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天気が芳しくないので、後白河天皇陵を参拝した後、あっちこっち歩くのは躊躇し、すぐ目の前の蓮華王 院にとりあえず入った。 蓮華王院の見所は、何んと言っても、三十三間堂の名で知られる本堂だ。 中央に丈六の中尊(国宝)を安置し、その左右に各五百体(重文)、計1001体の十一面千手千眼観世音菩薩 像、及びその前に風神雷神像(国宝)、二十八部衆像(国宝)が置かれている。 は何度も訪れているが、何時きても、間近に直接拝観できるこれらの仏像に圧倒される。こんな天気なので、(こことしては)観光客が少なく、ゆっくりと拝観することができた。 しかし、堂内は暖房してある訳ではないので、底冷えする寒さ為、最後の方は震えながら拝観していた。 拝観したこれらの諸佛は、東、即ち後白河陵(法住寺陵)を向いている。 三十三間堂は後白河陵の墓辺寺を意図して建てられたのではないかと思った。 蓮華王院(三十三間堂)は、現在は妙法院の塔頭寺院であるが、元々は、長寛2年(1164)後白河上皇の院政 庁「法住寺殿(ホウジュウジドノ)の一画に、平清盛が寄進したものである。 しかし、建長元年(1249)大火に見舞われて焼失したので、文永3年(1266)後嵯峨上皇が九条道家の支援を 得て再建したもので、その後兵火にかかることなく今日まで残ったものである(江戸時代に妙法院の管理 下に入った)。 塩小路通に面して建つ。 何時来ても観光客の姿を見たことが無い。 南大門(重文)は、豊臣秀吉が文禄4年(1595)方広寺を建立した大仏殿(現 北側の国立博物館一帯)の南門として建てたもの。 築地塀(重文)は、南大門に続き、高さ5.3m、長さ92mの堂々した建造物で、三十三間堂も方広寺に取り込み、一画として寺域の南境に築いたもの。 昭和36年(1961)新築されたもの。 先に見える門は南大門。 道を挟んで(写真にはほとんど写っていないが)左側(東側)に法住寺、養源院が並ぶ。
蓮華王院本堂(三十三間堂)
東に面し、南北に細長く伸びるお堂。(国宝)正面の柱間が33あることから「三十三間堂」と通称されている。 東西約22mに対し、南北全長約120mあり、日本で最も長大な木造建築である。
三十三間堂東側
東面(正面)は、すべて板扉と明り障子となっている。中央は向拝つき入口となっている。三十三間堂南側、西側 側面(北、南側)及び背面(西側)は連子(レンジ)窓を多く設けている。 西側広場は「通し矢」射場となっている。 江戸時代、尾張・紀州両藩による通し矢「天下一」の争奪戦は民衆の評判となった。 西縁の南端から北端へ、一昼夜24時間、矢を射続けるという「大矢数」は身命を賭けた壮絶な競技で、江戸時代を通じて、約800人がこれに挑んだ。 現在では、毎年正月15日に近日曜日に、西広場でこの古儀に因む弓技大会が行われる。 法住寺殿(ホウジュウジドノ)保元3年(1158)二条天皇に譲位した後白河上皇が約30年間院政を行った政庁。 しかし、賑わいを見せた院の御所は寿永2年(1183)11月対立する様になった木曾義仲の夜襲で、焼失した。 「南無阿弥陀佛」と六字名号が彫られている。 元久元年(1204)3月土御門天皇が、当院で後白河法皇の13回忌を行った際、請いを受けた法然上人が「六時礼讃」という法要を行った。 上人は「浄土の経文」を書写し、参集した人々に紙を分け与えて念仏写経を勧めたといわれている。 お堂の建立の翌年(1165)一人の学僧が夢のお告げで発見したという霊泉。 夜のしじまに、水の湧き出す音が人のすすり泣きに似ていることから「夜泣き泉」と言われるようになった。 何時の頃からか、傍らに地蔵尊が奉られて、特に幼児の「夜泣き封じ」に功徳あるとして、地蔵様の「前掛け」を持ち帰り、子供の枕に敷けば「夜泣き」が治るとされる。 なお、近くに立っていた説明板には、夜泣泉の「泉(セン)」は、「酉(トリヘン)に泉」と言う字を当てられていた。 しかし、その字は辞書になかったので、本稿では「泉」を当てた。 |
京洛逍遥
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神戸は晴天だし、新聞の天気予報も京都には晴れマークが付いていたので、京都社寺巡りに出かけた。 しかし、大阪を過ぎ、高槻辺りから空の様子がおかしくなり、10時半頃京都駅に着き、外に出ると、空は すっかり曇り空で、雪がチラチラ降っていた。 京都駅から塩小路通を東に15分ほど歩く。 その間にでも、天候は雪が止み、薄日が射したり、又雪がチラチラしたりする。 NHK大河ドラマ「平清盛」が放送されているが、その平清盛など台頭する源平を操った後白河法皇(後白河 天皇は保元3年:1158上皇になり、嘉応元年:1169法皇となる)の御陵である。 拝所があり、その先に御陵(法華堂)があった。 しかし、幕末の修陵の際建てられたという門が邪魔して、切妻造の瓦葺建物らしいがそれ以上は分らな い。 後白河法皇は法華堂の地下に埋葬された。現在の法華堂は江戸時代初期の建物とみられている。 法華堂内部には厨子が納められ、後白河法皇の等身大の木造が安置されている(この像の摸刻が法住寺に も祀られている)そうだ。 周囲には親王の方々の墓もあったが、墓域には立ち入り禁止になっているようであったので、どれがどな たの墓なのか分らなかった。 後白河天皇法住寺陵と記され次に7人の親王の名が記されている。 法住寺陵 後白河天皇は大治元年(1127)鳥羽天皇と待賢門院との間に第4皇子として生れた。 久寿2年(1155)近衛天皇が崩御すると、その位に着いた。 翌久寿3年(1156)鳥羽法皇が崩御すると、(同年に改元して保元元年)保元の乱により、崇徳上皇と藤原頼長の勢力を破り、その立場は不動のものとなった。 保元3年(1158)子の二条天皇に譲位し上皇(嘉応元年:1169出家して法皇になる)として院政を開始、以後二条、六条、高倉、安徳、及び後鳥羽天皇の5代34年間に渡って君臨。 建久3年3月13日崩御、享年66. その間、時には平家、時には源氏、また、義仲、頼朝、義経と、時と状況に応じて武士の力を利用し、邪魔になると、策略をめぐらして離反させたり、討伐したりした為、「日本国一の大天狗」と頼朝に揶揄された。 しかし、瓦解する朝廷権威を維持する為にはやむ得なかったのかもしれない。 御陵のまわりに石垣で囲まれた親王の墓が並んでいた。 |
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勝林院の東北にある宝泉院に足を向ける。宝泉院は勝林院の子院である。 前稿の繰り返しになるが、平安初期、比叡山に天台密教を開いた伝教大師最澄の高弟円仁は、唐に渡り、 十余年の仏教修学を終え帰朝し、叡山に五会念仏など、またその法要儀式に用いる仏教音楽「声明」を伝 えた。 長和2年(1012)寂源は大原寺勝林院を創建し法儀声明を盛んにした。 平安末期良忍が出るに及んで、大原は法儀声明の修学の地(声明の里)として有名になった。 宝泉院は大原寺勝林院の住職の坊として寿永年間(1182〜1184)に創建され現在に至っている。 昨今では額縁庭園の名で、室内から見る庭園が美しいことで知られている。 今は訪れる人も少ないので、お薄をいただきながら、他の人を気にすることなくゆっくり拝観することが できた。 宝泉院入口 ゴヨウマツと客殿 左手に枝振りも立派なゴヨウマツが目にはいる。右手は客殿、江戸初期の再建とみられたいる。 鶴亀庭園 江戸時代中期の作庭。池の形が鶴、築山が亀、山茶花の古木を蓬莱山と見るそうだ。 盤桓園 客殿の西方に造られた池泉鑑賞式庭園。まず最初に外からも見えたゴヨウマツの見事な幹、更に目を動かすと作庭された庭が広がる。 盤桓園 竹林の間から大原の里が満喫できる。 客殿の座敷の奥から眺めると柱、敷居、鴨居によって作られた四角い空間は、まさしく額縁の絵画を見るようである。 客殿の廊下の天井板は、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の前哨戦として、鳥居元忠以下数百名が守る伏見城 を 石田三成軍が攻め鳥居元忠以下が自刃した。彼等の霊を慰め、供養する為、自刃した場所の床板を天井にして祀ったそうだ。雨漏り後の様な染みがあったが区別はできなかった。
宝楽園
新たに作庭された石組みの庭。仏神岩組雲海流水花庭を趣向し、地球太古の創世に遡り、その原初の海を創造した庭園だそうである。 |
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門前の小さな石橋を渡り境内にはいる。見渡すと境内には薄く雪が残っていた。 見たところ正面に本堂、手前の端に鐘楼だけである。境内東側の奥には重文の石造宝篋印塔がある。 大原寺勝林院は、慈覚大師円仁が唐から持ち帰り比叡山に伝承された法儀声明の根本道場として、 寂源が長和2年(1013)建立した。山号は魚山。 本堂ではテープではあるが、3分ほど声明を聞くことができる。 拝観者は ひとりだったので、本尊の前に座り、目を閉じ、何度も聞いた。堂内に響く声明で、恍惚した気分に浸り心が洗われる様であった。 勝林院は、文治2年(1186)秋、顕真法印(後の61世天台座主権僧正)が浄土宗祖・法然上人を招いて、専修念 仏について論議をした「大原問答」の寺としても知られる。 本堂の内部に入ると証拠阿弥陀、踏出阿弥陀など「大原問答」からの伝説が伝わる御仏が安置され、本 尊前左右には問答講義を行う八講台(問答台)が設えられているなど、当時を偲ばせるものであった。 門前の小さな石橋。 ここを渡れば極楽浄土という訳。 安永7年(1773)再建 屋根は杮葺き、柱、床板はすべて欅 欅材に緻密な彫刻が施されていた。 本尊・阿弥陀如来坐像を中心に向かって左に毘沙門天立像、右に不動明王立像が並ぶ。 本尊の定印を結ぶ手から五色の綱が結ばれて、この綱により極楽へ誘われる。 大原問答の際、手から光明を放って念仏の乗生済度の証拠を示されと言われ、「証拠阿弥陀如来」と呼ばれる。 崇源院は、昨年NHK大河ドラマとなった浅井三姉妹の江で、徳川2代将軍秀忠の室、3代将軍家光の母。 享保21年(1736)焼失した旧本堂は春日の局の願いによって崇源院の菩提を弔うために再建されたものだった。 本尊に向かって左奥に安置 本尊に向かって左奥に安置 2つの蓮華の上に足を踏み分けて乗り、左足が踏出している。 極楽浄土からお迎えに来られた姿の来迎佛。 「大原問答」の際、御足を踏出して証拠に立たれた、と言う伝説がある。 境内東側奥に建っている。 重文 「正和五年(1316)丙辰五月一日」の刻字がかすかに残る 江戸初期建立 梵鐘は無名ながら創建当時(平安時代)のもの 重文 |
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再び三千院の門前に来た。今度は北方向に歩き、天台声明の根本道場・大原寺「勝林院」に向かう。 三千院門前から勝林院までは100mも満たない距離であるが、注意を惹くものがいくつかあった。 三千院北側を流れる律川に架かる橋詰にあった。 文治2年(1186)勝林院での法然上人の大原問答の折、その弟子・熊谷直実は「師の法然上人が論議にもし敗れたならば法敵を討たん」との目的で鉈を隠し持っていたが、上人に諭されて鉈を薮に投げ捨てたと伝えられる。 しかし、この話は全くおかしい。 と言うのも、熊谷直実はこの頃まだ武骨丸出しの武者であることが伝えられており、法然の弟子になったのは建久4年(1193)頃と言われているからだ。 寿永3年(1184)一の谷の合戦で平敦盛を討って仏心が生れたとされる熊谷直実だが、文治3年(1187)鶴岡八幡宮での流鏑馬で、役が気にいらないと頼朝に逆らっているし、建久3年(1192)久下直光との所領争いして逆上している。 建久4年(1193)頃金戒光明寺で出家・法然の弟子になった、と伝えられている。
未明橋?茅穂橋?
三千院北側を流れる律川に赤い欄干の橋が架かっている。三千院側の欄干の柱には「未明橋」と記され、反対の勝林院側の柱には「茅穂橋」と記されていた。 どちらが本当の橋の名であろう?
大原陵
後鳥羽天皇、順徳天皇の御陵(後鳥羽院は隠岐にて)延応元年(1239)といふ二月二十二日六十にてかくれさせ給ぬ。・・・・・・・ ・・・・・お骨をば、能茂'(ヨシモチ)といひし北面、入道して御供にさぶらひけるぞ、首にかけ奉りて 都に上りける。(「増鏡」上 第三藤衣) 後鳥羽天皇は、高倉天皇の第四皇子、寿永2年(1183)3歳で即位、建久9年(1198)土御門天皇に位を譲った 後、23年間院政を行った。 蹴鞠、琵琶、笛などの芸能のほか、相撲、水練、射芸などの武芸もたしなんだ多才な人物だった。 とくに和歌に優れ、元久2年(1205)「新古今和歌集」を撰した。 承久3年(1221)承久の変に敗れ隠岐に配流された。 順徳天皇は、後鳥羽天皇の第三皇子で、承元4年(1210)兄の土御門天皇に次いで即位、承久3年(1221)皇位 を皇子の仲恭天皇に譲る。 承久の変に参画して佐渡に配流、そこで崩御された。 大原陵の北側に隣接。 仁治2年(1241)後鳥羽天皇の冥福の為梨本門主尊快法親王母公修門院の計らいにて水無瀬の御所を持って建立、享保21年(1736)類焼。 安永年間(1772〜1781)再建したもの。 昭和11年(1936)内部及び屋根修繕 さて大原の法花堂(ホッケドウ)とて、今も、昔の御庄の所々、三昧料に寄せられたるにて、勤め絶えず。 かの法花堂には、修明院の御沙汰にて、故院わきて御心とどめたりし水無瀬殿をわたさせけり。 (「増鏡」上 第三藤衣) 仁治二年二月八日、大原法華堂供養、同日西林院御堂より法華堂に(後鳥羽院の御遺骨を)渡し奉る。 (「一代要記」) 勝林院門前にある。 |
は何度も訪れているが、何時きても、間近に直接拝観できるこれらの仏像に圧倒される。


