ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

京洛逍遥

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嵯峨野の北端に位置する直指庵(ジキシアン)は、大覚寺より北に向かって約15分、長閑な田園風景を眺めなが

ら歩いたところにあった。

喧伝すべき書画仏像がある訳でなく、建物がある訳でない。

ただ、幕末の女傑・村岡局が余生を過ごし、墓があるということなので、来てみたに過ぎない。

そう言う訳で、訪れる人は殆どいないと勝手に思い込んでいたが、来て見ると意外に訪れる人が多い

のには驚いた。

境内は山腹を利した立体的な庭で、新緑が萌えようとし、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

訪れた人々は、一時のそれを求めてやってきているのかも知れないと、一人合点した。

直指庵(ジキシアン)は正保3年(1646)独照禅師がこの地に没蹤庵(ボツショウアン)という一宇を営んだのが始まりと

伝える。

独照は、承応3年(1654)明から来日し、日本黄檗宗の開祖隠元禅師に帰依し、万治2年(1659)春、隠元を嵯

峨の没蹤庵に迎えている(隠元はこの後夏、宇治に移り万福寺を創立している)。

以後、諸堂が整えられ大寺となったが、隠元の法灯を継ぐ独照は禅の「直指人心(ジキシジンシン)」の教えに

従って寺名を定めず「直指庵」と称した。

その後、寺は次第に衰微したが、幕末、安政の大獄に連座して江戸送りされ、後に赦されて京に戻った近

衛家の老女・村岡局(ムラオカノツボネ)によって浄土宗の寺として再興された。

その後、諸堂は明治13年賊によって焼かれ、現本堂は明治32年(1899)再建されたものである。

イメージ 1 山 門



イメージ 2 本 堂
明治32年(1899)再建
本尊:阿弥陀如来
「想い出草」という庵を訪れた人々の感想をなどを綴ったノート多数置かれていた。



イメージ 3 本堂から庭(北)



イメージ 4

                            本堂から庭(南)
本堂南の縁側からは境内が一望できる。



イメージ 5 待 合
本堂に向かう途中に設けられている。



イメージ 6 村岡局墓
明治6年(1873)88歳で没した。
石柵で囲まれた中央に墓標建つ。
墓標の表に「津村氏村岡矩子之墓」と刻まれていた。
自筆だそうだ。
村岡局については亀山公園内村岡局銅像で記述。


イメージ 7 イメージ 8
                        開山堂(左)と独照の塔(右)
開山堂は宝形造りの建物。
中央に、直指庵開山独照性円禅師の墓を示す大円塔が祭られている。
元禄7年(1694)78歳で没。


イメージ 9 愛逢い地蔵
境内には「想い出草観音」、「水子時地蔵」などの石仏が置かれているが、
「愛逢い地蔵」もその一つ。
祈願すれば、縁結び、恋愛成就のご利益あるとか。
いかにも今様の石仏だ。

清涼寺での嵯峨狂言の公演が始まるまでの間に、幕末の女傑・村岡局が隠棲した直指庵へ行って見ること

にした。

直指庵は嵯峨野の北端あり、清涼寺の北に位置する大覚寺から更に北に15分ほど歩いたところにある。

そこで、まず大覚寺を目指して北に向かって歩いていると、「六道の辻」と標石が建つ箱庭風の小公園が

あった。

様子からして出来たのは新しい様だ。

六波羅の六道の辻は、近くに鳥辺野という葬送の地があるからだ。

この点嵯峨野には化野(アダシノ)がある。

そう云えばこの辺りは六道町という。それで造られたのかも知れない。

園内には、多分、あの世とこの世の境を示すのだろう、川が造られ、石橋が渡されている。

そして奥に、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」の六道輪廻して苦しむ衆生を救って下さる地蔵菩薩が

祀られ、側に井戸垣が設けられていた。

六波羅の六道珍皇寺では小野篁が冥土に入った井戸があったが、こちらは出てきた井戸の心算だろうか?

清涼寺薬師堂前にも小野篁遺跡生の六道という場所があったが?



イメージ 1 イメージ 2
                               六道の辻

13時半ごろ再び清凉寺に戻ってきたら、狂言堂で嵯峨大念仏狂言(以下 嵯峨狂言)が始まろうとしてい

た。

今日の演目は「とろろ」、「橋弁慶」、「餓鬼角力」の3番であった。

開始前と、幕間に保存会の方が、嵯峨狂言についてや演目のあらすじを説明して下さったので、非常に分

りやすく楽しむことができた。

嵯峨狂言は、弘安2年(1279)大覚上人が大念仏として始められたものと伝えられる。

仮面をつけた無言劇で、囃子も鉦1つ、締太鼓1つ、笛1つで独特なリズムで奏でそれにあわせて演者が

無言劇を演ずる。

開園前の説明で、演者は面をつけているので非常に視野が狭いという説明があったが、能でも同じような

話を聞いたことがある。

能では目付け柱や背景を頼りに演じるそうだが、能より動きが激しい嵯峨狂言の場合はなおさら難しいだ

ろう、と思った。

この嵯峨狂言は重要無形民俗文化財に指定され、嵯峨狂言保存会が維持しているが、技芸の継承を始め、

狂言堂の維持、仮面や装束の修理・新調など多くの問題が山積みしているとのことであった。



イメージ 1 ポスター


イメージ 2 演目表


イメージ 3

                            狂言公演風景


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                               とろろ
茶屋の女と茶屋の男衆が開店準備として,山芋を摺ってとろろ汁を用意している(左)。
やがて、旦那がやって来る(右)
酒を酌み交わす内、酒がなくなり男衆が酒を買いに行くが盗人が入り刀や着物を盗み出す。
そこへ男衆が帰りびっくり仰天するが、気を取り直し盗人と渡り合う。




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                                橋弁慶
牛若丸が五条の橋のたもとに笛を吹きながら登場し(左)立ち去る。次いで弁慶が登場する。
牛若丸が通9人を斬り捨てたところを弁慶が目撃し、弁慶と牛若丸が太刀打ちとなる(右)。
牛若丸は、打ち負かした弁慶を従えて立ち去る。



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                             餓鬼角力
鬼3匹連れた閻魔王と餓鬼3人連れた地蔵さんが出会い、角力を取ることになる。
餓鬼と鬼が一対一で角力をとる(左)が三番とも餓鬼が負ける。
次いで地蔵が餓鬼に呪いをかけて、再戦すると三番とも餓鬼が勝つ。
それではと、閻魔王が餓鬼3人を束にして角力して勝つ。
是を見た地蔵さんは閻魔王と角力をとり、閻魔王を倒す。
この後、全員で「明年じゃ、豊年じゃ」と(ここの場面だけ)声高々に唱え踊りながら(右)退場する。

二月の中の五日は鶴の林のたき木つきにしなれば、かの如来二傳の御かたみのむつましさに

嵯峨の清凉寺に詣でて常在霊鷲山など心うちに唱へて拝みたてまつる

かたはらは八十にもや余りぬらんと見ゆる尼ひとり、鳩の杖にかかりて参れり。(「増鏡」上 序)


冒頭の文章で始まる歴史書「増鏡」は、著者が2月15日釈迦入滅の碑清凉寺に参詣し、100余歳の尼に会っ

て、歴史を語ってもらうことで始まっていた。

時期が1か月ほど違うが、きっとこのような長閑な雰囲気を想定したのだろうと、全くの勝手な想像をし

ながら境内を回っていた。

本堂裏と庫裡を結ぶ廊下を渡り、方丈庭園を見に行く。

本堂の裏には、放生池と中小島を配し、奥の方には戦争犠牲者を弔う忠霊塔、近くには江戸時代後期に建

立されたと思われる弁天堂(摩尼殿)が建ち、風情のある眺めだった。

小掘遠州作庭の枯山水庭園は、好みと理解力の問題かも知れないが、それほど感激しなかった。

むしろ、この後入った霊宝館特別公開(4月1日〜5月31日)している諸仏に関心が行った。

棲霞寺(現 阿弥陀堂)の旧本尊で、源融(ミナモトノトオル)が他界する直前に自分の顔に似せて造らせたという

「光源氏写し顔」の言い伝えを持つ阿弥陀三尊像(国宝、平安前期)や文殊菩薩騎獅像(重文 平安後期)、

普賢菩薩騎象像(重文、平安後期)、釈迦十大弟子像(重文 平安後期)、等の国宝、重文を含む優れた仏像

彫刻や絵画をみることができた。写真に収める事ができなかったが多くは図録などで馴染みのものだ。

この後、東側境内をめぐり薬師堂、狂言堂がある西門から出た。

狂言堂では、春期公演として13時半から嵯峨狂言が公演される。

既に席等が並べられ、公演の準備がなされていた。



イメージ 1 庫裡
本堂から渡り廊下を渡り庫裡に隣接する方丈庭を拝観した。



イメージ 2 忠霊塔
本堂の裏庭の放生池の中小島に建ち、戦争犠牲者の霊を弔う



イメージ 3 弁天堂(摩尼殿)
江戸時代後期築
宝形造、正面に軒唐破風を撞けている。
腰羽目、扉には彫刻が施されているが遠くからなので何が彫られているのか分らなかった。



イメージ 4 渡り廊下
本堂と方丈を結ぶ、



イメージ 5 枯山水庭園
江戸時代作庭で、小堀遠州作とのこと



イメージ 6 イメージ 7
                          薬師堂と「生の六道」
西門近くにあるお堂、前に「生の六道 小野篁公遺跡」と刻まれた碑が建っていた。
小野篁が、六道珍皇寺にある冥土通いの井戸から入ったという冥界の出口だった井戸跡だろうか?



イメージ 8 狂言堂
円覚上人が民衆に教義を説くために創ったといわれる「嵯峨念仏狂言」(国指定重要無形民俗文化財)が演じられる。
今日午後1時半から演じられる。

本堂に祀られている本尊・釈迦如来立像は三国伝来の「生身(ショウジン)の釈迦」として信仰されてきた。

それは在世中の釈迦の御姿を写した像(栴檀瑞像、優塡王思慕像)を模刻したものと伝わるからである。

しかし、昭和28年(1953)体内に五臓六腑や仏の歯(仏牙)などが納められていることが発見された。

この三国伝来の釈迦像は、単に釈迦自身の瑞相を備える像としてでだけでなく、まさしく「生身」という

性格が与えられた像だった。

このような事を本堂や霊宝殿を巡っていて知り、改めてお参りした本尊の有難みを感じた。

この後境内の東側、即ち本堂に向かって右側を巡った。

一切経蔵では、お釈迦様がお説きになった一切の法を納めた法輪(輪蔵)を念じながら、ゆっくりと廻し、

一切経を一回読んだのと同じ功徳を得た。

イメージ 1 愛宕権現社
山門を入って右側に鎮座している。
神仏習合時代の愛宕権現の本地将軍地蔵、竜樹、富婁那(フルナ)、毘沙門天の4座を祀る。
古来火除けの神として尊崇されている。


イメージ 2 弥勒多宝石仏
空也上人が造ったといわれる石仏
背中に多宝塔を刻んでいる。


イメージ 3 経 蔵
明版一切経5千4百8巻が納めた輪蔵を安置する。
経蔵の四隅には四天王が守護している。


イメージ 4 傅大士・普浄・普現像
経蔵の入口には、輪蔵を考案したという中国南北朝時代の居士傅大士像が安置してあった。


イメージ 5

                               輪 蔵
明版一切経5千4百8巻が納められ、この輪蔵をを一回転すれば一切経を一回読んだのと同じ功徳が得られるという。
一回転させていただくのに100円。早速やって見た。しかし、一回読んだ功徳とは?確認しなかった。


イメージ 6 イメージ 7 イメージ 8 イメージ 9
                            四天王像
経蔵を守護する。左より順に、南:増長天、西:広目天、北:多聞天、東:持国天

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