ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

大和風土記

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信貴山雄嶽山頂(437)の空鉢堂から山道を下り、途中から一般道に入り歩くこと約30分で奥之院に

着いた。

奥之院周辺は小規模ながら棚田が広がり、そこには稲穂を下げ、曼珠沙華が畔を縁取っていた。

また山林の木陰の湿地にはツリフネソウが紫の花を咲かしていた。

そんな長閑な田園の中に奥之院は建っていた。

奥之院と称しているが、米尾山多聞院と言う朝護孫子寺の塔頭ということだ。

用明天皇2年(587)聖徳太子が物部守屋と戦うに当たり、毘沙門天王が出現し万戦必勝の秘宝を授け、

戦いに当たっては毘沙門天王が聖徳太子軍の阪部大臣(サカベノオトド)という人物に化現して先陣に立ったと

いう。

凱旋後、聖徳太子が毘沙門天王像を拝すると、汗をかいていたという伝承からこの毘沙門天王像を「汗か

き毘沙門天」と言われる。

聖徳太子は、自作の「汗かき毘沙門天王」像を祀るため当院を建立したと伝えられる。

また、守屋との戦いの時の兵糧米を法を以って焼き供した。

現在でも境内から炭化した古代米が出土し、この「焼米」は護符として授与されている。

参拝した後、約50分かけて朝護孫子寺に戻った。

朝護孫子寺の境内をまだ十分回っていなかったからである。

朝護孫子寺の境内を十分廻った後、奥之院来ればこのまま帰路につける筈だったのだ。

思いつきで行動した報いであった。


イメージ 8 奥之院近くの棚田




イメージ 9 木陰のツリフネソウ




イメージ 1 奥之院表門




イメージ 2

                                 奥之院堂宇
庫裏、鐘楼の他、本堂を中心に向かって左側に「深沙社」、右側に「祇園社」があった。





イメージ 3 本 堂




イメージ 4 本堂内陣
本尊の太子自作の「汗かき毘沙門天王」は厨子に納められ、
御前立の毘沙門天王、
向かって右に吉祥天女(キチジョウテンニョ)、
左に禅膩師童子(ゼンニシドウジ)写真では太鼓に隠れている)が祀られていた。




イメージ 5 絵 馬
軒に懸けられている絵馬は寅の図柄であった





イメージ 6 祇園社
祇園牛頭天王を祀る





イメージ 7 深沙社

空鉢堂(クウバチドウ)は信貴山山頂にあるので、そこまで上るのは、:)にとって大変しんどいことであった。

信貴山は、古代より河内と大和を結ぶ要所で、古代より城砦が築かれた、戦が繰り返された。

古くは、天智天皇の時に高安城の中心城域となった。

鎌倉末には、大搭宮護良親王が鎌倉幕府軍への対抗拠点にし、楠正成も一時この城に拠った。

戦国時代には山城南部の守護代・木沢長政が天文5年(1536)修築し、永禄2年(1536)には松永久秀が入城し

本格的な山城に整備した。

しかし、天正5年(1577)松永久秀が織田信長に背き、織田軍の総攻撃を受け50日間の籠城の末落城、その

後廃城となった。

今は山頂の空鉢堂近くに「信貴山城址」碑 が建つのみであるが、参道から外れ、木々の間をさまよう

と、土塁、切り通しの堀、城郭の跡が残っているを確認できる。

中腹の行者堂から20分、やっと空鉢護法堂(空鉢堂)に着いた。

空鉢堂は、朝護孫子寺の中興の祖・命蓮が竜王の教えを受け、「信貴山縁起絵巻」飛倉の巻で伝えるよう

に、托鉢を飛ばして倉を飛翔させ、長者を後悔させて福徳を授けた出来事に由来し、念願必授を得んと

願う人々の為に山頂に竜王の祠を建てて、その守り本尊として「空鉢護法の神」を祀ったものという。

多くの参詣者から「一願成就」の霊験あらたかな守護神として信仰されてきた。

空鉢護法堂前からははるか大和平野を眺望することができた。

ここから奥ノ院には、山道を下って30分ほどという。




イメージ 1 星祭り本尊
空鉢護法堂(空鉢堂)近くの参道の脇に8体の石仏が並んでいた。





イメージ 2 「信貴山城址」碑
信貴山城は信貴山雄嶽を中心とする山城で、東西約550m、南北約700mに渡って120以上の廓を配し、奈良県最大規模の中世城郭だった。
この辺りは、古代より河内と大和を結ぶ要所で、古代より城砦が築かれた所であるが、永禄2年(1559)松永久秀が本格的な山城に整備した。
しかし、天正5年(1577)松永久秀が織田信長に背き、織田軍の総攻撃を受け落城、その後廃城となった。






イメージ 3 空鉢護法堂
拝殿、本殿からなる。
中興の祖・命蓮が竜王の教えを受け、「信貴山縁起絵巻」飛倉の巻で伝えるように、托鉢を飛ばして倉を飛翔させ、長者を後悔させて福徳を授けた出来事に由来し、念願必授を得んと願う人々の為に山頂に竜王の祠を建てて、その守り本尊として「空鉢護法の神」を祀った。
多くの参詣者から「一願成就」の霊験あらたかな守護神として信仰されてきた。




イメージ 7 「信貴山縁起絵巻」飛倉の巻(部分)
お布施の米を惜しがった山崎長者は命蓮の托鉢を米倉に投げ入れた。
命蓮の托鉢が倉を持ち上げ、信貴山上まで運んでしまった。






イメージ 8 「信貴山縁起絵巻」飛倉の巻(部分)
追いかけてきた長者の懇願を聞き入れ、命蓮が法力を使って鉄鉢を飛ばすと、倉の中の米俵がそれに従って列をなして空を飛び長者の邸に戻った。




イメージ 4 空鉢護法堂
御神体は石造の祠に安置してあった。
空鉢護法の神は竜王だが「みーさん」と呼ばれ蛇(巳)と考えられ、(写真には入っていないが)拝殿には石造のどくろを巻いた蛇が3匹置かれてあった。




イメージ 5 絵 馬
「みーさん」と呼ばれるが、空鉢護法の神は竜王である。
従って図柄も竜となっている。




イメージ 6

                              空鉢堂前からの眺望
空鉢護法堂前からははるか大和平野を眺望することができた。





イメージ 9

                                  境内案内図

本堂参拝を終えた後、信貴山山頂の空鉢(護法)堂へ行こうと思った。

虚空蔵堂から多宝塔、行者(神変菩薩)堂を通り、空鉢堂へに向かう道に入った。

道は20分程度であったが、上り一辺の山道で胸に爆弾を抱え込んでいる:)にとって大変きつかった。

参道には奉納された赤い鳥居がぎっしり並び、まるでお稲荷さんへ参拝に行くようだった。




イメージ 1 虚空蔵堂
本尊:虚空蔵菩薩
虚空蔵菩薩は丑年・寅年の守り本尊
弘法大師空海が若い頃修業した「虚空蔵求聞持法」の本尊。
この菩薩は、信仰する者に福徳、智恵、音声を与えると言われている。
特に「入試合格」、「学業成就」に霊験あらたかとか。




イメージ 2

                                多宝塔
元禄2年(1689)建立、明治15年(1882)修理  本尊:大日如来
ここから左を行くと「行者堂」経由「空鉢堂」へ、右を進むと「奥ノ院」に至る。




イメージ 3 行者堂
役行者(神変大菩薩)を祀る




イメージ 4 役行者(神変大菩薩)像
役行者(神変大菩薩)といえば、普通ぎょろ目の骨皮筋衛門の姿であるが、
このお堂の像はふくよかな風采であった。





イメージ 5 空鉢堂への参道
奉納された鳥居が立ち並び、険しい道が20分ほど続いた。





イメージ 6

                                  境内案内図

信貴山中腹に昭和33年(1958)再建された本堂は、南面に張り出した舞台造りである。

舞台からは境内おろか、王寺方面を中心に大和平野が望まれた。

本堂内陣には、聖徳太子が奉安したといわれる毘沙門天王(奥秘仏)、弘法大師が奉安したといわれる毘沙

門天王(中秘仏)は厨子に納められ、御前立の毘沙門天王を中央に、向って右側に吉祥天(毘沙門天王の

妻)、左側に禅膩師童子(ゼンニシドウジ 毘沙門天王の子)が安置されていた。

賓頭廬尊者、三面大黒天を安置する外陣東端から本堂奥に入り、地下の回廊を巡る「戒壇巡り」をした。

回廊は9間4面の36間あり、大治元年(1126)丙午3月19日、覚鑁(カクバン)上人(後に根来寺を創建)が奉納

した如意宝珠を納めた蔵の錠前を、漆黒の闇の中で触れて結縁した。

これにより、七珍万宝家に満ち、福徳栄華累代に及ぶと言われるが・・・。




イメージ 1 本堂西正面
豊臣秀頼(秀吉との説もある)が再建した本堂は昭和26年(1951)漏電により焼失
現本堂は昭和33年(1938)再建。





イメージ 2 閼伽井
閼伽水を汲みとる。
階段の途中左側にあった。






イメージ 3

                                西方向の風景
西側縁に立つと、石造五重塔や玉蔵院の「日本一大地蔵」、「三重塔」が望まれた。






イメージ 4

                                  本 堂
信貴山山腹に建つ舞台造りの建物





イメージ 5 本堂正面





イメージ 6 本堂扁額
正面の扁額の「毘沙門天王」の左右毘沙門天王の使いとされる百足が配置されていた。




イメージ 7 内陣
内陣には御前立の毘沙門天を中央に
向って右側に吉祥天(毘沙門天の妻)
向って左側に禅膩師童子(ゼンニシドウジ 毘沙門天の子)
が安置され、奥の厨子に
聖徳太子が奉安したといわれる毘沙門天(奥秘仏)、
弘法大師が奉安したといわれる毘沙門天(中秘仏)
が納められている。
これ以上は撮影禁止





イメージ 8 三面大黒天、賓頭廬尊者
外陣東隅端に安置してあった。




イメージ 9

                             舞台から南方向の風景
南面の舞台からは、王寺方面を中心に大和平野が遠望できる。
天気が良かった所為もあって、爽快だった。

本坊を過ぎると右手に石造十三搭が見え、左手は塔頭の一つ、成福院だ。

本堂に向かう参道の曲り角に、三宝堂(不動明王堂)があり、参拝者を集めていた

このお堂は三宝荒神、不動明王、阿弥陀如来を祀る。

さらに進むと、参道両側の赤い幟の列の先に青銅鳥居が建ち、本堂西正面に出た。

青銅鳥居の側には、鉄柵に保護された三寅(福寅)像があった。

夜毎に寅が動き出すからではなく、一時期、福寅の像を削って持ち帰る不届き者が続出したための防衛処

置とのことであった。

本堂西正面の階段近くには、一切経が納められている経蔵堂、国宝「信貴山縁起絵巻」のレプリカなどを

展示している霊宝館が建っていた。

「信貴山縁起絵巻」(平安時代 国宝)は、中興・命蓮(絵巻では「命れむ」)上人の修行していた頃の物語

を面白く描いたもので,命蓮の法力譚を記した「飛倉の巻」、「延喜加持の巻」、姉との再会譚を記した

「尼公の巻」の三巻からなっている。

因みに、「宇治拾遺物語」では、巻第八の三「信濃国の聖の事」として「信貴山縁起絵巻」とほぼ同じ内

容で載っている(「宇治拾遺物語」では命蓮が「もうれん」)。

一切経蔵堂は普通は開扉しているようだが、「扉修理の為開いていない」との張り紙が扉に貼られ閉じて

いたので、華頭窓から堂内を覗くだけだった。




イメージ 1 石造十三搭




イメージ 2 三宝堂(不動明王堂)
三宝荒神像、不動明王像、阿弥陀如来像を祀る。





イメージ 3 絵 馬




イメージ 4 青銅鳥居
本堂西側正面に建つ。
これまで仏教寺院とは思われない風景だ。






イメージ 5 三寅(福寅)
青銅鳥居の近くに親寅と子寅の三頭の像が鉄柵の中に置かれてあった。
柵は、寅が動き出すからではなく、一時期削って持ち帰る不届き者が続出したため、像の保護の為設けられたとのこと。





イメージ 6 一切経蔵堂
一切経を保管する。
扉修理の為開かれておらず。
窓より中を覗いた。
堂内中央に朱塗りの輪蔵があり、周囲は絵画と彫刻で装飾され、四隅は四天王像が守っていた。




イメージ 7 輪 蔵





イメージ 8 経蔵堂内部





イメージ 9 霊宝館
国宝「信貴山縁起絵巻」のレプリカなどを展示してあった。
10月25日から国宝「信貴山縁起絵巻」の現物を展示するそうだ。

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