ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

京洛逍遥

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彼 高雄に神護寺という山寺あり。昔 称徳天皇の御時、和気の清丸がたてたりし伽藍なり。

久しく修造なかりせば、春に霞にたちこめられ、秋は霧に交わり、扉は風に倒れて、

落ち葉の下に朽ち、甍は雨露にをかされて、仏壇さらにあらはなり。

住持の僧もなければ、まれにさし入る物とては、日の月の光ばかりなりけり。
                                 (「平家物語」巻第五 勧進帳)

和気清麻呂の墓から戻ってくると大きな石造不動明王像が建ち、その先に金堂が建っていた。

金堂は、本尊薬師如来立像(国宝)などの仏様を安置している。

金堂は参拝者でにぎわっていたが、金堂前の紅葉の素晴らしさにも依っていた。

金堂前の石段下には紅葉に囲まれた五大堂、毘沙門堂が並んでいた。

そして、石段下の五大堂、毘沙門堂から金堂を見上げる紅葉も美しかった。

また、五大堂の右方に同じような大きさの明王堂が建っていた。


神護寺は弘法大師空海および弟子の真済の時、真言密教専修の寺として伽藍を整えた。

しかし、その後は、二度の大火や、鳥羽法皇の怒りに触れる事件などにより、平安末期の神護寺は荒廃を

極めた。

冒頭のような荒廃に文覚上人が奔走し、寿永3年(1184)後白河法皇の勅許を得、源頼朝の援助を得て復興

したものの、応仁の乱で再び兵火を受け再び衰えた。

しかし、元和9年(1623)所司代板倉勝重の奉行によって楼門、金堂(現毘沙門堂)、五大堂、鐘楼を再建し

た。

さらに、昭和10年(1935)関西の豪商・山口玄洞の寄進により金堂、多宝塔が造営され、現在の寺観となっ

た。



イメージ 1石造不動明王像




イメージ 2金堂
昭和10年落慶 関西の豪商・山口玄洞の寄進によるもの
須弥壇中央に春日厨子に納められた本尊薬師如来立像(国宝)が安置され、その左右に脇侍の日光・月光菩薩立像(いずれも重文)、十二神将像、四天王像が安置してあった。





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                           階段下の五大堂、毘沙門堂




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                               金 堂
毘沙門堂あたりから石階段上の金堂を眺めた風景



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          五大堂                           毘沙門堂
元和9年(1623)建立                       元和9年(1623)建立  旧金堂
                                   現金堂が落慶するまで薬師如来を祀っていた。                              
                                   本尊毘沙門天(重文)



イメージ 7明王堂
本尊不動明王(平安後期に神護寺に納められたと考えられている)
扁額は7代目市川団十郎に揮毫
かって神護寺に、弘法大師自作の不動明王が安置されていた。
天慶3年(940)平将門の乱を鎮圧するため寛朝僧正が関東に出開帳した。
その地にこの不動明王を本尊として成田山新勝寺が建立された。

和気清麻呂が賀茂川から運んだといわれる自然石を積み上げた長い石段を上と楼門が聳えていた。

楼門前は高雄楓が色鮮やかでここでシャッターを押す人が多かった。:)もその一人だった。

この楼門には、仁王さまでなく、四天王の中の二尊・増長天(向かって左)、持国天(同右)が左右を守って

いた。

楼門をくぐると、また美しい紅葉に彩られた境内が広がっていた。

右手に、書院の表門、宝蔵、和気公霊廟、と続いていた。

神護寺は高雄山と号し、高野山真言宗の遺迹(ユイセキ)本山である。

当山の起源は和気清麻呂が天応元年(781)愛宕五坊の一つとして建立したと言われる高雄山寺という。

また、同じ頃、清麻呂は河内国に神願寺を建立した。

高雄山寺は清麻呂没後、和気氏の氏寺の性格を持ち、和気氏は最澄や空海を外護した。

空海が唐から帰り京に戻ると、空海は大同4年(809)から14年間高雄山寺の住持となり、真言密教の専修寺

院とした。

天長元年(824)神願寺と合併し、神護国祚真言寺(ジンゴコクソシンゲンジ 略して神護寺)と改称した。

空海の後を継いだ弟子・真済が堂宇を完備した。



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                               楼 門
元和9年(1623)再建、三間一戸の楼門




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                          増長天、持国天





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                            楼門から見た境内




イメージ 5宝蔵



イメージ 6和気公霊廟
明治19年(1886)和気清麻呂、その姉・広虫を祭る護王神社が京都御苑西に移され、その跡に昭和10年(1935)に建てられた霊廟



イメージ 7鐘楼
元和9年(1623)再建
銅鐘(国宝)は貞観17年(875)鋳造、橘広相(タチバナヒロミ)の序詞、菅原是善の撰銘、藤原敏行の書で、古来三絶の鐘といい著名である。



イメージ 8和気清麻呂公墓
鐘楼より5分ほど歩いた山林の中にあった。
訪れる人は全くなかった。
和気清麻呂は奈良時代から平安時代初頭に、平安遷都などで活躍した官僚。
称徳天皇の時、道鏡の皇位継承を阻止して流罪となったが、称徳天皇崩御後許されて都に戻っり、神護寺の前身寺院を建立した。

嵯峨の街道を、仁和寺をすぎて少時行くと、福王子の社の前で道は二つに分かれます。

真直ぐ行けば、嵯峨野から嵐山へ、右に折れると高雄方面で、周山街道と呼ばれる古い往還です。

やがて、目の前に大和絵のような山々が見えてきます。 (白洲正子「明恵上人」高雄から栂尾へ)


我が家ではムクゲの葉は黄色になってきた。

家の前の街路樹として植えられている桜の葉はすっかり紅葉し、これから落ち葉の掃除に大変だ。

明日から天気が崩れるというので少し早いかなと思ったが、10日(土)朝、京都市高雄に出かけた。

冒頭に紹介した白洲正子が記すように、国道162号は仁和寺の西、福王子神社あたりから「周山街道」

とも呼ばれ、これまでの直線道路ではなく、くねくねした曲りの多い上り坂の道になった。

紅葉のシーズンともなれば、高雄の紅葉狩りをめざす自家用車のため大渋滞になると聞いていたが、意外

にスムーズに進み高雄に来た。

夏であれば、この辺りにくると少し涼しさを感じるのであるが、今回はその様な冷えは感じられない。

観光客が多い所為であろうか?それとも観光客目当ての商売屋の熱気の所為であろうか?

高雄バス停近くから清滝川の渓流に降りる。散策路にも紅葉の下に土産物屋や茶店が並んでいた。

紅葉はこれから本番というところか。それでも観光客は多い。

清滝川に架かる朱色の高雄橋を渡ると、急峻で長い石段である。

神護寺の参道で、人が多いので見落としそうだが、下乗石がが建っている。

他の観光客に混じって、山腹の紅葉や参道沿いの茶店の様子を眺めながらよちよち上って行った。

やがて神護寺楓の木立の中の神護寺楼門にたどり着いた。




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                               高雄の紅葉



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                            山道沿いの茶店・売店
京銘菓、御手洗団子、焼きそば、などと言った馴染みの店に混じってモミジの天婦羅を売っている店もあった。



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                            高雄橋とその周辺
高橋橋を渡ると右手に四角柱の「下乗石」が立っていた。
正安元年(1299)十月造立の銘があり、銘がある下乗石としては最古であるらしい。人が邪魔して写真を撮れず。


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                               硯 石
石段の途中に置かれてあった径1mほどの自然石。
説明版によれば、弘法大師空海が神護寺に在山の時、勅額の依頼を受けたが急な五月雨で橋が流されたため、この石を硯として対岸に立てかけた額に向けて筆を投げたところ、見事「金剛定寺」の四文字を書いたという。ただしこの寺は現存していない。
石の頂の中央の窪から硯を発想し、能筆家空海と結びついた伝説だろう。



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                               硯石亭




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                               硯石亭




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                               楼門前の紅葉

低視聴率で喘いでいることで評判のNHK大河ドラマ「平清盛」は盛り返しただろうか?

その平清盛の別邸「西八条殿」が在った場所と言われる若一(ニャクイチ)神社へ行ってみた。

JR京都駅から(神戸、大阪から)一つ手前の「西大路駅」で下車し、西大路通りを北に向かって徒歩5分

ほどのところ、八条通りとの交差点「西大路八条」の東北角に鎮座していた。

神社は西向き(西大路通り)に面し、社頭前には「平清盛手植えの楠」の大木が覆っていた。

瑞垣の南端には平清盛公西八条殿跡」の碑が建っていた。

木々が生い茂る境内に入ると、右手手水舎前に平清盛石像が立ち、奥左手に社殿が建ち、若一王子を祀っ

ている。

右手奥に御神水と、祇王の歌碑がある。このようにこの神社の境内は平清盛ワールドで,

逆に清盛を取ってしまうと、ごく普通の小さな神社であった。

しかし、御神水には柔らかくておいしいとかで、ポリタンク持参の人たちが水を汲んで行った。


当社の由来について、頂いたパンフレットによれば次の通り。

弘仁天皇の御世、唐の威光上人が来朝し、天王寺に住んだ。

紀州熊野に詣でた時、迷い苦しむ人々を救わんと、宝亀3年(772)御分霊・若一王子の御神体を笈に負い旅

立った。

当地に来て古堂に一夜明かした時、神意があり、神意にしたがい堂に御神体を安置した。

その後異変により土中に埋もれた。

平清盛が六波羅在住の頃、この地は浅水の森と称し風光明媚な所であった。

清盛は、承安年中に、この地に「西八条御所」と称する別邸を造営した。

仁安元年(1166)清盛が熊野詣でした時、土中に隠れたる御神体を世に出し奉斎せよ、とのお告げがあっ

た。

清盛が帰京後、邸内を探したところ東北築山より夜光を放っていたので、自ら三尺掘ったら土中より若一

王子の御神体が現われた。

そこで、社を造り鎮守し、開運出世を願ったところ、翌仁安2年(1167)太政大臣に任ぜられた。

よって、開運出世の神様として尊崇されるところとなった。


イメージ 1西八条殿跡碑
当時50余の邸があったと伝えられる。


イメージ 2平清盛手植えの楠
根元に小さな社が建てられ、ご神木となっている。



イメージ 3社 頭
宝亀3年(772)鎮座
仁安元年(1166)再現奉



イメージ 4平清盛石像



イメージ 5社 殿
祭神:若一王子
 開運出世のご利益があるそうだ。



イメージ 6御神水と祇王歌碑
御神水は神前に供えられている。
祇王歌碑には、祇王が仏御前に書き残した歌が刻まれていた。
もえ出ずる  かるるもおなじ    野辺の草           いずれかあきに あはではつべき
(春には萌え出る若葉も、枯れている枯れ草も、元は同じ野辺の草です、今は栄枯の差がありますが、いずれは清盛の寵愛が失せる秋に逢わないでいられましょうか)                                            

東山通りを東側に渡るとすぐ南側に、京都霊山護国神社の参道が続いていた。

緩やかではあるがずうっと上りの坂道が続くので、暑さで少ししどい。

ほぼ上りきった左手に、京都霊山護国神社の社殿と明治維新の誕生につくした志士達が眠る奥津城が山肌

に沿って立ち並んでいる。

京都霊山護国神社は、幕末から維新に殉じた志士を祀り、その以降第二次世界大戦までの京都府出身者た

ちの英霊7万3千柱を合祀している。


もともと、東山36峰の中心であるここ霊山に、幕末、各藩が夫々殉難者を祀っていた。

慶応4年(明治元年 1868)5月霊山官祭招魂社として創立された。

昭和14年(1955)京都霊山護国神社と改称し現在に至っている。

神域内には、ぐるっと回っただけでも坂本竜馬、中岡慎太郎、木戸孝允(桂小五郎)夫妻、天誅組の吉岡寅

太郎、安政の大獄で刑死した頼三樹三郎、梅田雲浜、生野事件で刑死した平野国臣、禁門の変(蛤御門の

変)で戦死した久坂玄瑞などの、馴染み名の志士の墓や碑があった。

そのほか名前も知らない人々の墓が並び、計1356名に及ぶという。

ドラマや小説に取り上げられ、又観光パンフレットにも記載されている所為か、やはり坂本龍馬・中岡慎

太郎の墓へ行く人が多いようである。

また、一番高い所に木戸孝允夫妻の墓があり、また、神域内の参道の途中に大きな「木戸孝允勅撰碑」が

建っていた。

維新後新政府の顕官となった者と、そうならなかった者達との違いが良く分る風景でもあった。



イメージ 1参道




イメージ 2社殿




イメージ 3長州藩士の墓




イメージ 4吉村寅太郎の墓
天誅組は、文久3年(1863)8月13日奈良県五條代官所を襲撃し成功を納めたもの、京都で8月18日の政変が起こり逆賊になっていまい、幕府は彼等を追討した。
9月27日藤堂藩兵に囲まれ戦死。享年28歳



イメージ 5 イメージ 6
                       坂本龍馬と中岡慎太郎の像と墓
墓の前に建つ「坂本龍馬と中岡慎太郎の像」は思ったより小さかった。
坂本龍馬(向かって左)と中岡慎太郎(右)は同じ墓域にあった。
坂本龍馬と中岡慎太郎は慶応3年(1867)11月15日近江屋で会談中に刺客に襲われ、坂本龍馬は絶命、中岡慎太郎は2日後死亡。18日近江屋で葬儀が行われ、ここに葬られた。
なお、同じく犠牲になった下僕藤吉の墓が左奥に建っていた。



イメージ 7木戸孝允勅撰碑
「故内閣顧問贈従一位木戸公神道碑」
大正12年(1913)建立
神道碑は国家に功績のあった人物を顕彰するため、その人物の墓所や参道に建てられる碑。
明治天皇の命のより建立されたので俗に「勅撰碑」と呼ばれている。
因みに、木戸孝允は明治34年(1901)従一位と追贈されている。



イメージ 8 イメージ 9
                        木戸孝允・松子(幾松)夫婦の墓
木戸孝允(桂小五郎)は明治10年(1877)病没、享年45歳 正二位公爵  明治34年(1901)従一位追贈
妻松子(幾松)は明治19年(1886)死去 従四位  

勤皇の志士といわれる人々の最後は、大方悲劇的な死で終わっているが、激動の時代を苦楽を共にして生き抜き、維新の大業がなるや陽のある道を歩んだ。



   関 連 記 事



一之船入〜御池通り・高瀬川1 桂小五郎像、桂小五郎幾松寓居跡碑


御池通り〜三条通り・高瀬川2 吉村寅太郎寓居跡、池田屋騒動跡碑、 武市瑞山寓居跡碑


三条通り〜四条通り・高瀬川3 坂本龍馬寓居地、中岡慎太郎寓居之地碑、坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地、古高俊太郎邸跡碑


御苑を囲む9つの門   蛤御門→禁門の変、 堺町御門→文久3年11月18日の政変

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