ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

京洛逍遥

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将軍塚から再び 知恩院境内に戻った。下りだから早く10分もかかっていない。

知恩院には法然上人(法然房源空)が入寂した場所であり、遺骨が葬られている所である。

御影堂が大修理工事中であるのでそちらを避け、勢至堂・御廟を参拝をすることにした。

安楽寺の稿で記したが、建永2年(1207 承元元年)の建永の法難(承元の法難)で、法然上人は讃岐国に流

罪になった。

しかし、同年12月赦免されたが、入洛は許されなかったため摂津国勝尾寺に滞在した。

建暦元年(1211)やっと入洛が許され、京の吉水に戻ったが、約2ヵ月後の建暦2年(1212)1月25日80歳で入

寂した。享年80歳(満78歳)。

死後も、叡山、南都、といった旧仏教勢力の迫害が続き、法然の眠りを覚ましかねない事件があった

が、現在は、勢至堂の向かった右側の石垣の上に建つ御廟堂に静かに眠っている。

三門あたりに比べると流石に参拝者の姿は少ない。それだけ静寂さをより強く感じる。

と、突然御影堂の大修理工事の音がカーンカーンと聞えてきた。


勢至堂
法然上人終焉の地・大谷禅房の旧跡で「本地堂知恩教院」と呼ぶ。

知恩院発祥の地である。

7間四面単層入母屋造本瓦葺 享禄3年(1530)再建 知恩院では最古の建築物 重文

本尊はもともと法然上人の御尊像(御影)であったが、現在の御影堂が建立された際移されたため、

それ以降は上人の本地身とされる勢至菩薩像(重文)を本尊として祀っている。

イメージ 1

                             勢至堂



イメージ 2勢至堂正面
法然上人終焉の本地の堂ということで本地堂ともいわれる。
本地堂の額が掲げられている。



イメージ 3外陣と内陣
内部外陣には後奈良天皇の勅額「知恩教院」が掲げられている。
本尊は勢至菩薩像(重文)




御 廟
法然上人の御遺骨を祀る、知恩院で最も重要な根本聖地である。

現在の御廟堂は慶長18年(1613)常陸国土浦城主松平伊豆守信一の寄進により再建

正面に玉垣をめぐらした唐門を構える。

宝永7年(1710)参拝のための拝殿が建て添えられた。


イメージ 4拝 殿



イメージ 5拝殿からの御廟




イメージ 6

                                御廟堂


なお、勢至堂奥では「一枚起請文」の写経が行われていた。

「一枚起請文」は、法然上人は死の2日前の建暦2年(1212)1月23日弟子の勢観房源智の請いを受けて記し

たもので、念仏の心構えと行について簡潔に説明したものである。

全文が掲示してあったので写し、句読点を付し、行を改めた。

元祖大師御遺訓   一枚起請文

もろこし我が朝に、もろもろの知者の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。

また学問をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生するぞと思いとりて申す外には、

別の子細候わず。

但、三心四修と申す事の候うは 皆、決定して、南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内にこもり

候うなり。

このほかに奥深きことを存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。

念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の

無知のともがらに同じゅうして、知者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし。

証の為に両手の印をもってす

浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。

源空が所存、このほかにまったく別義を存ぜず。

滅後の邪義をふせがんがために、所存を記しおわんぬ。

建歴二年正月二十三日       大師在御判
原文は黒谷の金戒光明寺 に所蔵されている。



  関 連 記 事










将軍塚への登り口を見つけようと、東山山麓をうろうろし、やっと知恩院の大鐘楼の裏側から東山山頂公

園に向かうハイキングコース見つけた。

山道は上り道とは言え緩やかで、地面は落ち葉で柔らかく、頭上は木々で陽の光を遮り、気温が比較的低

い所為か蒸し暑さも感じられない。

この辺りは、高台寺山国有林で、かっては赤松が主の森だったが、自然植相は常緑広葉樹林が拡大してき

た。

さらに、近年の松枯れの被害で赤松が激減し、現在はシイを中心とする常緑広葉樹林への移行が加速され

ているとのことだ。

胸に爆弾を抱えている:)でも、ゆっくり登って約20分ほどで、山頂の大日堂門前に来た。

大日堂は青蓮院門跡の飛地境内で、将軍塚はその境内の中にある。

将軍塚は、8世紀末、桓武天皇が王城鎮護のため甲冑を着せ弓矢を持たせた八尺(約2.5m)の土偶を平安京

に向けて埋め、異変があれば鳴動すると伝えられている。

将軍塚は、木柵で立ち入れないが、一見したところ変哲も無い土盛である。

ただ、この辺りからは京都が一望できる。

この付近は将軍塚古墳群と呼ばれる小規模な古墳群があった。

将軍塚もその一基で、京都を眼下に一望できる位置故に、先に述べた伝承が生じたのではないか

と思われる。

桜の春と紅葉の秋には夜間も公開され、東山有料道路沿いにあるこの将軍塚辺りは、京都の夜景を楽しむ

人が多いと聞くが、夏はどうだろうか?

イメージ 5地図




イメージ 1 イメージ 2
                               大日堂
明治時代 篤志家の寄進により建てられた。
本尊:胎蔵界大日如来石像 華頂院の遺物と伝えられる平安時代に造られた石仏。
冠形に髪を結い、蓮華座に坐し、法界定印を結んでいるらしいが、長年雨露に晒されていたらしくお顔や手印相は相当摩滅している。
手前の小さな石仏は阿弥陀如来とのこと。

イメージ 3将軍塚

「平家物語」では平家が京を捨て、福原へ遷るに際し、神武天皇の橿原の宮から筆を始め、ほぼ代々の天

皇の都の歴史を概観した後、桓武天皇の宇多村での都づくりを述べた中に、この都が長久なるように

土にて八尺の人形を作り、くろがねの鎧・甲を着せ、おなじくくろがねの弓矢を持たせ

東山峰に西向きたててうづまれけり

末代に此の都を他国へうつす事あらば、守護神となるべしとぞ御約束ありける

されば天下に事出でこんとてば、この塚必ず鳴動す

将軍が塚とて今にあり」(「平家物語」巻第五 )と述べている。

鳴動した事例は多くある。例えば、

「源平盛衰記」では、源頼朝挙兵の前年治承3年(1179)7月に3度に渡ってこの塚が鳴動し次いで間もなく

大地震が起きたという。

また、「太平記」では、貞和5年(1349)2月26日の夜半に鳴動し、人々が不思議に思っていたら、次の日に

清水寺が一宇も残さず焼失したとある。


イメージ 4

                             展望台からの眺望
(写真にポイターを当て、クリックすると拡大する。)

将軍塚への登り口を探してうろうろしていたら、知恩院の境内に入った。

知恩院では御影堂の修理工事が行われており、雑然としていたが、大鐘楼の裏手に登り口を見つけた。

大鐘楼の裏手からは東山山頂公園へ向かう山道であるが、市民のハイキングコースとして整備されて

おり非常に歩き易い。

5分ほど歩くと、左手に大きく「法垂窟」と刻んだ大きな碑と近くに岩壁の下に人が屈み込んでやっと入

れる程度の洞窟があった。

その周辺は石柵で囲まれ幾つかの石碑が建っていたが文字が達筆すぎて分らない。

説明板もないのでどういうところかと思って眺めていたら、丁度ここをお世話している方がおられたので

お尋ねしたところ、次のように教えてくださった。

法垂窟(ホウタルノイワヤ)といい、法然上人が法を説き庵を結んだ吉水の草庵跡ともいわれるところである。

洞窟で法然上人が、夢の中で、中国の浄土経の祖・善導大師に会ったとされている。

法然上人の夢の中で、善導大師は「腰上半身尋常僧相、腰下半身金色佛相」の姿で現われ、専修念仏の道

を説いた。

又、若き親鸞が法然上人を訪ねた出会いの場所でもある。

洞窟内の中央に安置してある3体の石像は善導大師、法然上人、親鸞とのことだった。

洞窟内に安置してある石仏に合掌し、再び山道を登り始めた。


イメージ 1

                              法垂窟全景



イメージ 2

                              法垂窟
洞窟内は深くない。下には水が溜まっており、中央に3体の石仏が安置してあった。
洞窟の入口上に、法然上人が善導大師の会い様子のレリーフが埋め込まれてあった。

祇園女御供養塔を確認した後、全くの思いつきで、東山山頂の将軍塚に行ってみようと思った。

登り口を探して円山公園から東方向の道をぶらりぶらり歩いていると周辺はいかにも京都らしい料亭が並

んでいる。

その中に「左阿彌」という料亭があり、注意を惹いた。

と云うのも、次のような記憶が次から次へと生じたからだ。

志賀直哉の「暗夜行路」で、主人公・時任謙作が直子と挙式したところだ。

また、川端康成の「古都」では、主人公・八重子の養父・佐田太吉郎と水木竜助の父とが、ここの京都を見

渡せる高見の座敷で会食行われ、千恵子の結婚を予感させる。

同じく「美しさと哀しみと」では、大木年雄が上野音子と再会の場として、知恩院の除夜の鐘を聴くため

に上がった座敷は「車は円山公園を深く知恩院の方へのぼって行った。古風な貸席の座敷には、・・・

(川端康成「美しさと哀しみと」除夜の鐘)とあり、はっきりと名前は出てこないがここと思われる。

左阿彌の門前に由緒が表示してあった。

その説明板の内容と、多分予約客を待っていたお姉さんの説明などをあわせると次のようだった。

左阿彌は、もと円山安養寺六坊(正阿彌、重阿彌、也阿彌、連阿彌、眼阿彌、左阿彌)の中の一つだった。

織田信長の末弟・織田有楽斎(東京有楽町の名の元)は茶人として知られている。

元和元年(1615)有楽斎の次男頼長が出家し雲生寺入道道八と名乗り、安養寺末寺「左阿彌」を建て、ここ

にて父有楽斎と共に茶の道を楽しんだ。(道八の墓碑は邸内にあるそうだ)

江戸時代の元禄の頃には円山は行楽地として最も栄えた。

「左阿彌」は嘉永2年(1849)料亭となり、新選組の近藤勇が大名気取りに通った。

明治以降は有栖川宮、山縣有朋などの重鎮が宿し、川端康成、志賀直哉など文人墨客が愛したという。

邸内は緑豊で一見の価値がありそうだったので、お姉さんのお許しをいただいて邸内を覗かせて貰った。

イメージ 1由緒説明板


イメージ 2表門



イメージ 3露地



イメージ 4

                              茅葺の茶室

台風4号も去り、梅雨の晴れ間を狙って、約2ヶ月振りに京都に出てきた。

相変わらず駅前のバスターミナルは観光客で賑わっている。

思いつきで出てきたので、特にここという行き先がない。

つい馴染みの清水、八坂方面行きのバスに乗り、他の観光客につられつい八坂神社前・祇園で降りた。

人込みを避けるため、八坂神社を通り抜け、緑が美しい円山公園を暫くぶらりぶらり散策していた。

ふと、最近再再婚した松田聖子のニュースから、NHK大河ドラマ「平清盛」で彼女が演じる祇園女御を思

い出し、近くにある祇園女御塚へ行ってみた。

円山公園から大谷祖廟(東大谷)の参道を横切ったところ(北側に円山野外音楽堂がある)に二階建ての京都

祇園堂が建っていた。

その入口脇に祇園女御供養塔が建っていた。

この辺りには祇園女御が住んでいたといわれるところで、もともと女御の菩提を弔う粗末な祇園女御塚が

あったが、近年京都祇園堂の建築に伴い改めて祇園堂前に安置したものらしい。

昔は粗末な塚と小さなお堂があったというが、その方が物語性があるような気がするのにと思った。

イメージ 1 京都祇園堂




イメージ 2 祇園女御供養塔
裏面よると、昭和47年(1952)4月建立とある





イメージ 3 祇園堂祭壇
京都祇園堂の1階奥に祭壇があり、
13佛を描いた掛け軸の前に阿弥陀如来像と
祇園女御の位牌が置かれ、
左右に石仏がおかれてあった。





祇園女御の出自は良く分らないようだ。

ただ、白河法皇に寵愛された女房の一人であったことは間違いない。

「平家物語」巻第六では、

また、ある人申しけるは、清盛は忠盛が子にあらず、実は白河院の皇子なり

その故はさんぬる永久の比ほひ、祇園女御と聞えし幸い人をはしける

件の女房の住ひところは、東山のふもと祇園のほとりにぞありける。白河院つねに御幸なりけり

とあり、忠盛燈籠で述べたように、雨の夜の忠盛の沈着な行動を激賞した白河法皇が、

寵愛の祇園女御を忠盛に与えた。

ところが、祇園女御は既に白河法皇の子を宿していた。

さて、かの女房、院の御子を孕み奉りしかば、「産めらん子、女子ならば朕が子にせん

男子ならば忠盛が子にして、弓矢とる身にしたてよ」と仰せけるに、すなはち、男をうめり

その男の子か清盛(NHKドラマでは松山ケンイチが演じている)であるというのだ。

ただ、それにも諸説あり、例えば、近江の胡宮神社の文暦2年(1235)7月付け「仏舎利相承次第」では、

やはり白河法皇の寵愛を受けていた、祇園女御の妹が、清盛を産み、3歳の時祇園女御が引き取って育て

たという。

NHK大河ドラマ「平清盛」(作:藤本有紀)では、白拍子舞子(吹石一恵)が白河法皇(伊東四郎)の子を身ご

もり、忠盛(中井貴一)が引き取り育てるとなっており、後者の説に近い筋のようだ。

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