|
牡丹の季節からはずれているが、境内には三々五々参詣グループが散策を楽しんでいた。 みんなの思いを繋ぐのは、薄幸な姫ぎみに寄せる哀憐、しかもその繊手が生み出した華麗な 織物への憧れである。 姫も蓮糸の曼荼羅も、伝説の所産にすぎないけれど、目に見えぬ香りさながら、それは 当麻の里の夕映えにかがよい、今なお私たちを甘美な幻想へといざなってくれる。 (杉本苑子「女人古寺巡礼」) 本堂へ向かう参道の左手に中之坊がある。 白鳳時代(645〜709)の当麻寺開創に伴い、役行者が開いた道場で、当麻寺最古の僧坊とのこと。 天平時代11世実雅上人が女人禁制を解いて中将姫を迎え入れ、弘仁時代(810〜824)弘法大師の授法を仰ぎ 真言宗の寺となった。(現在 高野山真言宗別格本山) 中将姫が剃髪したお堂(本堂)には姫の守り本尊「導き観音」が祀られ、特に女人の守り本尊として信仰さ れている。 庫裡と陀羅尼助精製の釜 拝観受付の庫裡の入ると入口脇に竃の置かれた釜があった。 陀羅尼助(役行者が創製した胃腸薬で、日本最古の和漢薬)を精製した大釜で、昭和57年(1982)まで使用されていた。薬草のエキスを煮出す釜(右)とエキスを煮詰める釜(左)である。 役行者がこの井戸を加持し、この井戸水と山野の薬草をもって陀羅尼助を作るとともに、製法を伝承した。 奈良時代 当麻寺は女人禁制であった為、中将姫は入山を許されなかった。 姫は入山したい一念から3日間念仏を唱えたところ、不思議にも石が足跡が付いた。 それ以後女人禁制が解かれたという。 本堂(中将姫剃髪堂) 建物は桃山時代再建。 本尊十一面観音:中将姫の守り本尊「導き観音」として信仰されている。 天平宝字7年(763)中将姫は当麻寺に入山、この堂で剃髪して尼になり、師である実雅法印から「法如」の名をもらった。 中将姫は剃髪した髪で六字の梵字を刺繍した。 その故事から6月16日に髪を供養し心身の健康を願う供養会が行われる。 貞享元年(1684)松尾芭蕉は中之坊を詣で、大松を見て詠んだ。 僧朝顔 幾死にかえる 法の松 境内案内図 |
大和風土記
[ リスト | 詳細 ]
|
「生と死の結界である二上山に抱かれる當麻寺には、浄土にまつわる数多くの物語がある。 物語はフィクションである。 しかし、様々な理論や学説や思想などが古びても、物語を必要とする人間の心は、永遠に変わらない。 浄土の物語を紡ぐこの寺が、千四百年にわたって庶民によって支えられてきた秘密を解く鍵は、 ここにあると思う」(五木寛之「百寺巡礼」第1巻奈良) 中将姫が一夜で織った蓮糸の曼荼羅を本尊とすることで知られる当麻寺は、二上山(517)のこんもりした 樹影を背景として静かな佇まいを見せていた。 修理工事中で素屋根が架けられた仁王門を過ぎ、境内に入る。 寺伝によれば、用明天皇の第3皇子麻呂子親王が異母兄の聖徳太子に薦められて、推古天皇20年(612) 河内味曾路(ミソロ 現大阪府太子町)に創建した万法蔵院に始まる。 天武天皇9年(687)麻呂子の孫・当麻真人国見(タイマノマヒトクニミ)が夢告によって役行者が修行した故地である 現在地に移し、この地方の豪族でもあった当麻氏の氏寺として伽藍整備した。 さらに、百済の恵灌僧正を導師として諸堂諸仏の供養を修し、寺号を当麻寺としたと伝えられる。 金堂、講堂が南北一直線に並びその西に本堂、金堂の南に、東西2つの三重塔が建つが、南北一直線に対 して左右対称ではない独特の伽藍配置をしていた。 なお、古代建立された東西両塔が完備しているのは全国でも当麻寺だけだそうだ。 宗旨としては始めは、南都六宗の一つ・三論宗であったが、弘仁14年(823)弘法大師が参籠してから真言宗 に替わった。さらに、鎌倉時代には浄土宗の霊場ともなり、南北朝時代に知恩院の僧が当麻寺に往生院 (奥院)を建立して浄土宗が加わり、以後現在まで、真言・浄土の二宗を併せる。 境内案内図 向かって左側に建つ。 梵鐘は白鳳時代のもので 我が国最古のもので国宝 仁王門(東大門)から本堂に向かう途中にあった。 中将姫が植えた松とか。 現在は枯れ、株だけである。 金堂・本堂・講堂 向かって左(南)が金堂、中央が本堂(曼荼羅堂)、右(北)が講堂 天平時代建立された千手堂、永暦2年(1161)旧堂を取り込む形で拡張。 現在の内陣が旧堂部分。国宝 本尊 文亀曼荼羅 天平宝字7年(763)中将姫が蓮糸で織ったと伝えられる蓮糸曼荼羅(国宝)を文亀年間(1501〜1504)転写したもの。 図柄は観無量寿経に説かれている西方浄土を描いたもの(浄土変相図) 約4m四方あり、保護の為か、網で覆ってあった上、近くに寄れなかったので、中央に阿弥陀如来、その左右に観音菩薩、勢至菩薩が描かれていることは分ったが、それ以上の細かい点はよく分らなかった。 曼荼羅を納める厨子と須弥壇は美しい螺鈿細工で国宝 他に、織姫観音と呼ばれる十一面観音像(く弘仁時代 重文)や中将姫自作と伝わる中将姫29歳像、恵心僧都作と伝えられる来迎仏等が安置してあり、身近に拝観できた。 鎌倉時代建立 重文 本尊阿弥陀如来坐像(平安時代 重文) 重文5体を含む平安・鎌倉時代の仏が安置してあった。 金堂は鎌倉時代建立 重文 元本尊の弥勒仏坐像(白鳳時代 塑像 国宝)を中心に 重文の四天王(多聞天鎌倉時代の木像、他は白鳳時代の塑像) と不動明王(平安時代の木像)が安置してあった。 東塔と共に天平時代建立の三重塔 国宝 法輪は八輪で東西両塔が現存するのは当麻寺のみ。 金堂の東側に建つ。 重文 白鳳時代作 松香石で作られた物 中将姫について、寺の境内の説明板などによれば、次の通りである。 「中将姫は奈良時代の右大臣藤原豊成の娘。5歳の時幼くして母を失い、継母に嫌われ、雲雀山に捨てら れた。 その後、父・豊成と再会し、一度は都に戻ったが、世をはかなんだ姫の願いにより当麻寺に入った。 称讃浄土経の一千巻の写経を達成し、17歳で中将法如として仏門に入った。 姫は、生身の弥陀を拝みたいと、毎日毎夜念じていると霊感が得られ、曼荼羅を織ることを決意した。 百駄の蓮茎を集めて蓮糸を繰り、これを井戸にひたすと糸は5色に染まった。 そして、その蓮糸を一夜にして1丈5尺(約4m)四方もの阿弥陀浄土図(蓮糸曼荼羅)を織り上げた。 姫が29歳の春、雲間から一条の光明と共に阿弥陀如来を始めとする25菩薩が来迎し、姫は西方浄土へ向か われたと伝えられている。 当麻寺では、毎年5月14日に練供養が行われるが、その伝承を再現したものである。」 勿論、中将姫については、あくまで伝承の世界であり、種々のバリエーションが伝わっている。 また、当麻寺に伝わる曼荼羅は、年月経過や浄土教の広まりと共に、神秘化し、極楽往生を願う中将姫 が、仏の力を得て、一夜にして織った蓮糸曼荼羅となってしまった。 科学の力によると、蓮糸曼荼羅と言われるものは勿論蓮糸でない。絹と麻の綴れ織りという。
|
|
中日も過ぎた天気の良い日、当麻寺参拝に出かけた。 信仰の徒ではないが、古社寺参拝を半ば趣味になった にとって、中将姫の伝説に彩られた当麻寺は興味がある。 近鉄「当麻寺」駅に着いたのは、11時少し前だった。一緒に下りたのは数名に過ぎない。 服装からすると、参拝と言うより、当麻寺西の背後に聳える二上山を巡るハイキングのようだ。 駅の改札口を出て、すぐに当麻寺参道に折れる。 角には「中将餅」を売る中将堂本舗の店があり、早速中将姫の名が出てくる。 この参道の途中に当麻蹶速(タイマノケハヤ)の塚があり、塚の向かいに相撲館「けはや座」が建っていた。 当麻蹶速が野見宿禰と勝負したのが相撲の始まりとされることを記念したものらしい。 他に、石仏、庚申塚、自然石の道標等があり、また、旧家と思われる建屋が並び門前町の面影が残る。 この参道を10分ほど歩くと、当麻寺仁王門前に着いた。 創業昭和4年(1929) 餡を載せた蓬餅 鳥居の奥に五輪塔 「日本書紀」によれば、大和国当麻に強力を誇る蹶速(ケハヤ)がいた。彼が勝負を欲していると聞いた垂仁天皇が、これまた強力を噂される出雲国の野見宿禰を召し寄せ、相撲をさせた。 互いに蹴り合い、蹶速は腰の踏み折られて死んだ。これが相撲の始まりとされる。 七年の秋七月の己巳の朔乙亥(7日)に左右奏してもうさく、 「當麻邑に勇みこはきひと有り、當摩蹶速(タイマノケハヤ)といふ。其の人となり力強くしてよく角を毀き 鉤を申ぶ。つねに衆中に語りていはく 『四方に求むに あに我が力に比ぶ者有らむや。如何にして強力者に遭ひて、死生をいはずして ひたぶるに力を比べせむ』という」ともうす。 (垂仁)天皇聞こし召して、群卿に詔してのたまはく「朕聞けり、當摩蹶速は天下の力士なりと。 若し、此に比ぶ人有らむや」とのたまふ。 一の臣進みてもうさく、「出雲国に勇士有り、野見宿禰といふ。試みに是の人を召して蹶速に あはせむと欲ふ。」とまうす。 即日 倭直(ヤマトノアタヒ)の祖長尾市を遣わして 野見宿禰を召す。是に野見宿禰出雲より至れり。 すなはち當摩蹶速と野見宿禰と角力とらしむ。 二人相対ひて立つ。各足を挙げて相踏む。則ち當摩蹶速が脇骨を踏みさく、亦其腰を踏み挫きて 殺しつ。故、當摩蹶速の地をとりて ことごとくに野見宿禰に賜ふ。 (「日本書紀」第六 垂仁天皇) 当麻蹶速の塚の隣のお堂に安置してある。 ほとんどの旧家の玄関には注連縄が取り付けたままになっていた。 道行く人に聞いてみたが理由は不明。 |
|
「晴れ」と云う今朝の天気予報に反して天気は悪くなってきた。 雨になったらかなわないので、早々に飛鳥駅に戻ることにした。 しかし、今日是非行っておきたい箇所の「甘樫丘」に途中寄った。 標高148mの丘の頂・展望広場に急ぎ足で上ると、左から畝傍山(199)、耳成山(140)、天香久山(152) の大和三山を遠望することができた。 甘樫丘は、古くは日本書紀などの中にも記述が見られ、7世紀には当時の有力者であった蘇我蝦夷、入鹿 親子が大邸宅を備えていた場所といわれる。 古の時代から多くの人々が登り、こうして大和盆地を眺めたに違いない。 しかし、当時は宮殿や大寺が点在していたかもしれないが、三山の眺望は今と変わっていないだろう。 実は20数年前、 は、万葉博士で知られる故犬養孝先生のゼミで、ご一緒に上ったことがある。この時、先生はどういう話をされたか忘れてしまったが、犬養節といわれた独特の節回しで、万葉集の歌 を幾つか披露されたことをしっかりと覚えている。 そして今、甘樫丘に立ち、大和三山を眺めていると、当時聞いた歌が聞こえてくる様な気がした。 甘樫の丘展望台からの大和三山
香具山は、畝傍山を取られるのが惜しいと、耳成山と争いがあった。神代からこの様であったらしい。 昔もそうであったからこそ 今の世の人も 妻を奪い合って争うらしい、と 大和三山の伝説を引き合いにして、中大兄(天智天皇)は、弟の大海人皇子(後の天武天皇)との間での、額田王(ヌカダノオオキミ)を巡る葛藤を吐露する長歌を詠んでいる。 天香久山について、万葉集や新古今集に載せられ、百人一首にも採られている、次の雄大な歌が好きだ。
桐の花 山腹に生えている桐の花が満開だった。 結局、 は飛鳥駅に戻り、予定より随分早く近鉄で帰った。しかし、当地はこの後も曇り空ではあったが雨は降らなかった様であった。
|
|
飛鳥寺から東北に数百メートル先の丘陵に飛鳥坐神社(アスカニイマスジンジャ)があった。 当社は氏子はなく、創祀以来社家は神主太比古命が第10代崇神天皇より「大神臣飛鳥直(オオミワノアソンアスカノアタ イ)」の姓を賜り「飛鳥」の姓で今日に至っている神社だ。ちなみに現在の宮司は87代目だそうだ。 そして、2月の第一日曜に奇祭「オンダ祭」が行われる神社だ。 このような事を知らなければ、ごく普通の神社だった。 少し風が出始め、空が暗くなってきた。これ以上飛鳥を回ることは諦めたほうが無難に思えてきた。 東日本大震災による被災地域の一刻も早い復興と、福島原発の終息を祈願して、早々に神社を後にした。 鳥形山(今の飛鳥の神奈備)という低い丘陵にある。 祭神は八重事代主命(大国主命第一子) 飛鳥神奈備三日女神(アスカノカンナビミヒノカミ) 大物主神 高皇産霊神(タカミムスビノカミ) で、家内安全、商売繁昌、開運厄除、夫婦和合、 身体健康、生育安全、念願成就、などの御神徳がある 参道途中に置かれていた径20cmほどの丸石 男の人は左手で、女の人は右手で持ち上げると幸福が掴めるとのこと。 手を突っ込みやってみたら、意外にも持ち上げることができた。 |
にとって、中将姫の伝説に彩られた当麻寺は興味


