|
先週の土曜日、紅葉を楽しもうと紅葉でも有名な多武峰の談山神社に入ってきた。 談山神社へは、JR桜井駅駅前から、かの十一面観音で知られる聖林寺経由して談山神社に行くバスがある のでそれを利用した。 丁度紅葉シーズンとあって、観光客が多くあり、立つ羽目になったが、所用時間は約30分であった。 境内には売店などはないので、バス停近くの売店で弁当飲み物を買いこんだ。 バス停を少し下り、幸神橋を渡ると談山神社境内だ。 総社拝殿、権殿、十三重塔、神廟拝所あたりの紅葉が目に入った。 神廟拝所の北(山側の一段高いところ)祭神・藤原鎌足塔婆・十三重塔が建ち、その先御破裂山(607)山上に 鎌足の墓がある。 紅葉を鑑賞しながらまず神廟拝所内に入った。 神仏習合時代の梵鐘、鎌足・不比等の神像、勝軍地蔵、狛犬など展示あるいは安置していた。 紅葉の風景 幸神橋辺りからの眺め WEBでは見ごろとなっていたが少し早いかも。 生垣のドウダンツツジの紅葉が美しい 蹴鞠の庭からの風景 高台左手は権殿(重文)、中央は談山神社のシンボルでもある十三重塔(重文)右手は神廟拝所(重文) 蹴鞠の庭は、神廟拝所(西側)、権殿(北側)、総社拝殿(西側 写真には入ってない。)に囲まれた広場。 権殿前から神廟拝所周囲の紅葉 高台の権殿前から神廟拝所を眺めた 元は藤原鎌足の長子・定慧が白鳳8年(679)父・鎌足の供養のため創建した妙楽寺の講堂。 現在のものは寛文8年(1668)再建(重文) 因みに、明治の神仏分離の際、本尊の阿弥陀三尊像は安倍文殊院に移された。 西側出入り口近くに展示 元亨3年(1323)の銘があり更に応永23年(1416)の追銘ある。 元念誦崛(ネズキ)の経堂にあったもの。 藤原鎌足公神像(中央)は薄い布で遮られていた。 不比等は鎌足の次男 勝軍地蔵は鎌足の同体神として信仰 室町時代像造 木像狛犬一対:玉眼、寄せ木造で、運慶作と伝えられている。 「談峰大権現」御神号銅額:平安時代醍醐天皇(在位897〜930)より祭神・藤原鎌足に賜った神号で銅額に仕立てた。原本の墨書は安永5年(1776)輪王宮公尊法親王により染筆。 萩原盤山(1772〜1847)筆 六曲一双 墨絵 「がんばれ東北!」特別展観 中国古代の隠士・許由(キョユウ)がその才が認められ、帝・堯(ギョウ)から天下を譲ろうと言われた。 それを聞いた許由は耳が汚れたと言って頴川(エイセン)の水で洗った。 そこを通りかかった巣父(ソウホ)は、許由が汚れた耳を洗って潁川の水が汚れたと言って、牛に水を飲ませずに立ち去ったという故事を描いたもの。 |
大和風土記
[ リスト | 詳細 ]
|
依水園は西側に江戸時代作庭の前園があり、東側に明治時代、実業家関藤次郎が築いた池泉回遊式の庭・後園が位置する。
後園の西側に建てられた柳生堂や氷心亭で、ちょうど仕切った様な感じである。
氷心亭の南側の露地を通って後園に入った。
氷心亭は茅葺で新薬師寺の古材など使用した数奇を凝らした建物である。
氷心亭の前からは、草書の「水」なぞらえて掘った池、中央の築山越しに、東大寺の南大門と若草山、春日山等を借景にしたスケールの大きい素晴らしい眺めである。
氷心亭の前、池の畔には、東大寺七重塔の礎石の片割れがあり、建物の脇には豊臣秀長の愛用の蹲(ツクバイ)が置かれてあった。
北隣の柳生亭は檜皮葺の16世紀後半の建物で、柳生村芳徳寺から移築したもの。
この庭はどこから眺めても素晴らしいが、やはり氷心亭、柳生堂前から眺めるのが一番素晴らしかった。
氷心亭(西面、東面)
豊臣秀長は豊臣秀吉の弟、大和郡山城主
秀吉関白の位を授かった時、菊の紋の使用が許された。
このため、菊の御紋と桐の紋がならんでいる。
礎石
東大寺七重塔の心礎の2/5
柳生堂
氷心亭前からの眺め
池の中の渡り石は挽臼を使用している
水車小屋と滝
満開のツツジ
|
|
円成寺から奈良公園に戻ってきた。
バスの都合で早く戻ってきたので、少し他も見物するつもりで、ぶらりぶらり東大寺南大門方向に歩いていると依水園の入り口前に来ていた。
依水園は江戸時代の庭(前園)と明治時代に造園された庭(後園)があり、以前から見ごたえのある庭園と聞いていた(国の名勝指定)が、奈良の歴史に比べて新しいと言うこともあって、ついつい今まで訪れたことがなかった。
そこで入ってみると庭園に向かう途中に、左側に寧楽(ネイラク)美術館があり、右手には茶店となっている三秀亭があった。
三秀亭のの裏側が池泉回遊式の庭で、東端には茶室・埏秀軒がある(依水園の)前園である。
この三秀亭、前園は「奈良坊目拙解」によると興福寺の摩尼殊院の別業の跡とされている。
延宝年間(1670年代)奈良晒しを業としていた清須美道清が別邸として庭を造り変え、三秀亭・挺秀亭の建物を建て、文人墨客を招いて花鳥風月を楽しんだという。
明治時代造られた後園と共に、昭和14年(1939)海運業で財をなした中村家が買い取り、前園・後園を合わせ整備したのが現在の依水園である。
時節がいい所為であろうか、結構来園者は多かった。
依水園入り口
寧楽美術館
昭和45年(1969)開館
中村家所蔵の美術品を展示
三秀亭門
三秀亭
招かれた黄檗山万福寺二世木庵禅師(1612〜84)が詠んだ漢詩から「三秀亭」と名付けられたそうだ。
昭和57年(1982)原形に復する改修工事をしている。
三秀亭と前園
前 園
前 園
挺秀軒(門と本体)
|
|
円成寺は奈良から柳生の里に通じる国道369号の中ほどの山間にあった。 山号は忍辱山(ニンニクセン)、現在は真言宗の寺院である。 天平勝宝8年(756)開創との説もあるが、万寿3年(1026)命善上人が十一面観音を祀る堂を建てたことに 始まるとされている。 平安時代末期迎摂(コウショウ)上人が阿弥陀如来像を本尊とする阿弥陀堂を建立した。 その後衰退していたが、仁平3年(1153)寛遍僧正が伽藍を一新し、真言宗に改宗し栄えた。 文正元年(1466)兵火で主要伽藍が焼失したが、寺中の知恩院主・栄弘により、現本堂や櫓門が再建され た。 江戸時代には幕府から寺領235石が与えられ優遇されたが、明治に入り、神仏分離・廃仏毀釈により衰 退した。 大正時代に堂宇の解体修理を機に、庭園・仏像などの整備復興がなされた。 奈良の観光地から外れているためか、それとも平日の所為か、訪れる人は少なく が訪れた時は、ひっそりと静けさに包まれていた。護摩堂 平成6年(1994)改築 中央に不動明王立像、向かって左に僧形文殊坐像(鎌倉時代) 右手に弘法大師像を安置。 本 堂 室町時代再建 重文、 本尊阿弥陀如来坐像(平安時代 重文) 昭和33年(1958)解体修理により創建当初の平安時代後期の様式で再建されたことが分かったそうだ。 本尊阿弥陀如来像の前の4本柱には25菩薩の聖衆来迎図、即ち臨終の際の極楽浄土からのお迎えの様子がえがかれている。 阿弥陀如来像の四方には四天王像(重文 鎌倉時代)が置かれていたが、姿形色などが暗くて良く分からなかった。 後方に南無仏太子像(鎌倉時代),旧本尊十一面観音像などが安置してあった。 春日堂、白山堂 春日大明神(向かって左)、白山大権現(右)を祀る円成寺の鎮守社、日本最小の国宝建築物 本堂東の石垣の上に並んで建てられている。 鎌倉時代の安貞2年(1228)春日大社造営の際、旧社殿を拝領して円成寺の鎮守社として祀った。 「堂」と名付けられているのは、明治の廃仏毀釈の際に取り壊しを免れるためだったとも言われている。 江戸時代の延宝3年(1675) 春日・白山堂拝殿の東隣に位置する 宇賀神本殿 鎌倉時代の建物 重文 宇賀神を祀る。 春日・白山堂の東側、 覆い屋がを掛けられた小社殿、春日造社殿の向拝を唐破風としている 寛政3年(1791)の「大和名所図会」には「弁天}と記されている。 |
|
円成寺拝観の為、近鉄奈良駅から12時29分発柳生行奈良バスに乗った。 因みに柳生行のバスは一日に数便しかない。 約30分後、忍辱山(ニンニクセン)で下車し、数分戻ると円成寺前にきた。 わざわざここまで足を運んだのは、この寺に運慶の出世作の大日如来坐像があるからだ。 手前には、浄土庭園と言われる広い苑池を中心とした庭園があった。 新緑が周囲を囲み、自然に堂宇のある境内に足を誘った。 築地塀の内部の境内に入ると、すぐ右手に多宝塔があり、その内部に目的の大日如来坐像が安置されてい た。 この像は、運慶が安元2年(1176)造立したもので台座蓮肉裏墨書銘があり、運慶の現存する最も早い作例 として名高い。 写真撮影禁止なので写真を載せられないのは残念である。 円成寺庭園 円成寺庭園 平安時代作庭 国指定名勝 阿弥陀如来(重文 平安時代後期)がおわす前に満々と水をたたえる苑池が広がり、中島がある構図だ。 円成寺楼門(左:外側、右:内側) 室町時代の応仁2年(1468)建立 重文 三間一戸 入母屋造 檜皮葺 柱は円柱 苑池から本堂に続く石段の上に建ち、ちょうど南面し左右に築地塀が付いている。 上下層ともに格式の高い三手先(三段の斗組)が見られる 平成2年(1990)落慶 縁起によれば、後白河法皇に寄進されたのが最初と言われ現在のものは三代目。 塔内は仏画が描かれ、 中央に本尊大日如来坐像(平安時代末 運慶作 国宝)を安置する。 多宝塔の扉は開かれているがガラスで遮断されている。 したがって、ガラス越しに内部を拝見することになるが、 外の反射で見難いので、遮光用メガネが供えられていた。 これで内部を覗くと非常に見やすかった。 |
が訪れた時は、ひっそりと静けさに包まれていた。

