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尾根道の参詣道を下って、大搭宮仰徳碑 さらに猿引坂に来た。 この辺りはもはや吉野の「中千本」言われる一帯で、周囲は満開の桜がである。 大搭宮仰徳碑の裏側から眺めると金峯山寺の蔵王堂がぐーんと近づいていた。 大塔宮護良親王の遺徳を偲んで皇紀2600年記念事業(昭和15年,1940)として建碑された。 大塔宮護良親王(延慶元年、1308〜建武2年、1335) 後醍醐天皇の第3皇子。18歳で比叡山に入り仏門に入る。 比叡山の大塔に因んで大塔宮尊雲法親王を名乗り、20歳の若さで天台座主に就任。 叡山の僧兵を麾下におさめ、吉野を拠点にして北條討滅に活躍、建武中興の陰の立役者であった。 しかし、足利尊氏との確執により見に覚えのない罪を着せられて鎌倉に幽閉される。 北條時行による鎌倉奪還の戦乱の際、宮が北條方の手に落ちるのを怖れた尊氏の弟・直義の命令により牢中にて斬殺された。時に28歳だった。 大塔宮仰徳碑からの眺望 猿引坂辺りの眺望 |
大和風土記
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上千本辺りに来ると、個体差があるが、サクラは均して3,4分先だった。 しかし、この辺りは高いところに位置しているので、目線を下に向けると満開の桜が望めた。 殊に花矢倉展望台とか御幸の芝辺りからの眺望は中千本さらに下千本へと続く満開の桜が素晴らしいもの だった。 明治初め頃の廃仏毀釈で廃寺になった世尊寺の跡。 本尊の釈迦如来立像は金峯山寺蔵王堂に安置されている。 釣り鐘はこの上の高台に安置されていた。 6体の石造地蔵尊 由来は不詳 旧世尊寺の釣鐘 重文 俗に吉野三郎と称される名鐘 初めこの鐘が造られたのは保延6年(1140)で、平忠盛が鵜飼千斤を施入した旨の銘がある。 忠盛が平家全盛時代を築いた清盛の父であるだけに、当時の厚い信仰の様子が偲ばれる。 その後この釣鐘は永暦元年(1160)、寛元3年(1245)に改鋳されている。 したがって、現在のものは約770年前のものと言うことになる。
花矢倉展望台からの眺望
上千本は桜の開花は平均して3分程度だが金峯山寺に下ってい行く参道は満開だった。先(写真右上)の大きな建物は金峯山寺蔵王堂 花矢倉展望台のすぐ近くににある塚 文治元年12月兄源頼朝に追われて吉野に逃れた義経主従は、金峯山寺の衆徒を味方にできず、逆に横川の覚範が襲ってきたので家来の一人・佐藤忠信が義経の身代わりになって戦い、義経主従一行落ち延びさせてると共に、中院谷(首塚の後ろの谷)で覚範を打ち取った。 その覚範の首を埋めた塚と言われている。 思ふところに斬り伏せて、忠信はしばし休みてぞ、押へる頚を掻き、太刀の先に貫いて、 中院の峰に登りて、大の声を以って、「大衆の中にこの頸見知りたる者やある。 音に聞こえつる覚範が頚をば、義経が取りたるぞ。 門弟あらば取りて孝養せよ」とて、 谷の雪の中へぞ投げ入れたる。(「義経記」巻第五 忠信吉野山合戦の事) 桜並木が続く 御幸の芝からの眺望 花矢倉展望台から少し下の台地。向いに明治8年(1875)の神仏分離で廃された雨師観音があったとされる。 「吉野拾遺」によると、後醍醐天皇が吉野の行宮におられた時のこと、五月雨が降り続くある日のこと、大勢のお供を連れてこの辺りに御幸されると、空模様がますます怪しくなってきた。 傍らの(雨師)観音堂に入ってしばらく休まれるうち、
そうすると、急に空が晴れ渡り、うららかな日和になったという。 |
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奥千本、金峯神社から参詣道を下ってきて、吉野水分(ミマクリ)神社あたりまで来た。 このすぐ近く下の花矢倉展望台辺りを上千本と言われる所だ。 桜の咲き具合は、1,2分咲きから満開に近いものまでと、個体によってずいぶん差がある。 吉野水分神社は、水を司る天之水分大神(アメノミクマリノオオカミ)を主祭神とし、延喜式神名帳に記載の古社。 慶長年間、豊臣秀頼が再建した社殿は、楼門と回廊、拝殿、幣殿、本殿がロの字型に配置されており、 何れも重要文化財であった。 重文 楼門は重層入り造 栃葺 左右に回廊が繋いでいる 回廊は単層切妻 栃葺 楼門の内側になぜか、フクロウの木像が置いてあった。 拝殿・幣殿 拝殿は入母屋造 杮葺 重文 幣殿は単層切妻造 杮葺 重文 天明5年(1785) 益田慶運作 江戸の大井八衛門が願主になって奉納したもの。 回廊に置かれていた。 横長に主面の本殿と向き合う 吉野水分神社は俗に子守明神ともいわれ幼児の守護神と信じられている。 拝殿の隅の一画には、乳房を模ったもの、涎掛け、腹帯、縫ぐるみなどが奉納してあった。 幣殿の両端に神輿が置かれていた。 八角八棟造で桃山時代のもの 本 殿 中央春日造、左右流造の3つの社殿を1棟につないだ形式、檜皮葺、重文 中央正殿には主祭神天之水分(アメノミクマリ)大神、 右の社殿には天萬栲幡千幡姫(アマヨロヅタクハタチハタヒメ)命、玉依姫命、天津彦火瓊々杵(アマツヒコホニニキ)命 左の社殿には高皇産霊(タカミムスビ)神、少名彦神、御子神 を祀っている。
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吉野の金峯神社から、奥千本を周回する山道を歩いていると(道案内がしっかりしているので方向音痴で も迷うことがなく)15分ほどで西行庵の前に来た。 周囲は、西行も愛でた桜の樹がぎっしり植えられているが、花や葉は出ておらず冬のような景色だった。 ただ、梢を通して降り注ぐ日差しは強かった。 この辺りの標高は約700mで、吉野の麓、下千本からはこの奥千本まで約500mの差があり、それが 桜の開花時期に大きな開きをもたらしている。 西行(俗名佐藤義清 1118〜1190)は俗世から離れ、この地に3年間侘び住まいしたと伝える。 西行が吉野を詠った和歌を新古今和歌集や、山家集の中から少し拾い出してみる。 ○吉野山 桜が枝に 雪散りて 花おそげなる 年にもあるかな (「新古今集」春上 79) ○吉野山 去年の枝折の 道かへて また見ぬ方の 花やたづねむ (「新古今集」春上 86) ○吉野山 梢の花を 見し日より 心は身に そはずなりき (「山家集」 66) ○木のもとに 旅寝すれば 吉野山 花のふすまを 着する春風 (「山家集」 125) ○なにとかく はるになりぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山 (「山家集」 1062) ○吉野山 花の散りにし このもとに とめし心は われを待つらむ (「山家集」 1453) 周回する奥千本の散策路をさらに歩くと、西行庵より5分ほどの処に「苔清水」があった。 西行が歌にし、西行を慕った松尾芭蕉も句にしているこの清水は、今も竹の樋から水がとくとく流れ出て いた。 この後金峯神社に向かって山道を歩く。 時々、四方正面堂跡、安禅寺蔵王堂跡、多宝塔跡、宝搭院跡などを見かけた。 明治初年の廃仏毀釈の嵐の前まで点在していたもので、今はそう言われなければ分からない林となってい た。 金峯神社へ一旦出て、そこから下千本へ通じる尾根道の参詣道を下り始めた。 周辺は西行が愛した桜が多く植えられているが未だ全く花はつけていなかった。 西行(俗名佐藤義清 1118〜1190)は俗世から離れ、この地に3年間侘び住まいしたと伝える。 西行庵の中には西行の木像が一体置かれていた。 苔清水 西行が歌っている苔清水は西行庵より少し下ったところにあった。
今も竹の樋に導かれた清水がとくとくと流れ出ていた。 清水の左右に、西行を慕って貞享元年(1684)と元禄元年(1688)の2度訪れた松尾芭蕉の句碑が立っていた(写真には、右側に建っていた句碑は写っていない)。
大峰山に向かう奥駆道と金峯神社の方に戻る道の分岐点近くにあった。 報恩大師が建立した安禅寺宝塔がこの辺りにあったと言われる。 上千本に下る尾根道脇にあった。 尾根道には垂直の幹の杉の美林が見られた。 明治初の神仏分離で廃絶した牛頭天王社の跡。 松尾芭蕉「野ざらし紀行」より 西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町ばかりわけ入るほど、柴人のかよふみちのみわずかに 有りて、さがしき谷をへだてらる、いとたふとし。 彼」とくとくの清水は昔にかはらずとみえて、いまもとくとくと雫落ける。 露とくとく こころみに浮世 すゝがばせ 若しこれ、扶桑に伯夷あらば、必ず口をすすがん。もし是、許由に告ば、耳をあらはむ。 松尾芭蕉「笈の小文」苔清水 より 春雨の こしたにつたふ 清水哉 吉野の花に三日とどまりて、曙・黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀まるさまなど、心にせまり 胸がみちて、あるは摂政公のながめにうばはれ、西行の枝折にまよひ、かの貞室が「是は是は」と 打ちなぐりたるに、われ言はん言葉もなくて、いたづらに口をとぢたる、いと口おし。 おもひ立たる風流いかめしく侍れども、ここに至りて無興の事なり。 |
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み吉野の 御金の岳に 間なくぞ 雨は降るといふ 時じくそ 雪は降るといふ その雨の 間なきごとく その雪の 時じきごと 間も落ちず 我は恋ふる 妹がただかに (「万葉集」巻第3 相聞 3293) (吉野の 御金の山に 絶え間なく雨は降ると言う 休み無く雪が降ると言う その雨の絶え間ないように その雪の休みが無いように 間をおかず 私は恋しく思う あの娘のことを) 各地は桜が満開だと言う。 世間より心持咲くのが遅れる、我が家近くの市立小学校校庭の桜もほぼ満開だ。 朝から天気が良い。 新聞の天気予報を見ると、明日から1週間ぐらい先は天気が悪そうだ。 花見するとしたら「今でしょう!!」、そこで、思い切って花見に吉野に出かけた。 吉野駅に着いたのは11時半ごろ、駅から見渡せる辺り、いわゆる「下千本」は満開だった。 そこからバスで(途中「中千本」で乗り継いで)「奥千本」まで行った。 流石にこの辺りでは全く咲いていない。 これから奥千本を散策し、その後尾根道を下って行く心算だ。 どの辺りから桜が咲いているのか見極めるのも楽しみの一つだ。 バスから降り、奥千本の散策路に入り、金峯神社にいった。 金峯(キンプ)と言うのはこの辺りから大峰山にかけての総称で、古来地下に黄金の鉱脈があると信じられ た。 万葉集ではこの辺りの山を「御金(ミカネ)の岳(タケ)」と詠んでいる(巻第3 相聞 3293)。 「今昔物語」では、聖武天皇が大仏の鍍金に必要な黄金を良弁僧正に命じて金峯山に求めようとする話が ある(巻第11第13「聖武天皇始めて東大寺を造りたまふ語」)。 また、宇治拾遺物語にはこの山から黄金を採った男が神罰を被った話が記されている。 今は昔、七條に箔打ちあり。御嶽詣でしけり。参りて金崩れを行て見れば、まことの金の様に ありけり。うれしく思ひて、件の金を取りて袖に包みて、家に帰りぬ。・・・ (「宇治拾遺物語」巻第二 金峯山箔打ちの事) これは、金峯山は黄金浄土であるという観念から生まれたものであろうか? 兎に角、奥千本は桜は全く咲いていなかったが、参道には馬酔木が満開だった。 大峰山への奥駆け道の初めでもあり、大峰山への4つの門の内の第二門「修行門」 参道の馬酔木 祭神:金山(カナヤマ)彦命 吉野山の総地主神 金精(コンジョウ)明神ともいい延喜式内社の古社 小組の格天井となっていた。 宝形造りの簡素なお堂。 元治元年(1185)11月源義経が弁慶とともにこのお堂に身を隠し、追ってから逃れるため屋根を蹴破って外にでたそうだ。 |



