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世の人の心まとはす事、色欲にはしかず。 人の心はおろかなる物かな。 匂ひなとは かりのものなるに、しばらく衣装に薫物(タキモノ)すと知りながら、えならぬ匂ひには、 必ず心ときめきするものなり。 久米の仙人の物洗ふ女の脛の 白きを見て通を失ひけんは、誠に手足・はだへなどの きよらに、 肥えあぶらづきたらんは、外の色ならねは、さもあらんかし。 (吉田兼好「徒然草」第8段) (世の人の心を惑わすことでは、色欲に及ぶものはない。この点、人は実に馬鹿なものだ。匂いなどでも一時的な物で、少しの間衣装に薫物の香を付けたと知りながら、何とも言えないいい匂いすれば、必ず心をわくわくしてしまうものだ。 久米の仙人が洗濯する女の白い脛を見て神通力を失ったと言う話があるが、ほんとうに手足や肌が美しくムチムチしているのが、化粧などではなく肌そのものの色だから、久米の仙人が神通力を失ったのはもっともなことだ。) とっくに(暦の上では)春になったというのに、寒さが続いている。 去年の今頃はどこをぶらついていたのか?と思いながら、近鉄橿原神宮前駅で下車した。 近鉄南大阪線に沿って5分ほど歩くと久米寺に出た。 久米寺は、正式には霊禅山東塔院久米寺という真言宗御室派の寺で、本尊は薬師如来。 現在の久米寺は大寺というほどではないが、結構な広さの境内を持つ寺である。 しかし、かっては大寺だったらしく、山門近くに巨石を並べた大塔礎石が残っていた。 創建については、種々説があり、時期も明らかではないようだ。有名な言い伝えは2つある。 一つは、聖徳太子の弟・来目(クメ)皇子が7歳の時、眼病を患い、薬師如来に願を掛けたところ平癒したの で、そのお礼に諸堂伽藍を建立したといもの。 もう一つは、久米仙人が建立したと言うもの。 龍門寺で修行した久米仙人は仙術で空を飛べるようになった。或る日空を飛んでいる時、川で洗濯してい る女のふくらはぎを見とれて神通力を失い、地上に落下してしまった。 その後、久米仙人はその女と結婚し、普通の俗人として暮らした。 ある時、高市の都の造営(「古今物語」巻第11によっているが、「久米寺流記」、「七大寺巡礼記」 では東大寺造営となっている)に働くが、回復した神通力で、工事に貢献した。 それを喜ばれた天皇からいただいた30町歩で寺を建立した。それが久米寺であるという。 なお、久米仙人のことは「扶桑略記」や「元亨釈書」巻18の神仙 にも見られ、それだけ説話として ヴァリエーションがある。
仁王像
江戸時代再建 本尊:薬師如来
軒下を見るとなかなか立派な彫刻が施してあり、色は薄れているがかっては色鮮やかな彩色の跡が見とれた。 嘉永初年(1850年頃)京都御室御所仁和寺より移築したもの(重文) 本尊:法界定印を結ぶ大日如来 山門の裏手に、巨岩の礎石が残る。
絵 馬
伝説による久米仙人の図柄と「なまず祈願」と記したなまずの図柄の絵馬があった。なまずと当久米寺と、どいう関係があるのか確認し損なった。 |
大和風土記
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奥の院から、再び聖天堂、本堂前辺りに戻ってきた。 本堂向かって右手奥に入って行くと、寺院には珍しい洋風建築が建っていた。 明治17年(1884)建てられた客殿(迎賓館)で、「獅子閣」と名付けられ、重文登録されている建物だ。 一見コロニアル風の洋風建築であるが、良く見ると装飾などに和風が取り入れられている不思議な感じの する建物だ。残念ながら内部は拝観できない。 建物は崖から突き出した建てられている。床下の柱群は清水寺等の舞台造りの建物を連想させる。 玄関の扉も良く見ると赤、青、黄、緑の色ガラスだ。内から見ればさぞや美しいだろう。 玄関の前に竹筒から水を注ぎ込まれ、水を湛えている蓮葉状の水盤が置かれていた。 水中に二匹の魚が泳いでいる姿が見えた。近づいてよく見ると水中に置かれた置物だった。 良く出来ている、と思わず感心してしまった。 獅子閣詳細部(左:玄関、右:側面) 前面に置かれた水盤 獅子閣全景 |
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杉木立で鬱蒼と茂る奥の院への参道は両脇には石仏が並ぶ石階段だった。 両脇の石仏は水子供養のお地蔵さんで,この参道を地蔵坂道と呼ばれるそうだ。 参道の途中には弘法大師像を安置する大師堂があり、更に上っていくと奥の院にたどり着いた。 奥の院には、本堂、湛海律師を祀る開山堂、大黒堂などが堂宇が並んでいた。 参拝者の姿がほとんど見られずひっそりとしていた。 奥の院参道 昭和42年(1967)再建 弘法大師像を安置 「南無大師遍照金剛」と称名した。 明和6年(1769)建立 中興開山湛海律師自作の自身像が安置されている。 開山堂の背後には、湛海律師が眠る開山廟がある。 安政3年(1856)再建 本尊は不動明王 湛海入山当初の居場所とされる場所 |
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本堂、聖天堂が並ぶ境内を横切り、般若窟の麓まで行ってみた。 途中に、文殊堂、常楽殿、観音堂などが山道の脇にt所狭しに建っていた。 般若窟には立ち入ることができなかったが、岩前には遥拝所があり、そこから般若窟を拝む。 般若窟から戻りかけると、般若窟に望む様な位置にで多宝塔が建っていた。 多宝塔自体は近年建てられたものであるが、本尊は湛海律師自作の愛染明王である。 多宝塔前を過ぎると、この先奥の院へ通じる参道だった。 文殊堂 昭和53年(1978)築 本尊文殊菩薩騎獅像 昭和33年(1958)築 本尊如意輪観音、左右の脇侍に吉祥天女、毘沙門天 観音堂 天保15年(1800)再建 昭和35年(1960)増築 本尊十一面観音立像(室町時代) 遥拝所と般若窟 般若窟は役行者が梵字の般若経を納めたと伝え、弘法大師もこの地で修行した霊跡である。 中興開山湛海律師は役行者がこの般若窟を弥勒浄土の内院になぞらえて修行したことから、本尊弥勒菩薩像を始め、役行者像を祀った。参拝路から見える社は、岩船明神社(左)、と弁才天社(右)。 遥拝所内には、虚空蔵菩薩、三宝荒神、大日如来、弁才天、稲荷大明神、役行者が安置してあった。 昭和32年(1957)竣工 本尊は湛海自作の愛染明王 仏塔古寺18尊霊場第15番札所 西国愛染明王霊場第14番札所 |
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今年の干支・兎の絵を掲げた鐘楼を過ぎ、中門を抜けると、役行者や弘法大師ゆかりの般若窟の下に本 堂、聖天堂等の主要堂宇が建つ境内に出た。 平日にも係わらず参拝者が多く訪れて、堂宇の前は線香の煙が霞のように漂っていた。 宝山寺は、山号が「生駒山」で、真言律宗の大本山である。 延宝6年(1678)湛海が、奈良時代に役行者が般若窟を行場としたと伝えられるこの地に開山した。 当初、都吏陀山(トダサン)大聖無動寺と称した。 後に元禄5年(1692)宝山寺と書かれた弘法大師の真蹟が見出されたことにより「宝山寺」と改めた。 (宝山寺では役行者を開基、湛海律師を中興開山としている。) また、湛海が勧請した大聖歓喜天(通称「聖天」)は霊験あらたかな仏として篤く信仰され、寺は「生駒の 聖天さん」或いは単に「聖天さん」と呼ばれ親しまれている。 中門の前に建つ。 後方に重文の獅子閣が見える。 彫刻が素晴らしい。 正し鳥の害を防ぐ為にネットで被ているのは残念。 明治33年(1900)落成 五層長身、多数の宝鐸を付けた優雅な銅塔 朝日塔の背後、本堂の向かって右に立っていた。 本 堂 貞享5年(1688)建立 本尊は湛海自作の不動明王及び五使者像(制咤迦童子、矜羯羅童子、倶利伽羅竜王、 華吉祥天、蓮薬厠坭(ヤクシニ)) 本堂の背後にそびえる山の岩屋が般若窟 近畿36不動尊 第29番霊場
聖天堂・拝殿 明治8年(1875)再建 大聖歓喜天(聖天)安置の厨子が中央に置かれ、「商売繁昌のご利益がある」といわれている。 手前の拝殿は明治10年(1877)再建、中拝殿で聖天堂をつなぎ、1棟とする。 棟数が多いことから「八棟造り」と呼ばれる。拝殿前には鳥居が建ち、神仏混淆の名残りが強い。 |



