ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

大和風土記

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談山神社では、後述するようなものを見なかったが、めぼしいものに関しては、拝するべきものは拝し、

見るべきものは見た。

楼門前の石段をおり鳥居の近くに来た。

この近くに重文の石灯籠があるはずだが、いくつか石灯籠があり、どれだかわからずしまいだった。

境内の外に出ると前の道を東に少し行くと道脇に「摩尼輪塔」、また戻り、駐車場の奥に「淡海公十三重

塔」があった。

いずれも重文で、こうしたところにも重文の石造物があるのは、この神社の歴史の深さを感じた。

社頭から10分ほど東に行くと東大門や屋形橋がある筈だが、道が不案内だし、帰りのバスの時間を考え

今回は寄るのを諦めた。

紅葉シーズンに合わせ、臨時バスが出ているようだが、数少ない便で「聖林寺」に向った。



イメージ 1  燈籠ケ辻
社頭の右手に並ぶ石燈籠の列
近くに重要文化財の石灯籠があるが見落としてしまった。




イメージ 2  摩尼輪塔
花崗岩製 高さ3.15m  重文
摩尼とは宝珠にこと 
八角大石柱笠塔婆ノ塔身薬研彫で「妙覚究竟摩尼輪」と彫られ、上円部に梵字を刻む
乾元2年(1303)の銘がある。




イメージ 3

                                淡海公十三重塔
談山神社駐車場の先の林の中にあった。
淡海公(藤原鎌足の次男・不比等)を祀る。
基壇のより九輪の頂まで約4m 
台座の高さ0.9m
台座に永仁6年(1298)の銘がある。 重文




イメージ 4  釈迢空(折口信夫)歌碑
神廟拝所の裏(東)側に建っていた。


 多武峯                        釈迢空

神宝 とぼしくいますことの たふとさ。 古き社のしづまれる山

人過ぎて おもふすべなし。 伝え来し常世の木の実  古木となれり

きその宵 多武の峰より  おり来つる  道を思へり。  心しづけさ

いこひつつ  朝日のぼれり。 幾ところ 山のつつじの  白き さびしさ

わが居る 天の香久山の  おともなし。  春の霞は 谷をこめつつ

今度は境内の東側を巡る。

本殿を挟んで東西に校倉造りの宝庫が建ち、その東に、縁結びの神の恋神社(東殿、若宮)が鎮座してい

た。

更に進むと観音堂がポツリと建っていた。

この辺りに来ると紅葉はほとんどない。

薄暗い杉林の中を東に数分歩くと小さな祠が3つ並ぶ三天稲荷神社が鎮座していた。

この辺りは観光客や参拝者の姿はほとんど見られなかった。


イメージ 1 イメージ 2
                             西宝庫と東宝庫
元和5年(1619)造営 東西同形式の校倉造り 重文   宝物は現在各博物館に寄託中



イメージ 3  摂社・東殿(恋神社、若宮)
祭神:鏡女王(カガミノオオキミ)
    定慧(ジョウエ)
    藤原不比等
元和5年(1619)造営の談山神社の本殿を寛文8年(1668)移築したもの。
縁むすびの神として信仰あつい。




イメージ 4  鏡女王像
東殿正面に斉藤哲夫作の鏡女王像が安置してあった。



イメージ 5  東殿絵馬
縁むすびの神として信仰されているので絵馬もそれに合ったものになっていた。



イメージ 6  むすびの岩座(イワクラ)
東殿のすぐ近くにあった。
談山神社の前身である妙楽寺の講堂を建てる時、光ったと言われる石。
神の鎮まる岩座(イワクラ)といわれ信仰されてきた。
岩を撫で祈願すると霊験あらたとか。



イメージ 7  観音堂
「如意輪観音」の額が懸かる。
談山神社は、神社としては珍しく如意輪観音坐像を安置する。
談山神社2で述べたように談山神社は鎌足の長子・定慧が父の為に建てた妙楽寺と一体であった。
しかし、明治初年の神仏分離により神社として独立した。
それにともない、仏像は寺外に出されたが、この如意輪観音坐像だけは残された。
それは、この像が寺の開基である定慧が唐より請来したものと信じられたためらしい。
扉は閉じられており、仏像に拝することはできなかった。



イメージ 8  三天稲荷神社
祭神:宇賀魂命(ウカノミタマノミコト)
    菅原道真
    市杵島媛命
古来、商売繁盛、学業成就の霊験あらたかな神として知られる。

中大兄皇子 中臣鎌足連に言って曰く、鞍作(蘇我入鹿)の暴逆いかにせん。 願わくは奇策を陳べよと

中臣連、皇子を将(ヒキ)いて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に撥乱反正の謀を談ず
                                    (「多武峰縁起絵巻」)

   
談山神社境内の西側に行くと、比叡神社(本殿は重文)などの末社が並んでいた。

西と北側には杉林となって談山(カタライヤマ 566)、御破裂山(ゴハレツサン 618)への山道が続いていた。

入口の竜神社前から、多くの人が登っていくので、:)も胸の爆弾を気にしながら登って行った。

約10分ほどで、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が大火改新の秘策を練った所とされる談

山頂上に、更に10分ほどで鎌足墓のある御破裂山頂上に着いた。

大和盆地を眼下に見ながらしばらく休んだ。


イメージ 1  末社・比叡神社本殿
祭神:大山咋神
寛永4年(1627)造営  重文
一間社流造 千鳥破風および軒唐破風付き 檜皮葺
小社ながら豪華な様式を持つ。
もと飛鳥の大原にあった大原宮でここに移築し、
明治維新まで「山王宮」と呼ばれていた。
両側の小社は末社・稲荷神社(向かって左)
        末社・山上神社(向かって右)




イメージ 2  竜神社
竜神社を遠巻きにして談山(カタライヤマ 約10分)、御破裂山(ゴハレツサン 約20分)に向かう。




イメージ 3  談山頂上「御相談所」碑
標高566m
談山神社の裏山にあたり、古くから談所(ダンジョ)の森と名付けられ、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が大火改新の秘策を練った所とされる。
頂の広場中央に「御相談所」碑が建っていた。




イメージ 4  多武峰縁起絵巻
室町時代 伝土佐光信
談山神社拝殿内で展示していたレプリカの一部。
中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が密かに会い、大火改新の秘策を練っている様子。
この絵には冒頭に記した詞書が付け加えられている。




イメージ 5  鎌足墓
御破裂山(618m)頂上にあった。
古くから国家に不祥事がある時に「神山が鳴動した」記録が多く残っている。



イメージ 6  御破裂山展望台から
鎌足墓の裏側に回ると、視界が開け大和盆地を眺望することができた。
少しかすんでいたが、天香久山が島のように浮かんでいた。



イメージ 7

                                  比叡神社前
暗い山道を降りてくると比叡神社の前で急に明るくなった。
右手が比叡神社の本殿、中央の建物は末社・神明神社。

庚申に、天皇、東宮大皇弟を藤原内大臣の家に遣わして、大織冠と大臣の位を授く

よりて姓を賜ひて藤原氏とす。此れより以後、通して藤原内大臣と曰ふ。

辛酉に藤原内大臣薨りぬ。     (「日本書紀」巻第二十七 天智天皇八年)

(《天智天皇10月に重病の中臣鎌足を見舞った後》15日に東宮大皇弟を藤原内大臣《中臣鎌足》の家に遣わし、大織冠と大臣の位を授けられた。そして姓を与えて藤原氏とされた。これ以後、通称は藤原内大臣と言った。 16日に藤原内大臣は没した。)

     

紅葉を鑑賞しながら権殿、十三重塔と東に向かうと、西宝庫があり、鶴の手水鉢、楼門が立ってた。

楼門の前の南側は急な傾斜の石段となりその先には鳥居が建つ。

本来参拝するには、この鳥居をくぐり、石段を上り、頂の手水鉢で手を清め、楼門から入ることになる。

楼門をくぐると内庭があり、南側に拝殿、北側に本殿があり、それらを東西の透廊が内庭を囲むように結

んでいた。

拝殿は舞台造りで周囲を縁が囲み、その上を吊り燈籠が列をなしていた。

吊り燈籠越しに眺める紅葉は素晴らしかった。

拝殿内では、多武峯縁起絵巻、三十六歌仙絵、嘉吉祭(毎年10月第二日曜に斎行)の神饌・百味の御食(オンジ

ャ)などをを展示していた。

本殿は朱塗り極彩色の豪華絢爛な建物だった。




イメージ 1  鳥居と石段
石段の頂の右側に楼門、拝殿、本殿が建っていた。






イメージ 2  鶴の手水鉢
石段を上ったほゞ正面にあった。
明治13年(1880)九条道隆がほうのうしたもの。
花崗岩製で、鉢上に談山神社の社紋「のぼり藤」を浮き彫りにし、みずは鶴を彫刻した石の口から出るという趣向。
現在は使われていない。
現用の手水鉢は近くに設けられていた。




イメージ 3  楼門と拝殿
永正17年(1520)造営 檜皮葺 重文





イメージ 4

                               拝殿南側外縁



イメージ 5  拝殿床下
拝殿は朱塗り舞台造り




イメージ 6  内庭と拝殿の吊燈籠




イメージ 7  東透廊





イメージ 8

                                  本 殿
藤原鎌足を祀る。元聖霊院  多武峯社、大織冠社ともいう。
大宝元年(701)創建 現在の本殿は嘉永3年(1850)建替 三間社隅木入春日造 重文
社殿全体が極彩色模様、花鳥の彫刻によって装飾されている。
日光東照宮の造営に際し、手本となったという。



イメージ 9  百味の御食(オンジャ)
毎年10月第二日曜日に催される「嘉吉祭(カキツサイ)」にお供えされる野山の産物を盛った神饌。
中央のは和稲御供(米御供)といい、粒のそろったもち米を選び、食紅で染めたものを、ビーズの様に、米を一粒づつそろえもち米の糊で円筒状に積み上げている。

談山神社は、中大兄皇子(天智天皇)と共に蘇我氏を打倒し、大化の改新を成し遂げた藤原鎌足を祀る神社

である。

社伝によれば、鎌足の没後、次男・不比等によって摂津国阿威山(大阪府高槻市)に葬られた。

天武天皇8年(678)唐から帰朝した長子・定慧(ジョウエ)により遺骨の一部が多武峯(トウノミネ)山頂に改装され  
た。

定慧は十三重塔、講堂などの堂宇を建立し妙楽寺と称した。

更に大宝元年(701)十三重塔の東に聖霊院を建立し鎌足の木像(大織冠像)を安置した。

これが現在の談山神社の始まりである。

延長4年(926)天神地祇・八百万神を祀る総社が創建され、醍醐天皇の勅により談山権現と号した。

永享10年(1438)南朝の遺臣たちが兵をあげ、南朝方の越智氏の拠点となっていた多武峯は室町幕府の管

  
領・畠山持国を大将とする数万の攻撃を受け、社殿のほとんどが灰燼に帰した。

江戸時代には徳川の保護を受けて栄え、現存する堂宇のほとんどが修復・再建された。

明治になり、神仏分離によって一山すべてが談山神社となり、聖霊院を本殿、十三重塔を神廟、講堂を拝

所、常行堂を権殿などと改称し、大織冠藤原鎌足を祀る神社として統一され現在に至っている。

因みに中臣鎌足が藤原鎌足、大織冠と言うのは、死の直前天智天皇より、藤原という姓と大織冠の位を与

えられたからだ。「日本書紀」の記載を次稿冒頭に示す。


イメージ 1

                              十三重塔(神廟)
藤原鎌足の長子・定慧が父・鎌足の供養のために建てた天武天皇8年(678)創建した塔婆。
現在のものは享禄5年(1532)の再建 平成19年(2007)屋根が葺き替えられた。重文
唐の清涼山宝池院の塔を模して建てられたと伝えられている。





イメージ 2  十三重塔(神廟)
高さ約17m、3間十三重塔
上部12層の屋根にくらべ初層のは大きく反りを見せ威厳がある。
奥(西隣)の建物は権殿


イメージ 3

                               権殿(旧常行堂)
蹴鞠の庭の北側高台に建つ。




イメージ 4  権殿(旧常行堂)
天禄元年(970)摂政右大臣・藤原伊尹(コレタダ)創建、実弟・如覚が阿弥陀像を安置した元常行堂。
現在のものは室町後期の永正年間(1504〜1521)に再建されたもの。 重文






イメージ 5

                                  総社拝殿
寛文8年(1668)造営 重文 蹴鞠の庭の西側に面して建ち、正面・背面に唐破風を持つ。

なお、蹴鞠の庭では、飛鳥法興寺の蹴鞠会(「日本書紀」では打毬会)で中臣(藤原)鎌足と中大兄皇子が初

めて出会い親しくなったという故事に因み、毎年4月29日(昭和の日)と11月3日(文化の日)にけまり祭が行

われる。



イメージ 6  総社拝殿
内部には、なぜか、福禄寿の像が安置してあった。


イメージ 7

                                総社本殿
延長4年(926)勧請、天神地祇・八百万神を祀る。 日本最古の総社と言われる。
現在の本殿は、寛文8年(1668)造替の談山神社本殿を寛保2年(1742)に移築したもの。 重文



イメージ 8  閼伽井屋
総社拝殿の北側に閼伽井屋があった。
元和元年(1619)造営、杮葺き
中の井戸は「摩尼法井」と呼ばれ、定慧が法華経を講じた時、竜王の出現があったと伝えられる。

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