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標識とパンフレットを頼りに神功皇后陵から平城宮跡に向かって「歴史の道」を歩く。 この辺りは「佐紀古墳群」と言われる古墳の多いところだ。 近鉄京都線を渡り、程なくして、両側が巨大な古墳の狭間を歩いていた。 周囲は緑に囲まれ両側は水を湛えた堀で、道の両脇には街路樹として松が植えられている。 散策には絶好の場所と思われる。 巨大な古墳は、成務天皇陵と、日葉酢媛命陵だった。近くに称徳(孝謙)天皇陵もある。 陵のすぐ近くに山上八幡宮、さらに進むと佐紀神社が鎮座しており、それら神社ではいずれも祭りの最中 だった。 こうしてうろうろ歩いている内に、やがて復元された大極殿や朱雀門が望まれる平城宮跡の北側に着い た。 成務天皇陵と日葉酢媛命陵の間道は、両側が陵の堀となり松が植樹されて、大変雰囲気の良い道だ。 佐城盾列池後陵(サキノタタナミノイケシリノミササギ)、佐紀石塚山古墳 全長218mの前方後円墳 成務天皇は、稚足彦命(ワカタラシヒコノミコト)、 若帯日子天皇(ワカタラシヒコノスメラノミコト)とも呼ばれ、 第13代天皇 景行天皇の皇子で日本武尊とは異母兄弟 狭木之寺間陵(サキノテラマノミササギ)、佐紀陵山古墳 全長207mの前方後円墳 かっては神功皇后陵とみなされた時もあった。 日葉酢媛命(ヒバスヒメノミコト)は垂仁天皇(第11代天皇)の皇后で、 景行天皇(第12代天皇)や 倭姫命(初代斎宮) の母、 祭神は天照皇大神、 八幡大明神(誉田別命、応神天皇) 春日大明神(天児屋根命) 社殿に向かって左後方に、天正19年(1591)豊臣秀吉が朝鮮出兵の際の戦勝祈願して手植えした杉がある。 ここもお祭だった。
佐紀神社(社頭、拝殿)
祭神は天児屋根命経津主命 六御縣神 ここもお祭だった。 復元された大極殿が手前に、南の遠くに朱雀門が見える。 因みに大極殿は平成22年(2010)、 朱雀門は平成10年(1998)に復元された。 |
大和風土記
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奈良市観光センターの観光地図を片手に、秋篠寺から「歴史の道」に添って神功皇后陵、成務天皇陵・日 葉酢姫命陵、平城宮跡を通り、法華寺に向かう。 「歴史の道」の道標は設置されているが、道がくねくねしていて分りずらい。時々道を外れたりする。 それでもまず始めの神功皇后陵にたどり着いた。 丘陵を切り開いて造成されており、全長275mで濠をめぐらした巨大な前方後円墳である。 神功皇后は「日本書紀」では気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)、「古事記」では息長帯比売命などと記され、 第14代仲哀天皇の皇后、第15代応神天皇の生母とされる。 神功皇后について、「記」「紀」に、三韓征伐などの話などの記述があり、北九州の各地や播磨・摂津の 海岸沿いにも多くの伝説・伝承が残る。戦前には切手やお札の肖像画が使われたほどだ。 しかし、戦後の歴史学上からは抹殺されてしまった人物の一人である。 そして、この古墳が神功皇后陵と定まるまでに紆余曲折があったようだ。(例えば現在の日葉酢姫命陵が 神功皇后陵と思われたいた時期があった。) そんなことを、つい思いながら先を急いぐと、 陵の南側には神功皇后母子などを祀る八幡宮が鎮座しており、丁度秋祭りの最中であった。 狭城盾列池上(サキノタテナミイケノヘ)陵、五社神(ゴザシ)古墳 拝所内(向かって東側)にある八基の燈籠は 延享2年(1745)〜寛政2年(1790)の銘があるとのこと 創建は不明 祭神は八幡神(応神天皇)、 神功皇后、 玉依媛命(神武天皇の母) 木造平屋桟瓦葺 春日型千鳥破風流造桧皮葺 |
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「境内の雑木林の緑の深さ。木々の下に一面敷き詰められたような艶やか苔・・・・・・ その美しさに息をのむ思いをした。・・・・・街中にこれほど豊な自然と静かなる場所が 残っているのは奇跡のようだ。」 (五木寛之「百寺巡礼」第1巻奈良) 本堂の諸仏を間近に拝観した後、再び境内に出た。 丁度西側に位置する開山堂周辺には万霊供養塔や舎利塔が立ち、本堂の周辺のおごそかな雰囲気とは異な った清楚な景観を創出していた。そして、ふと足元に目を落とすと行者像が2体並んでいた。 秋篠寺は、奈良時代末期、宝亀7年(776)弘仁天皇の勅願ににより、薬師如来を本尊として、興福寺の僧正 善珠大徳が開基したとされる。 一方、この地が秋篠朝臣の所領地で、その氏寺を後に光仁天皇が善珠僧正を請じて勅願寺にしたという説 もある。 開基直当初には金堂、講堂や東西両塔などを備えた大伽藍であった。 開基直後には、安殿(アテ)親王(後の平城天皇)の快気祈願が行われた。 また、平安時代が明治維新まで宮中で毎年正月に行われた大法大元帥御修法には、香水閣の水が用いられ て来た、など皇室とも所縁が深い寺であった。 しかし、保延元年(1135)一山兵火により、講堂の一部を残して、建物・仏像の大部分を焼失した。 鎌倉時代以降、講堂の修復(現本堂)、仏像の修復、南門の再興が行われてきた。 明治初年の廃仏毀釈で、無住職になったこともあり、寺域も大半を失った。 宗派としては、当初は法相宗であったが、平安時代以後は真言宗に転じ、明治初年には浄土宗西山派に属 したが、昭和24年(1949)単立の寺院として独立し現在に至っている。 境内には雑木林の中に金堂跡や、塔跡があり、盛時を偲ばせる。 安殿(アテ)親王(後の平城天皇)が描かせたといわれる善珠の図像が安置されている。
金堂跡
立ち入ることは出来なかったが、地表は苔に覆われて、大変美しい景観となっていた。南門近くの雑木林の中にあった。 西塔跡もある様だが立ち入り禁止になっていた。 桃山時代に再建されたと思われる。 重厚な造りの四脚門 南門出ると秋篠寺元鎮守社・八所御霊神社があった。 創立年代は不明とのこと。 丁度秋祭りが始まった所だった 祭神は崇道天皇ほか7柱 奥に建つ本殿は三間社流造桧皮葺 |
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「このミュウズの像は何んだか僕たちのもののやぅな気がせられて、わけてもお慕しい。 朱い髪をし、おほどかな御顔だけすっかり香にお杓けになって、右手を胸のあたりにもちあげて 軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられさぅな 様子をなすって、お立になってゐられた。」(堀辰雄「大和路信濃路」10月、午後秋篠寺にて) 近鉄西大寺駅から西北約1.2kmの所に秋篠寺が建っていた。 駐車場近くの東門より入る。次稿で紹介するが南門が正式な出入り口らしい。 落ち着きのある参道を行くと、途中に、香水閣、十三社、苔むす林となっている金堂跡があった。 そして主要伽藍(大元堂、本堂、開山堂、鐘楼)が建つ一角に来た。 ここで拝観料を払い、その内部に入った。 建物では、本堂のみが内部公開していた。 その薄暗い内陣には、帝釈天立像(重文)、不動明王立像、十二神像(6体ずつに別れ、中央の本尊・薬師如 来坐像をはさんでいる)、日光菩薩立像(重文)、薬師如来坐像(本尊、重文)、月光菩薩立像(重文)、地蔵 菩薩立像(重文)、伎芸天立像(重文)などの諸仏が壇上に一列に並び、間近に拝することが出来た。 左端に安置されている伎芸天立像は、「東洋のミューズ」とも讃えられるほどで、秋篠寺の諸仏の中でも もっとも有名な仏像である。 2mを越す大きな像であるが、少しひねったような姿勢をしており、威圧感を全く感じさせない。 安らかな表情とその優美な姿は、心が癒される思いだった。 別名大元帥井 門の奥に一段低くなった場所に今もこんこんと水が湧き出す霊泉。 承和元年(834)真言宗の僧常暁(ジョウギョウ)が秋篠寺に参詣した際、玉砂利を敷き詰めた井戸の水に憤怒の形相の大元帥明王の影を見て、その姿を法衣のの袖に写したといわれる。 大元帥(タイゲン)明王立像(重文)を安置 6月6日のみ一般拝観ができる。 唐へ渡った常暁(ジョウギョウ)は、栖霊寺で大元帥法を授けられた。 その本尊・大元帥明王は、秋篠寺の香水閣で見た通りの怒りの形相そのものだった。 このため、日本に戻った常暁(ジョウギョウ)は大元帥法を伝え、その本尊・大元帥明王を納めたという。 因みに、旧日本軍の「元帥(ゲンスイ)」の由来は、この大元帥明王からとのこと。 本 堂 鎌倉時代再建とみられるが、奈良時代の建築の伝統を生かしている建物。国宝 先に述べた諸仏が安置されており、至近距離で直接拝観することができた。 |
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当麻山口神社の前の道を挟んで向い(北側)の林の中に、傘堂が建っていた。 どうしてこんな所に建っているの?と思わずにはいられないところに建っていた。 宝形造り瓦屋根を真柱一本のみで支える、風変わりな建物だ。 総欅造りで小振りながら重厚な風格を備えている。 江戸時代前期、この地の郡奉行を務めていた吉弘統家(ヨシヒロノリイエ)が主君である郡山藩主本多政勝の没後、 その菩提を弔うため延宝2年(1674)に建立した「影堂」、「位牌堂」であった。 しかし、その形姿から一般に「傘堂」と呼ばれている。 何時の頃からか真柱の周囲に体を接しながら巡り、安楽往生を願う風習が生まれ、5月14日と当麻連座 には多くの人々が訪れるそうだ。 は少し趣向を変えて、傘堂の周囲に廻らしてある柵に体を接しながら、抱えている爆弾が破裂しないことを祈願しながら一周した。 傘 堂 |
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