ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

京洛逍遥

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建仁寺の東側に「安井の金比羅さん」の名で親しまれている安井金比羅宮が鎮座している。

東大路通りに面した社頭の鳥居の上部に、「縁切り縁結びの祈願」と記した幕が張ってある。

参道の奥に社務所があり、その前に「縁切り縁結びの碑」あり、多くの若い人たち(女性が多かった)が祈

願待ちの行列を作っていた。

その北(左)側に本殿があり、更にその北側に久志(櫛)塚があった。

本殿の東側には絵馬館があり、奉納された大小様々な絵馬が陳列してあった。

社伝によれば、保元の乱(1165)に敗れ、讃岐で崩じた崇徳天皇の霊を慰めるため、建治年間(1275〜1277)

に大円法師が建立した光明院観勝寺が起こりといわれている。

その後、観勝寺は応仁の兵火により荒廃し、元禄8年(1695)太秦安井(京都市右京区)にあった蓮華光院が

当地に移り、その鎮守として、崇徳天皇に加え、讃岐金比羅宮より勧請した大物主命と源頼政を祀った。

江戸時代から(悪縁を絶ち、新しい自分を甦らせル)断ちもの祈願、(諸々の祈願を成就に導く)縁結び祈願

が生まれたが、縁切り縁結びの祈願の神社として最近ではTVにも紹介されていた。



イメージ 1 安井金刀比羅宮社頭
東大路通りに面している。




イメージ 2 本 殿
祭神は崇徳天皇
   大物主命
   源頼政




イメージ 5 久志(櫛)塚
古い櫛の供養の為、昭和37年(1962)築かれた。
毎年9月の第4日曜日に櫛祭が行われる



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                           縁切り縁結び碑
円形の穴あいた碑があり、表から裏にくぐりぬけると縁切りの祈願をし、裏から表にくぐりぬけると縁結びの祈願をし、その後願い事そ記した神札を石面に貼り付けると成就するそうな。
貼りつけられた神札で本当の石の外形が分らなくなっている
多くの若い女性やカップルが、縁切り縁結びの祈願のために穴をくぐる順番待ちしていた。

建仁寺の境内の西南に摩利支天を祀る塔頭・禅居庵があった。

禅居庵(ゼンキョアン)は、建仁寺第23世、清拙正澄(セイセツショウチョウ、大鑑禅師)(1274−1339年)が晩年退隠し

た塔頭寺院で、小笠原貞宗が元弘年中に創建した。


大鑑禅師は、嘉歴元年(1326年)「海東の檀信」に招請され来朝。

北条高時に迎えられ鎌倉建長寺・浄智寺・円覚寺に住山、清規を制定し衆寮を造営、叢林の風規を粛正す

した。

元弘3年(1333年)後醍醐天皇の招請により、京都建仁寺に住し、のち南禅寺に住した。

暦応2年(1339年)正月17日自ら設けた「百丈忌」の当日、当庵にて遷化。

世壽66歳、大鑑禅師と諡(おくりな)される。


表門から入ると、なかなか風情のある前庭があり、道標に随って通ると摩利支天堂の前に来た。

摩利支天堂には、開山大鑑禅師が中国より将来した摩利支天を祀る。

「摩利支天」は、威光、陽炎が神格化した古代インドの女神。

現在では三面六臂で七頭の猪に坐すお姿から、開運・勝利の利益、特に亥年生れの人々には守り本尊とし

て信仰されている。



イメージ 1 禅居庵表門




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                              前 庭
手前に桔梗が咲き、苔と松が主体の庭である。





イメージ 4 摩利支天堂への入口






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                              摩利支天堂
開山大鑑禅師が中国より将来した摩利支天を祀る。
摩利支天堂は天文の兵火で焼かれ、同16年(1547年)織田信長の父、信秀が再建。
近年では明治8年(1875)、平成7(1995)年に屋根部分の大改修が加えられ今日に至っている。






イメージ 7 狛 猪
摩利支天堂の前左右には狛犬ならぬ狛猪が置かれていた。





イメージ 8 絵 馬
図柄は神使である猪となっていた。

建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山である。

建仁寺の略史については、本稿末尾に示す建仁寺のHPの中の「建仁寺について」に良くまとめられている

のでそのまま使わさせていただく。

建仁寺は建仁2年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立

された。

元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称している。

創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していた。

その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、正嘉元年(1258年)東福寺開山円爾弁円(えんに

べんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなった。

文永2年(1265年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、

規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となった。

やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大い

に栄えるが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃した。

ようやく天正年間(1573−1592年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築しその復興

が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備された。

明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となった。

また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く

縮小され現在に至っている。



伽藍は境内の中央南北に、勅使門、放生池、三門、法堂、方丈が並んでいる。

方丈の向かって右(東)に本坊がありそこより入り、方丈、法堂などを拝観した(法堂については前稿で記

載済)。

方丈(重文)は慶長4年(1597)安国寺恵瓊(アンコクジエケイ)が安芸の安国寺(後に不動院と改称)から移築したもの

で、本尊は東福門院寄進の十一面観音である。

現在は大屋根葺き替え工事中で、周囲には工事用の足場が組まれ、素屋根ですっぽりと覆われていた。

そのため、「大雄苑」と名付けられた枯山水式の庭園の前庭は、現在は残念ながら鑑賞に耐えるものでは

なかった。

しかし、橋本関雪画伯による襖絵や周囲の庭に設けられている茶室、等は拝観の価値はあった。


イメージ 1 本坊
ここで拝観の受付をしている。



イメージ 2

                               風神雷神図(レプリカ)
いうまでもなく俵屋宗達の屏風絵だ。他の所蔵物と共に書院に展示してあった。
本物は京都国立博物館に寄託してあるとか。




イメージ 3 田村月樵愛用の大硯
田村月樵が生前愛用した長さ3尺の大硯。
大海原に臨んで1匹の蛙がはらばって前進してゆく様子を彼自身が刻みつけたもの。
田村月樵(1846〜1918)は洋画界の先覚者、晩年は仏画、襖絵に転じた。








イメージ 4 安国寺恵瓊の首塚
安国寺恵瓊(アンコクジエケイ)は天文7年(1538)安芸国守護武田氏の一族として生れた。
天文10年(1541)大内氏により武田家が滅亡し、恵瓊は安国寺に身を寄せた。
以後12年間当寺で仏道修行に精進し、16歳の時生涯の師と仰ぐことになる笠雲恵心にめぐり合う。
この直後恵瓊は京都東福寺に入り五山禅林の人として修行を重ねた。
35歳の時正式に安芸安国寺の住寺となり、この頃から毛利家の政治に関わる外交僧として活躍が始まる。
羽柴秀吉が率いる織田軍が中国地方に侵攻してきた際には、毛利氏の使者として秀吉との交渉に当り、この交渉を通じて秀吉との繋がりが深まったといえる。
やがて、天下人となった秀吉は、恵瓊を直臣の大名に取り立て、伊予国2万8千石を与えた。
また、恵瓊は建仁寺の方丈の移築をはじめ、東福寺の庫裡の再建など、旧来の建物の修復に関与し多くの功績を残している。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦において、主家毛利氏を石田三成らの西軍に味方させ、自身は西軍の最高首脳として暗躍するも、小早川秀秋が東軍に内応したこともあって、西軍は敗退。
恵瓊は毛利家西軍加担の罪で同年10月1日六条河原で斬首され、63歳の生涯を閉じた。
恵瓊の首を建仁寺の僧が持ち帰り、所縁のある当寺の方丈の裏に葬ったものが首塚である。



イメージ 5 イメージ 6
                                東陽坊
草庵式二帖台目席。天正15年(1587年)に豊臣秀吉が催した北野大茶会で、利休の高弟・真如堂東陽坊長盛(チョウセイ)が紙屋川の土手に建てた副席と伝えられている。
二帖台目席で最も規範的な茶室とされ、茶室の西側には当寺の名物「建仁寺垣」が設けられている。



方丈、法堂を拝観した後、のんびりと境内を巡っていると、「平成の茶園」、「浴室」が目に入った。


イメージ 7 平成の茶苑
自然石で作られた茶碑とその背後に小さな茶園が作られていた。
茶将来800年(平成3年、1991)を記念して造られたもの。
開山栄西禅師は宋から我が国に茶の種子を持ち帰り、茶の栽培と不朽に努め、茶祖といわれている。
栂尾高山寺の明恵上人に茶を贈り、共に茶を栽培した(高山寺境内にも茶園がある)。
また、建保2年(1214)二日酔いで苦しむ将軍源実朝に茶を勧め、自身が著した「喫茶養生記」一巻を添えて献上し、茶の効用を示した。
「喫茶養生記」は、その名の通り茶を喫して健康を維持する養生の本であり、茶は薬として扱われている。
その序文に「茶は薬とや、末代養生の仙薬なり。人倫延齢の妙術なり」とのべている。





イメージ 8 浴室
寛永五年(1628年)三江和尚(諱紹益)によって建立された。
七堂伽藍のひとつで内部は待合、浴室、土間(火炊場)に三分されている。
湯気で体を温める蒸し風呂で、禅寺では入浴も修行の大切な部分として、厳しい作法が細かく定められている。






イメージ 9建仁寺のHPへはここをクリック。

両足院を出た後、建仁寺の境内を見て回る。

境内は中央南北に主要伽藍が一直線に建ち、その回りに付随する建物や両足院等の塔頭寺院が並んでい

る。

南に勅使門があり、その北内側には放生池があり、石橋が架かっている。

更にその北には三門が建ち、その先には、法堂、方丈と一直線に並んでいた。

勅使門、放生池、石橋、三門は立入ができない。ただ近づく見るだけである。

法堂と方丈(重文)は内部拝観ができたが、方丈は大屋根葺き替え工事中で、周囲に足場や安全柵が設けら

れ、素屋根が被さっていて前庭などは鑑賞に耐えるものではなかった。

因みに、六道の辻で馴染みの六道珍皇寺も建仁寺の塔頭寺院の一つだ。

イメージ 1 勅使門(矢立門)
鎌倉時代築 銅板葺四脚門 重文
柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」または「矢立門」と呼ばれている。
元来、平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものといわれている。



イメージ 2 放生池と石橋




イメージ 3 三門
大正12年(1923)静岡県浜名郡の安寧寺から移建したもの。
三門とは空門・無相門・無作門の三解脱門から。
「御所を望む楼閣」という意味で「望闕楼」と名づけられており、
楼上正面に「望闕楼」の額が架かっている。
楼上には釈迦如来、迦葉・阿難両尊者と十六羅漢が祀られるとのこと。


イメージ 4

                              法堂
明和2年(1765年)建立。
仏殿兼用し「拈華堂(ねんげどう)」ともいう。五間四間・一重・裳階付の堂々とした禅宗様仏殿建築。内部土間は甎瓦(センガ)が敷き詰められ、広い天井もと正面に高く須弥壇が築かれ、本尊釈迦如来座像と脇侍迦葉尊者・阿難尊者が祀られてる。
天井には小泉淳作画伯による双龍図が描かれていた。



イメージ 5 須弥壇
正面須弥壇には本尊釈迦如来座像と脇侍迦葉尊者立像・阿難尊者立像が祀られてる。




イメージ 6

                             天井図(双龍図)部分
平成14年(2002)建仁寺階層800年を記念して、日本画家小泉淳作画伯が描いたもの。
大きさは、縦11.4m、横15.7m





イメージ 7 建仁寺のHPへはここをクリック。

建仁寺の塔頭・両足院の庭園が広がる境内の北側に両足院の鎮守・毘沙門天立像を祀るお堂が建っていた。

毘沙門天堂が建つ境内は、庭園が広がる境内とは仕切られており、参拝自由で参拝者の姿を散見した。

毘沙門天は四天王の一神・多聞天のことで北方を守護するとされる。

ただ、なぜか寅と所縁がふかく、ここでもお堂の前の、社であれば狛犬が置かれる様なところに、狛寅?

が置かれていた。

絵馬懸け棚の絵馬を見ると、やはり寅を図柄に入れたものとなっていた。


イメージ 1毘沙門天 入口



イメージ 2

                              毘沙門天堂
本尊は、もと鞍馬毘沙門天の胎内仏。
戦国時代 比叡山が織田信長によって焼き討ちにあった際、鞍馬の僧がおそれをなして、(室町将軍の茶家、筑前黒田家京都御用達の)比喜多養清のところへ、尊像を疎開させた。
慶長5年(1600)関が原の合戦に黒田長政が、関東方として出陣する際、この尊像を内兜に収めて奮戦し、勝利を収めたといわれている。
このあと尊像は代々黒田家で信仰されてきたが、維新の変革で明治10年(1877)ごろ当院に寄せられた。

イメージ 3 イメージ 4
                               絵 馬

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