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いかにも京都風情を出している花見小路をぶらりぶらり南へ歩く。 やがて建仁寺の北門に当り、そこより建仁寺の境内に入った。 そこでふと気が付いたのだが塔頭寺院「両足院」のハンゲショウが満開で、一般公開しているはずだ。 両足院へ行って見ると、確かに7月8日までの予定で、一般公開しており、拝観者が多く訪れていた。 両足院は建仁寺の開山・明庵栄西禅師の法脈・黄龍派を受け継ぐ龍山徳見禅師(第35世建仁寺住持)を開山と する臨済宗建仁寺派の塔頭寺院である。本尊:阿弥陀如来立像 開山当初は「知足院」と称していたが、室町時代の再建時「両足院」と改称した。 両足院からは、多くの建仁寺住持を出している建仁寺の有力寺院である。 一方書院前庭にの池辺にはハンゲショウが群生し、「半夏生の寺」として知られている。 門を入ると、左側が白砂、右側が青松となっている参道を行くと唐門になりそこで拝観手続きする。 書院前庭は、池を中心とする池泉回遊式庭園で、庭園の奥には水月亭と臨池亭という茶席が緑豊な庭園を 引きたてていた。 その中にあって、さらに池辺ではハンゲショウが白く化粧している様はすばらしいものであった。 る様は素晴らしいものだった。 強いて難を云えば、14時頃と訪れた時間帯の所為かもしれないが、拝観者が多すぎた。 唐門前庭 唐門前庭 方丈と書院の間に設けられていた 書院前庭 |
京洛逍遥
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八坂神社西楼門から四条通り南側の商店街を,西に向かってぶらぶら歩く。 花見小路を過ぎてすぐの左手に「めやみ地蔵」の名で親しまれている仲源寺があった。 仲源寺は浄土宗に属する寺院で、山号や寿福山。 門前の説明板などによれば縁起は次のようだ。 平安時代の治安2年(1022)仏師定朝が四条橋の東北に地蔵菩薩を祀ったことに由来する。 寺と地蔵菩薩の名の由来は、安貞2年(1228)の鴨川氾濫の時に、勢多(セタ)判官中原為兼が防鴨河使になっ た際、この地蔵が溺れた人を救う姿を見、それ以降地蔵菩薩を「雨止(アメヤミ)地蔵」と称し、「中原」の旁 に人と水を添えて寺名にしたことによる。 豊臣秀吉の時代の天正13年(1585)現在地に移った。 その後、信仰深い老夫婦に眼病を自らの右目に移し苦しみを救ったという逸話から、いつしか「目疾地 蔵」になり、現在も眼病治療の霊験があると広く信仰されている。 境内にはいると、境内は狭い。狭い参道の奥正面に本堂があった。 正面の扉の隙間から内部を覗くと、金色で丈六の合掌したお姿の地蔵菩薩坐像が安置してあった。 傍らに、室町時代の作といわれる山越阿弥陀如来像があるとのことだが確認できなかった。 また、観音堂には平安時代の春日仏師の作とされる千手観音坐像(重文)があるとのことだった。 観音様は洛陽三十三ヶ所観音霊場第16番札所
四条通りに面している。 左手に向かって「めやみ地蔵尊」の標柱 「雨奇晴好(ウキセイコウ)」の額が懸る。 仲源寺本堂 本尊・金色で合掌した姿の丈六の地蔵菩薩坐像を安置する。 |
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知恩院から再び南に下り、円山公園に向かう。 円山公園入口にある平野屋本店に入り、名物のイモボウを加えた定食で、遅めの昼食をとった。 イモボウとは、京野菜の海老芋と乾物の棒鱈を醤油と砂糖を加えたダシでじっくり煮込んだものだ。 この後、八坂神社の境内に入った。今日は二度目だ。 いつものとは違い裏から境内に入り、本殿の裏から南の方を眺めると、本殿(拝殿と一体の建物)→舞殿→ 南楼門と並び、(その先に楼門に隠れて見えないが)石の鳥居と一直線に並んでいることが良く分る。 今ではほとんどの参拝者が西楼門から入り、西楼門が正門のような感があるが、八坂神社の正門は南楼門 だということを改めて実感した。 なお、本殿の西側(向かって左側)に十の社を勧請した十社と大歳社(オオトシシャ)の境内社があった。 南北に走る東山大路通りと、西から走る四条通りの交差点の東側に位置する。 随身 西楼門の左右の脇に安置されている。 本殿南側背後から南の眺め 本殿(拝殿と一体の建物)→舞殿→南楼門と一直線に並んでいる。 鳥居・南楼門 正式には南側から入る。 鳥居の額には今では「八坂神社」と記されていたが、神仏混淆時代の明治以前は「感神院」と記されていたという。 多賀社、熊野社、白山社、愛宕社、金峰社、春日社、香取者、諏訪社、松尾社、阿蘇社を祀る。 祭神:大歳神(オオトシカミ) 巷神社(チマタヤシロノカミ) 大歳神は素盞鳴尊の御子神で、穀物守護の神 であり、この辺り一帯の農耕の神として祀られた。 又の名を祇園古宮という。 例祭日(2月3日)が節分の日であることから、節分の神とも言われている。 祇園祭で馴染みの八坂神社1 西楼門、舞殿、拝殿・本殿、南楼門、疫神社、太田社、大国社 素盞鳴尊と関りのある神を祀る境内社、八坂神社2 大神宮社、忠盛燈籠、美御前社、悪王子社、日吉社
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知恩院境内を下ってくると三門が見えた。 いつも巨大に感じる山門も御影堂大修理工事での柵などで周囲が狭められ、何かしら隅に押しやられた感 じがする。 その三門の南側の女坂に沿って左手に友禅苑があった。 江戸中期の京絵師宮崎友禅斎の生誕300年を記念して昭和29年(1954)造園されたものである。 緑深い東山の清流を拝した池泉式庭園と枯山水の庭園をもつ庭園だった。
補陀洛池と石橋
補陀洛と看做した池に石橋が架かる。左端に覗く建物は三門。補陀洛池の中央に聳え立つ石台の上に観音菩薩像が建つ。 明治31年(1898)竣工 知恩院第76世立誉行戒上人の記念塔で観音菩薩像は高村光雲作 江戸中期(1688〜1703)の京絵師 扇絵の意匠を染め出した文様が友禅模様としてもてはやされた。 枯山水庭園 枯山水の庭園から茶席の庭園に移る門 「禹門」は中国の神話の三帝の一人で、夏王朝を立てた禹から名をとったもので、登龍門と同じ意味という。 2つの茶席(白寿庵、華麓庵)が茂みの中に建っていた。 二つの顔を持つ法然開基の寺・知恩院(1) 三門、御影堂(大殿)、経蔵、阿弥陀堂、大鐘楼 法然上人が眠る寺・知恩院(2) 勢至堂、御廟、一枚起請文 勢至堂周辺の境内・知恩院(3) 紫雲水、影向石、歴代上人の墓、千姫の墓、濡髪大明神
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浄土宗開祖である法然上人が入寂した大谷禅房の旧地とされる勢至堂、その周囲をぶらついた。 勢至堂に向かって右側、御廟の崖の下には、影向石(ヨウゴウセキ)、紫雲水と言う法然上人終焉時に奇瑞を現 した地、背後に回ると墓地になっており、その中には歴代上人の墓や千姫の墓があった。 更に、墓地の一番奥に白狐の化身・濡髪童子を祀る濡髪大明神があった。
崖の下の小さな池 法然上人入寂の時、聖衆がご来迎し紫雲が水面に現われ、芳香が漂ったという言い伝えがある。 法然上人入寂の時、賀茂大明神(一説には韋提希婦人(イダイケブジン)が降臨したという。
千姫の墓 先端が桃型した大きな墓石には葵の紋が刻まれている。位牌は勢至堂に祀られている。 背後に見える鳥居は、濡髪大明神。 千姫の略歴 慶長2年(1597)徳川家康の息子秀忠(後の2代将軍)と小督の方(江)の娘として生れる、家康にとって孫娘。 慶長8年(1603)6歳で11歳の豊臣秀頼に嫁ぐ。 元和元年(1615)大阪夏の陣により秀頼と死別 元和2年(1616)伊勢国桑名藩主本多忠政の嫡男忠刻(タダトキ)と再婚、後に一男一女をもうける。 元和3年(1617)本多忠政 姫路に転封。 寛永3年(1626)忠刻 没 本多家を去り、徳川家に戻り、髪をおろして天樹院と名乗り、江戸城竹橋御門近くの御殿で余生を送った。 寛元6年(1666)70歳で没し、小石川の伝通院に葬られた。京都知恩院にも分骨された。
「濡髪」という名のため、昔から祇園の綺麗どころの信仰を集め、縁結びの明神様として参詣者が多いと いう。 正面に願い事を記した護摩木が井桁状に積んであった。 毎年11月25日に濡髪大祭に願い事が叶うように炊き上げてくれるそうだ。 祠の裏には白狐が通る小さな穴が設けられていた。 濡髪大明神由来 (濡髪大明神パンフレットより) 徳川3代将軍家光の頃、建設中の御影堂完成も間近となった知恩院で、或る雨の日、大勢の善男善女 を前にして、霊厳上人がお説教をしていた。 ふと上人が見ると、聴衆の中に一人の童子が傘もささずにやってきたらしく、びっしょりと雨に濡れ ていた。 お説教が終わってから、上人はその見慣れぬ童子に声をかけた。 すると、童子は「私はこの御影堂を建てているところに在った穴に棲んでいた狐です。御影堂の おかげで住処を壊され、仕返しをしようと思っていた。 しかし、お説教を聴いているうちに間違っていることが分りました。」と、目に涙をいっぱい溜めて 答えた。 霊厳上人は狐を哀れみ、傘を貸してやり、そして、「お前の神通力で、このお寺を護ってくれ」 と頼んだ。 こうして濡髪童子として現われた白狐は勢至堂の奥に祠をいただくことになり、濡髪大明神として 現在も祀られている。 この時借りた傘が有名な御影堂の「忘れ傘」であると伝えられている。 |



