の中心寺院金峯山寺の本堂・蔵王堂を中心に堂宇が並ぶ。 蔵王堂の前には、右に愛染堂、観音堂、左に、神楽殿、威徳天満宮、左隣に鐘楼が建っていた。 それらを一通り巡って次へと足をのばした。 7世紀後半の伝説的山岳修験者で、修験道の祖とされる役行者が開いた金峯山寺は、江戸幕府に警戒され たにも関わらず発展を遂げた。 しかし、明治に入り、神仏分離、修験道廃止政策の為、金峯山寺は一時廃寺に追い込まれた。 その後再興が許され、山上は大峯山寺として分離し、天台宗に属した。 昭和23年(1948)大峯修験宗を立宗して独立。 さらに、昭和27年(1952)金峯山修験宗に改称して総本山となった。 因みに、平成16年(2004)金峯山寺を含む吉野・大峯及び大峯奥駆道が「紀伊山地の霊場と参詣道」として ユネスコの世界遺産に登録された。 愛染堂 蔵王堂右前に位置する。本尊は一面六臂で憤怒の形相した愛染明王坐像(江戸時代) 観音堂 愛染堂の北隣に並ぶ。本尊は聖観音菩薩 威徳天満宮 蔵王堂左前に位置する。祭神は菅原道真 社伝によると、天徳3年(959)鎮座したとされる。 椿山寺(竹林院の前身)で出家した日蔵道賢(如意輪寺の開基)が大峯山中の笙の窟で修行中の或る日、急に仮死して閻魔宮へいった。 そこで冥土に彷徨う延喜の帝(醍醐天皇)に出会い、「藤原時平の告げ口で菅原道真を太宰府に流してしまった罪で死後の苦しみに遭っている。上人はもう一度甦って道真の霊を祀ってほしい。そうすれば、この世の苦しみから救われる」と云われたと思ったら、日蔵はこの世に甦った。 日蔵は修行を終えると、吉野山に帰り、威徳天満宮として祀った。 なお、類似の話は、(承久本「北野天神縁起」などないものもあるが、)多くの天神縁起の詞書にあり、「十訓抄」、「扶桑略記(巻第25 道賢上人冥途記)」などにもみられる。 現社殿は平成10年(1998)台風7号により大被害を受け、平成13年(2001)復旧したもの。 蔵王堂の西となりに位置する。 隣の蔵王堂が余に大きいので、小さく見える。 |
大和風土記
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江戸時代初期の慶長19年(1614)徳川家康が、側近の天海に金峯山寺の支配を命じた。 吉野が権力に立ち向かう者を迎え入れてきた風土に、不安を感じたからであろう。 吉野は、古くは壬申の乱前夜大海人皇子(後の天武天皇)が身を寄せた。 また、兄頼朝に追われた源義経を匿った。 そして、北条幕府に対する倒幕の狼煙をあげた大塔宮護良親王を受け入れ、足利幕府・北朝に対する南朝 の拠点ともなった。 こうした目で、金峯山寺の本堂・蔵王堂の周囲を見渡すと、建武の中興前後の兵乱の旧跡である大塔宮御 陣所跡、村上義光忠死の処碑、後醍醐天皇導きの稲荷、南朝妙法殿などが点在していた。 大塔宮御陣所跡 蔵王堂正面の石柵に囲まれ区域。桜の木が四本植えられている。 元弘3年(1333)後醍醐天皇第二皇子・大塔宮護良親王が北条幕府の大軍に攻められ吉野に立て籠った時、ここ蔵王堂を本陣とし、落城に際し、四本桜のある前庭で最後の酒宴を開いた所。 後世ここに桜を植え、大塔宮御陣地跡として記念されている。 この時の様子を「太平記」では次のように描いている。 ・・・劣らぬ兵二十余人、前後にしたがへて、敵のたなびき引きたる中へ破って入り、東西を払ひ、 南北を追ひまわし、黒煙を立てて切って廻らせ給ふに、寄せて大勢なりといへども、 宮の怪力に辟易して、木の葉の風に散るが如く四方の谷へさっと引く。 敵引けば、宮は蔵王堂の大庭になみ居させ給ひて、油幕を掲げさせ、閑かに最後の御酒盛ありける。 (「太平記」巻第七 ) (大塔宮に劣らない兵20余人を前後左右に従えて、群がって待ち構えている敵の中に割って入り、東西へ払いのけ、南北に追いまわし、土煙をあげて斬りまくった。寄せては大勢だといっても、宮の怪力におそれたじろぎ、木の葉が風に舞い散るように四方の谷へさっと退いてしまった。 敵が退くと、宮は蔵王堂の庭に兵たちを並んで座らせ、油引きの幕を張らせて、心静かに最後の酒盛りをなさった。) 大塔宮御陣所跡の石柵内に立つ青銅製の灯篭 文明3年(1471)妙久禅尼という尼さんが寄進したもの。 室町時代の秀作、重文 大塔宮御陣所跡の(南)先に「村上義光(ヨシテル)忠死之所」と刻まれた石碑が建っている。 昔、二天門が建っており、元弘3年(1333)吉野落城の際、前庭での酒宴も終り、いざ決戦という時、大塔宮の家臣・村上彦四郎義光が宮の鎧兜を身につけ、宮の身代わりとなって二天門に駆け上がり、腹を一文字に掻き切って壮烈な最期をとげた。 大塔宮はこの隙に勝手神社横の谷を抜け、無事に高野山へ落ち延びることが出来た。 「太平記」では義光の壮烈な最後を次のように記している。 ・・・その後、村上義光は、今ははやばや宮はつつがなく落ちのびさせ給ひむと思しき程になって 高櫓に登り、小間の板皆切って落とし身を露はにし、大音揚げて名乗りけるは −中略ー と言ふまに、鎧の上帯を解いて櫓より下へなげ下ろし、錦の鎧直垂の袴ばかりに、練り貫きの 二小袖を推しはだぬぎ、白く清気なるはだに刀を突き立て、左の脇より右のそば腹まで、 一文字にかき切って、はらわたつかんで櫓の板になげ付け、刀をくはへてうつ伏しになってぞ、 臥したりける。(「太平記」巻第七) (その後、村上義光は、もうすでに大塔宮は落ち延びされたと思われる頃合になったので、高櫓に登り、狭間の窓板をすべて切り落とし、敵に体を晒して、大音声で名乗りあげて云うには ー中略ー と言うや、鎧の上帯を解いて、櫓から下に投げ落し、錦仕立ての鎧直垂の袴一つになり、練絹の二重小袖を肌脱ぎにして、白く美しい肌に刀を突き立て、左の脇から右の横腹まで真一文字にかき切って、腸を掴んで櫓の板に投げつけ、刀を口にくわえてうつぶせになり、横たわった。) 延元元年(1336)8月21日密かに京都花山院を脱出した後醍醐天皇は28日に吉野の行宮に着いた。 途中道に迷い、と伏見の稲荷社にさしかかった時に「むば玉の 暗きやみ路に 迷うなり 我に貸さなむ 三つのともし火」と詠むと、一叢の紅い雲が現われて、吉野への臨幸の道を照らし導き、金の御岳(金峯山)の上で消えうせた(「吉野拾遺物語」明神臨幸の道を照し給ふ事)という。 その稲荷を勧請した社。 心に迷いが生じた時、この神に祈ると、自ずから道が開けるという言い伝えがあるとのこと。 「太平記」では、後醍醐天皇の吉野潜幸について、次の様に記している。 ・・・八月二十八の夜事なれば、道いとど暗くして、行くべき様もなかりけるところに、にはかに 春日山の上より金峯山の峰まで、光物飛び渡る勢ひ見えて、松明の如くなる光よもすがら 天を輝かし、地を照らしける間、道分明に見えて、程なく翌の明ぼのに、大和国賀名生(ガナウ) というところへぞ落ち着かせ玉ひける。(「太平記」巻第十八) 蔵王堂の西側先に建つ 昭和31年(1956)南朝の行宮とした金輪王寺(実城寺)跡に建立 後醍醐天皇以下南朝4代の天皇、殉じた忠臣たちの霊を祀っている。 高く突き出ているのは「八角三重塔」で釈迦如来坐像(平安時代 重文)を安置する。 後醍醐天皇は延元元年(1339)12月28日吉水宗信に迎えられて吉水院に身を寄せられた。 その後、最も広い実城院に行宮を移し、金輪王院と改めた。 延元4年(1339)京への帰還を果たせぬまま52歳で崩御された。 悲しきかな、北辰位高くして、百官星の如くつらなれども、九泉の旅路には供奉する臣独りもなし。 奈何かせん、南山地険しくして、万卒雲の如く聚まると云へども無明の敵来れば、 防ぎ留むる事さらになし。(「太平記」巻第二十一) (悲しいことに、帝の位は北極星の様に尊く、多くの臣下が星の様に並んで居るが、黄泉路の旅にはお供する臣下は一人も居ない。どうすればよいというのだろうか、吉野は地険しく、多数の兵が雲の様に集るとはいえ、死という敵が来たら、防ぎ止めることは全く出来ない。) 徳川時代になると幕府は、金輪王寺の寺号を没収して日光に移し(日光 輪王寺)、元の実城寺となって明治を迎えたが、廃仏の嵐にあって廃寺となってしまった。
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昔、役行者、吉野山に行はれる時、釈迦の像、現じ給ひけるを、「この御形にて、この国の衆生は 化し難かるべし。隠れさせ給へ。」と申されければ、次は弥勒の御形を現じ給ふ。 「猶、これもかなはじ」と申されける時、当時の蔵王権現とて恐ろしげなる御形を現じ給退ける時、 「これこそ我が国の能化」申し給ひければ、今跡を垂れ給ふ。行人の信心深くして、心を一つにし 敬ふに、実ある時は感応ありて利益にあづかる。(無住「沙石集」巻第一ノ四 ) (昔、役行者が吉野山で修行をなさっていた時、釈迦の像を現じなさったので「この御姿ではこの国の衆生を教化するのは難しいでしょう。お隠れください」と申し上げたところ、次に弥勒菩薩の御姿を現じなさった。「やはりこれも駄目でしょう」と申された時、今の蔵王権現というおそろしげな形相の姿を現じなさった時、これこそ我が国を教化できるもの」と申し上げられたので、今、跡を垂れて出現していらっしゃるのである。修行する人の信心が深くて、心を一つにして敬うと、真心ある時は神が感応して、ご利益にあずかるのである。) 金峯山寺本堂・蔵王堂に来た。 三体の巨大な蔵王権現立像を安置する。 寺伝によれば、金峯山の山上ヶ岳(標高1719m)で衆生救済を祈願して、役行者(役小角、神変大菩薩)が混 迷する濁世を正すにふさわしい仏の出現を念じた。 最初に釈迦如来、次に千手観音菩薩、最後に弥勒菩薩が現われた。 役行者は優しすぎる三仏の姿に満足しなかった。 そこで、再度祈ると雷鳴と共に憤怒の形相の蔵王権現が出現した。 役行者は山桜の木に蔵王権現像を刻み、山上ヶ岳と吉野山の二ヶ所に安置した。 これが金峯山寺蔵王堂の起こりという。 本尊の三体の蔵王権現は秘仏で、普段は巨大な厨子の中に納まっている。 しかし、今年は3月31日〜6月7日の期間、仁王門修理勧進のため特別開扉している。 この為とGWの所為もあって、参拝者で賑わっていた。 なお、金峯山寺の蔵王堂は、山上ヶ岳の大峯山寺の「山上の蔵王堂」に対し、「山下(サンゲ)の蔵王堂」と いわれている。 蔵王堂(本堂) 入母屋桧皮葺 二階建てに見えるが裳階(モコシ)で、一重裳階付き、国宝 高さ34m、奥行き、幅とも36m、木造国宝建物としては東大寺大仏殿に次ぐ規模を持つ豪壮な建物。 役行者が創建し、行基が大改修したと伝わるが、現在の建物は天正20年(1592)再建 内陣では、厨子が開扉され、三体の蔵王権現立像が姿を見せた。 三体ともほぼ同じ姿である。 ・三鈷杵(サンコショ、密教法具の一つ)を握った右腕を振り上げ、刀印(人差し指と中指をのばした剣の印)を結んだ左手を腰に当てている。 ・右足は高く蹴り上げ、左足は磐石を踏む。 ・全身は群青色に染め、火焔を背負い、髪を天を突くように逆立て、怒りの顔をしている。 中尊が約7.3m、向かって右の左尊が約6.2m、向かって左の右尊が約5.9mと、その巨大さと迫力で、圧倒された。 三体の蔵王権現は、元は中尊が釈迦如来、左尊が千手観音菩薩、右尊が弥勒菩薩である。 仮(権)の姿で現われたもので、過去、現在、未来の三世に渡る衆生救済を約束するものだそうだ。 大きな提灯が釣られた外陣から内陣に入る。 大提灯は近年新調されたものの様だ。 内陣では本尊の三体の蔵王権現立像以外にも、奥に諸仏が安置されていた。 南方の小丘「韋駄天山」の頂からも蔵王堂が眺められた。 |
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金の御岳(金峯山)は一天下、金剛蔵王釈迦弥勒、稲荷も八幡も木島も、人の参らぬ時ぞ無き (「梁塵秘抄」) 馬の背と呼ばれる尾根道の参詣道を下り、金峯山寺に入った。 逆順で歩いてきたので、当然金峯山寺にも逆順に巡ったのであるが、説明としてはややこしくなるので、 金峯山寺の稿のみ以下普通の参拝順に編集して記載する。 通常、(パンフレットに拠れば)近鉄吉野駅から歩いて約20分、ロープウェイなら約3分で山上に着く。 すぐに金峯山寺総門の黒門が出迎える。 そこから、風情ある門前町が続く、黒門から10分ほど歩くと、銅の鳥居を経て、仁王門に着いた。 仁王門は北面に向き重厚な姿で建ち、門の左右に立つ5mを超える仁王像の威容に圧倒された。 ほっとして周囲を見ると、西南方向に本堂の蔵王堂が目の先に建っていた。 金峯山寺の総門で城郭によく用いられる高麗門様式だ。 昔は公家、大名といえども、この門からは槍を伏せ、馬から下りて通行したという。 因みに、金峯山というのは吉野山から大峯山に至る峰続きを指し、修験道関係の寺院塔頭が軒を連ねていた。それらの総門がこの黒門だった。 現在のは昭和60年(1985)金峯山寺本堂・蔵王堂の大屋根大修理にあわせて改築されたもの。 建立年代不詳。重文 俗に、東大寺大仏建立の余銅で造立されたとの伝承がある。 現在のものは、正徳元年(1711)再建で銅製の鳥居としては現存最古のもの。 正面に「発心門」の額を掲げている。 山上ヶ岳(大峯山)にある山上蔵王堂までにある四つの門の第一門である。 即ち、この鳥居は俗界と浄域との結界であり、仏道修行を発心するところ、菩提心を起こすところとされる。 宮島の木の鳥居、四天王寺の石の鳥居と並んで日本三鳥居の一つとされる。 仁王門 庚正2年(1456)再建 重層入母屋造、棟の高さ20.3m 日本屈指の山門、国宝 本堂蔵王堂の東北方向に位置し、本堂蔵王堂は南に向くが、逆の北向きに建つ。 仁王像 南北朝時代、興福寺大仏師の庚成の作で、像高5mを超える檜材寄木造り 重文 像内の銘文により阿形像(右)は延元3年(1338)、吽形像(左)は翌年造られた。 仁王像完成直後、吉野潜行されていた後醍醐天皇は崩御されたことになる。 |
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東南院から谷筋に折れ少し行くと標石があり、程なくして吉水(ヨシミズ)神社に着いた。 吉水神社は後醍醐天皇を祭神とし、楠正成、吉水院宗信法印を合祀している。 吉水神社は、元は吉水院といい、白鳳年間に役行者が創建したと伝える格式高い僧坊であった。 神仏分離令によって明治8年(1875)寺号を廃し、吉水神社と神社に改まった。 その間、吉水神社(吉水院)は吉野を代表する歴史の舞台であった。 文治元年(1185)源義経が兄源頼朝の圧迫から逃れて静御前、弁慶らと共に一時身を隠し、静御前と別れ 奥州へ落ちて行った悲恋の場所である。 また、延元元年(1336)京の花山院から逃れた後醍醐天皇が、吉水院宗信の援護のもとに当社を行宮 (アングウ)とし、血涙の歴史を記す南朝の大舞台である。 文禄3年(1594)太閤秀吉(豊臣秀吉)は当社を本陣とし、5千人の家来を引き連れて大花見の盛宴を催し、 天下にその権勢を示したのは有名である。 それらの名残りを示す文物が書院に展示してあり、吉水神社の歴史をしばし偲ぶことができた。 「従是吉水院」、側面に「源義経静御前古跡アリ」と彫られている。 神門過ぎたところにある小庭園 豊臣秀吉が吉野の花見する際、自ら基本設計したと伝える。 弁慶の力釘 二抱えする石に2本の釘が挿し込まれ、頭だけ覗いている。 弁慶が力試しに、或いは追手を威嚇する為に、親指で石へ押し込んだものと伝えられる。 後に、秀吉が吉野の花見の際、「力をもらいたい」と言って、弁慶の釘に触れたと伝えている。 後醍醐天皇を祀る。 隣に勝手神社が仮遷座していた。 本社の向かって左隣に楠公祠があった。 書 院 現存する最古の書院建築。後醍醐天皇玉座、義経潜居の間、弁慶思案の間がある。 義経潜居の間は、室町初期の改築で床棚書院の初期の様式を伝える。 後醍醐天皇玉座は、秀吉が花見に際し修理したもので豪華な桃山時代の風格を残した書院である。 書院前庭園 直ぐ目の前に金峯山寺蔵王堂が眺められる。 また、後醍醐天皇が京への凱旋を夢見たとされる「北闕門(ホクケツモン)」建っていた。 後醍醐天皇は、延元4年(1339)8月金輪王寺(実城寺 明治初年に廃寺)にて 「・・・玉骨はたとひ南山の苔に埋(ウズ)むるとも 霊魄(レイハク)は常に北闕の天をのぞまんと思ふなり」(「太平記」巻第21) との遺言を残し、御年52歳で崩御された。 |



