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10時頃、近鉄奈良線生駒駅で降りた。 そこから1,2分歩いた所にあるケーブルカーで鳥居駅から宝山寺駅に登った。 平日の所為か乗客は5,6人だった。いずれも小さなリュックを背負っていた。 他の人たちは宝山寺駅から乗り継いで生駒山頂上を目指していったが、 だけは宝山寺駅で下車した。「生駒の聖天さん」、または単に「聖天さん」と呼ばれる宝山寺参拝の為である。 駅の外へ出ると近くに、近鉄生駒駅近くから続く上り道の参道の終点近くに出た。 この辺りになると参道は綺麗な石階段となり、左右に灯篭が並んでいて、其の先にはまるで神社の境内に 入る様に大きな鳥居が立っていた。 ここまでは別ルートで車でも来られるらしく、鳥居の近くには車の安全祈願の祈祷殿(金剛殿)があり、近 くには水掛地蔵が立っておられた。 更に石段を上り、惣門をくぐると左右に石仏が並んでおり、線香の煙が周囲を充満していた。 参道の先には鳥居が建っているが、宝山寺は寺院である。 参道右側に並ぶ石仏 惣門をくぐって右側は地蔵堂となっており地蔵菩薩像、弘法大師像などが並んでいた。 中には首が落ちて、替わりの首を据えられたお地蔵さんもあった。 参道左側に並ぶ石仏 七福神像、大日如来像、延命地蔵尊像が建っていた。皆比較的新しい造像であった。 |
大和風土記
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釣べ落としと秋の空、早くも陽が沈み始めた。 東大寺から近鉄奈良駅に向かって二条大路を歩いていると、右手に県庁があり、奥の本棟玄関に観光マス コットの「せんとくん」人形が立っていたので、記念に写真を撮る。 撮っていたら守衛さんが、屋上が開放されていると、教えてくださったので上ってみた。 屋上には、すでに5,6人が夕闇せまる周囲の景色を眺めていた。 奈良県庁は高層という訳ではないが、周囲にそれ以上の高い建物がないので、360度景色が眺められる。 その中で奈良公園越しの興福寺五重塔の景色が印象的であった。 せんとくんを選定した時には色々物議が出たが、それが返って話題になり人気が出、マスコットキャラクターとして定着したようです。 県庁屋上広場南方向 |
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転害門から東大寺の境内に入る。 境内には鹿がうろうろしており、観光客に餌を強請るに余念がない。 それに気を引かれながら、境内をうろうろしていると、戒壇堂の表門前に来た。 内部拝観可能だったので入ると、正面にほぼ四角の戒壇堂が聳えていた。 天平勝宝6年(754)聖武上皇は光明皇后等と共に、唐から来朝した鑑真から戒を授かり、翌年日本初の正式 な授戒の場として戒壇院を建立した。 建立当初の戒壇院は,戒壇堂、講堂、僧房、廻廊などを備えていた。 しかし、治承4年(1180)、文安3年(1441)、永禄10年(1567)と、江戸時代までに3度火災で焼失した。 現在は、戒壇堂と千手堂(非公開)が復興されている。 現在の戒壇堂は享保17年(1732)再建されたものである。 戒壇堂の内部は3段の戒壇が設けられている。 3段なのは大乗菩薩の三聚浄戒を表しているという。 壇上4隅には四天王(塑像)が守護し、中央に、鑑真が唐から将来したという釈迦、多宝の2仏(を模したも の)を祀る多宝塔が安置されていた。 甲冑姿で邪鬼を踏まえた四天王像で守護された授戒の場は、独特の雰囲気を醸し出していた。 ただ、この時は周囲に気をとられてしまい、個々の四天王像にはあまり細かく注意を向けなかった。 後で、井上靖の「美しきものとの出会い」の中で、東大寺戒壇院の四天王像について記した次の一節を見 つけた時、もう少し注意を払って見ておけばよかったと悔やんだのであった。 「もともとこの四像はおかれるべきところに置かれているのであって、お互いに無関係な置かれ方を しているわけではない。 持国、増長の二天は動的な表情姿態を持ち、広目、多聞の二天はそれに較べると、ずっと静かである。 手の構え方も、それぞれ二体ずつ照応し合っており、四体共通なことは、いずれも正確なデッサンで 造型され、その怒りも、厳しさも、すべて内部深く蔵されているといった作風がとられていることで ある。」(井上靖「美しきものとの出会い」10水分神社の女神) 戒壇堂 |
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一条通りを東に向かって歩いていると正面に東大寺の転害門に突き当たった。 三間一戸八脚門で、基壇高さを除く門の高さは10.64mの堂々とした門で、西に向かって凛として建ってい た。 大仏殿から吉祥の方向である西北に建つことから、、「害を転ずる」との意から「転害門」と呼ばれる。 また、もと佐保路と言われた平城京一条大路に西面にして建立されたので「佐保路門」とも呼ばれた。 また、源頼朝を暗殺しようとして平景清が潜んだという伝説から「景清門」とも言うそうだ。 この門は、治承4年(1180)平重衡の焼き討ちや永禄10年(1567)三好・松永の合戦による焼失を免れ、 鎌倉時代の改修を受けているが、東大寺伽藍における天平時代の唯一の遺構である(国宝)。 この門は、当時鎮守八幡宮(手向山八幡宮)の祭礼が行われて、遷座の場所となり重要視されてきた。 基壇中央には神輿安置の小礎4個が据えられ、天井も格天井に改められ、現在も川上町の有志により大注 連縄が中央2柱に懸けられている。 京街道に面しているため、平安時代末期から民家が立ち並び、中世以降には東大寺郷の一つである転害門 郷(手貝郷)が生まれ、江戸時代には旅宿として発展した、とのこと。 転害門 転害門を南に下ると「史跡 東大寺旧境内」の標柱と共に、「西大門跡」碑や礎石、一里塚などがあり かっての広大な東大寺の西端だったことが改めて感じられた。 |
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不退寺を南に下ると、すぐに一条通りに出た。 一条通りは西は法華寺の南側を通り、東は東大寺転害門に到る東西に通じる道だ。 一条通りを東(すなわち、東大寺転害門方向)に向かって歩く。 やがて佐保川を渡る手前の北側に、聖武天皇・光明皇后陵入口があった。 拝所内の玉砂利道を北に向かって歩くと数分で聖武天皇陵があり、そこより右手に少し入ると光明皇后陵 があった。 天平を代表するお二方は、あたかも比翼塚といってよい様子で眠られていた。 藤皇后(光明皇后が聖武)天皇に奉る御歌一首
(平城の都に雪が降りしきる日、背の君と肩をならべ、その雪を眺めていたならばどんなに嬉しいことでしょうか) 正面が聖武天皇陵、光明皇后陵は斜め右側にそれた奥にある。 佐保山南陵とも言われる。 聖武天皇(在位724〜749)は文武天皇と藤原宮子の皇子、幼名首(オビト)皇子 天正天皇から継いだ第45代天皇天平勝宝元年(749)娘の安倍内親王(孝謙天皇)に譲位 天平勝宝8年(756)崩御 佐保山東陵とも言われる 光明皇后は藤原不比等と橘三千代の娘 因みに聖武天皇の母・藤原宮子は異母姉 天平宝字4年(760)崩御 「続日本紀」巻第22 淳仁天皇紀には天平宝字4年6月皇后が崩じた時、次のような追悼の文が記されてい る。 ・・・幼くして聡慧にして、はやく声誉を播けり。 勝玄感神聖武皇帝儲弍(チョジ)とありし日、納れて妃としたまふ。時に年十六。 衆御を接引して、皆、その歓を尽くし、まさしく礼訓にならひ、あつく仏道を崇む。 (幼い時から聡明であることが知られていた。聖武天皇が皇太子であった時、妃となられた。この時16歳であった。多くの人々に接して皆その喜びを尽くすようにし、礼儀にかなった行いをし、仏道を篤く崇拝された。) ・・・太后(光明皇后)仁慈にして、志、物を救ふに有り。 東大寺と天下の国分寺とを創建するは、本、太后の勧めし所なり。 また、悲田・施薬の両院を設けて、天下の飢ゑ病める徒療し養す。 (光明皇后は慈悲深く、志は人々を救うことだった。東大寺や国分寺の創建は、光明皇后が天皇に勧めたの事による。悲田院、施薬院を設けて、天下の病者や飢えた者を救い養われた。)
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だけは宝山寺駅で下車した。


