ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

京洛逍遥

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五月十五日(日)の京都は京都の三大祭の一つ「葵祭」で賑わっていたが、実は嵐山では車折神社の祭礼・三船祭が行われている。
今日は無理だったが、何時か見ようと思いながら鴨川沿いに南に下って行った。
宮川町辺りにくると、建仁寺西側に鎮座している「えびす神社」の祭礼の行列に出くわした。
他所からの観光客には有名な祭りに注目しがちだが、多くの社寺がある京都では、こうした小さなお祭りが頻繁に有るのだろうと思いながら行列をカメラに収めた。

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五月十五日(日)Bさんの招待で、京都御所建礼門近くで葵祭の行列(路頭の儀)を見物した。

この後、糺の杜に移動した。

京都御苑を出発した葵祭の行列(路頭の儀)は河原通を通り、鴨川を渡り、糺の杜を抜けて下鴨神社に入る。

緑の杜の中を通る葵祭の行列(路頭の儀)も素晴らしいとBさんが教えてくれたからである。

しかし、良さそうな場所は既に見物人で占められていた。

かろうじて見つけた隙間よりやがて来た行列を見物することができた。

葵祭の行列(路頭の儀)は下鴨神社に入り、14時20分ごろ上賀茂神社に向かう。

13時15分から近くの馬場で走馬神事が行われたのでそれを見物した。

約500mほどの馬場を馬が駆け抜けるというもので、延べ17人の騎手が駆け抜けて行った。

間近で見物していた所為か、非常に迫力あるものだった。

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本列


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本列(勅使の)牛車と予備の牛

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斎王代列

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斎王代

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走馬神事

















5月15日 Bさんの御招待で京都の三大祭の一つ「葵祭」の行列(路頭の儀)を見てきた。
京都御所の南門・建礼門近くの招待席に陣取っていると、10時半から色とりどりの平安装束に身を包んだ約500人約1kmの行列が練歩いて行った。
晴天下でやや暑かったが、平安文学馴染みの華やかな王朝絵巻を、多くの観光客と共に楽しむことができた
行列は鴨川沿いの河原通から下鴨神社さらに上賀茂神社までの約8kmを 5時間かけて向かう。

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勅使の牛車

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近衛使代

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風流傘

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花笠

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斎王代列

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斎王代
腰輿(オヨヨ)に載る斎王代、今年は西村和香さん(26)が務めている

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騎女(ムナノリオンナ)

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女別当


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斎王の牛車、女房車







北から麩屋町通りを降りてきて、松原通りで西に折れた。

比較的行き交う人の少ない松原通りを西に向かって歩いていると「因幡薬師」の標石が建つ不明門(アケズ)

通りにさしかかった。

不明門(アケズ)通り北端に因幡堂こと平等寺が建っていたので参拝に訪れた。

平等寺(因幡堂)の起こりは、「因幡堂縁起」(東京国立博物館蔵)に詳しく書かれているそうだが、知ると

ころの概略は次の通りだ。

長徳3年(997)因幡国司・橘行平が任を終えて帰路の途中、夢のお告げに従って因幡賀留津(カルツ)の海中から

薬師如来像を引き揚げ、安置した。

ところが、その薬師如来像が行平の後を追って京に飛来してきた。

長保5年(1003)行平は自宅を改造してこれを祀った、此れが因幡堂の始まりである。

この霊験譚は広く親しまれ、歴代天皇を始め、一般庶民の深い信仰を受けた。

承安元年(1171)高倉天皇より「平等寺」と命名された。

また、歴史的事実として「御堂関白記」寛弘二年(1005)十二月二十九日の条に、橘行平は因幡守に任字ら

れたことが記されている。

堂宇は度々火災に遭い、寺域も次第に小さくなったが、明治初期に再建された本堂には、度重なる火災に

も拘わらず、伝えられてきた本尊薬師如来立像(藤原時代 重文)が安置されている。

本尊薬師如来像は、嵯峨清凉寺の釈迦如来像、信濃善光寺の阿弥陀如来像と共に日本三如来に数えら

れて信仰され、「因幡薬師」、「因幡堂のお薬師様」と親しまれている。



イメージ 1 平等寺前の不明門通り
「因幡薬師」の寺標の先(北奥)に因幡堂となっている。
不明門(アケズ)通りの名は、源平争乱時代高倉天皇が因幡堂の直ぐ南「東五條院」にお住まいになられたので、御所に遠慮して南門を開けなかった為。




イメージ 2 平等寺
現在の南門は簡素な冠木門である。
正面に本堂(因幡堂)が建つ。
平等寺は、福聚山と号する真言宗智山派の寺院
「因幡薬師」、「因幡堂のお薬師様」と親しまれている。
寺宝としては「小督局の琴、硯箱」等がある。



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                              平等寺本堂 
明治14年(1881)から5年の歳月をかけて明治19年(1886)再建された。
本尊薬師如来立像(藤原時代 一木造、重文)
京都12薬師霊場1番霊場、京都13仏第7番薬師如来霊場



イメージ 4 本堂正面上部
本堂正面に吊り下げられている鰐口の上近くに懸仏が掲げられていた。




イメージ 5 観音堂
本堂に向かって左手に建つ
本尊十一面観音菩薩像
堂内には本尊のほか、弘法大師像、毘沙門天像、如意輪観音像、不動明王像、神変大菩薩(役行者)像を安置。

洛陽33観音第27番霊場
まよいいで  ここは因幡の  ひがしむき                こころは西へ   はこびぬるかな

Hさんと、ぶらぶら麩屋町通りを南に歩いて行くと、やがて松原通りにさしかかった。

その交差点西南角に「明王院不動寺」が建っていた。

一見変哲もない不動堂であるが、説明板に記されている由来が面白かった。

明王院不動寺は青蓮山と号し、真言宗東寺派の寺で俗に「松原不動」という。

持統天皇5年(691)に道観大徳が開基した法相宗の寺であったが、後弘法大師が自作の「石仏不動明王」を

安置してから現宗に改まったといわれている。

平安京造営の時、桓武天皇は、王城鎮護のため、平安京の東西南北に四つの磐座(石蔵)に経巻を収めた。

明王院はその四岩倉の一つで「南岩倉」と称したと伝えられている。

天暦年間(947〜957)加茂川の氾濫に遭い、学舎ことごとく流没した。

一時比叡山の苔筵(タイエン)法師によって再建されたこともあったが、応仁の乱で荒廃し石像も塵芥の中に埋

もれてしまった。

天正年間(1573〜1592)豊臣秀吉は聚楽第造営に際し、ここから苔むした本尊不動明王像を得た。

秀吉は、この石像を聚楽第に収めたところ、夜な夜な不思議な光を放ったので霊感を感じ、旧地に学舎を

建立し、これを再び奉安したという。
 
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                              明王院不動寺

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