ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

京洛逍遥

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三千院の南側を流れる呂川に沿って山道を登る。ほとんど人気がない。

蓮成院、浄蓮華院を過ぎると「聖応大師良忍上人御廟、音無しの滝右三百メートル」と刻んだ標柱が建つ山門

の前に来た。ここが来迎院である。

来迎印は、山号が魚山、天台宗の寺である。

慈覚大師円仁は承和2年(835)入唐僧として中国に渡り、同14年(847)帰朝した。

この時、円仁は中国仏教の声明音律業を学び、叡山に持ち帰った。

仁寿年間(851〜854)声明の修練道場として創建したのが来迎寺の始まりとされる。

その後、一時衰退したが、平安時代末期の天仁2年(1109)聖応大師良忍が再建した。

良忍は、円仁が伝えた声明を魚山流声明として集大成した。

以後天台声明の根本道場として栄えたが、応永33年(1426)焼失し、室町時代に再興・改修され、現在に至

っている。

境内には雪が残り、観光客の姿が見られず、落ち着いてゆっくり境内を拝観できた。

イメージ 1 山門



イメージ 2 本堂
天文2年(1533)再建



イメージ 3

                             本堂須弥壇の仏様
中央に本尊薬師如来坐像、向かって左に阿弥陀如来坐像、右手に釈迦如来坐像(いずれも平安後期の作で重文)、  前段左には不動明王立像、右には毘沙門天立像



イメージ 4 須弥壇天井画
天女が舞う姿が描かれたいる。


イメージ 5 イメージ 6
                             良忍上人御廟
境内の奥、律川を渡った先にあった。
永久5年(1117)念仏三昧中に阿弥陀佛から融通念仏の教えを授けられ、やがて大念仏寺(大阪市平野)を総本山とする融通念仏宗を開宗。
天承2年(1132)来迎院で入寂
三重石塔は鎌倉時代の作で重文


イメージ 7 鐘楼
梵鐘は永享7年(1435)藤原国欠作



イメージ 8 獅子飛石
良忍上人の唱える声明の調べに陶酔した獅子が堂内を駆け巡って岩になって残ったといわれる。
苔むした極普通の岩だった。



因みに、今回は行かなかったが、上流300mほどの山中に、「音無しの滝」が流れている。
良忍が、滝の音で声明の修行の妨げにならないように音を止めたとか、良忍が声明を唱えていると声明の音律と融合し水音が消えたといわれる。
15年以上も前に子供と一緒に行ったが、2段の美しい滝であった。

有清園を過ぎ、境内の上の方に向かう。

石積みの上に京七福神の弁財天、その先に金色不動堂、観音堂があった。

さらに北側谷をおり、律川を渡った先に定朝様式の「大原の石仏」が安置してあった。

三千院は、山号を魚山(ギョザン)と号し、天台宗五箇所門跡(他は、青蓮院、妙法院、曼珠院、毘沙門堂)

の一つである。

意外なことだが、今や馴染みとなっている「三千院」と公称したのは明治に入ってからである。

三千院は、寺伝によると延暦7年(788)伝教大師最澄が比叡山東塔南谷に草庵を構えたのが起こりとされ

る。  後に「円融房」、「円徳院」、「梨本房」と称した。

そして、東坂本梶井(滋賀県大津市)に僧房を置き、元永元年(1118)最雲法親王を迎えて「梶井宮」称し、

宮門跡寺院となった。

政所を置いた大原は、やがて梶井宮の別所的存在になるが、本坊は兵火などにより場所を転々とした。

江戸時代の元禄11年(1698)から京都市中の上京区梶井町に本坊(梶井御殿)があった。

明治4年(1871)門主の昌仁法親王が還俗して梨本宮家を興すと本坊(梶井御殿)は廃され、大原の政所を

本坊とし「三千院」と号した。

なお、名前は本坊(梶井御殿)の持仏堂に掲げられていた霊元天皇宸筆の勅額「三千院」からとられたも

の。

高野川の支流、呂川と律川に挟まれ、魚山の麓に位置する三千院の冬の境内を歩いていると、何処からと

も無く声明の響が流れてくる感覚がした。


イメージ 5 妙音福寿大弁財天
京の七福神の一つ


イメージ 1 金色不動堂
平成元年(1989)建立
本尊智証大師円珍作と伝えられる金色不動明王
近畿36不動尊霊場第16番札所
大原の 里と聞きつつ 訪ね入れば また道ながら 袖しばりけり




イメージ 2 イメージ 3
                              大原の石仏
花崗岩製  像高225m
二重円光式光背を背負い、蓮華座上で定印を結ぶ阿弥陀如来像



イメージ 4 観音堂
金色に輝く、身の丈3mの厄除け聖観音立像が安置されている。


客殿近くに戻り、重要文化財収蔵施設「円融蔵」に入る。

木造救世観音半跏像(寛元4年:1246 重文)、木像不動明王像(鎌倉時代 伝慈覚大師円仁作)

往生極楽院阿弥陀堂天井画復元模写 、御所車衝立(安土〜江戸時代) などが展示してあった。

建物内部を通り抜けて、奥の庭へ出て、有名な往生極楽院の建物を見た。

この建物の美しさには記憶があった。 いつかもう一度来て見たいと思った建物である。

お堂というより、東洋の宝石箱とでもいいたい簡素なこじんまりした美しさである。
                                         ( 井上 靖「昨日と明日の間」)


客殿から宸殿(本堂)にまわる。

後白河法皇より始められた宮中御懴法講(声明による法要)今に伝える道場である。

本尊は伝教大師最澄作と伝えられる薬師如来立像であるが、秘仏のため厨子に納められている。

厨子に手を合わせ、その後,厨子を背にし、立木の中に佇む往生極楽院阿弥陀堂を眺める。

そこは有清園と呼ばれる庭で、青々した杉苔が一面に広がる。

杉や檜が立ち並ぶ中に、入母屋造杮葺きの、井上靖が「東洋の宝石箱」と讃えた往生極楽院阿弥陀堂が

建つ、優美な庭である。

往生極楽院阿弥陀堂は、もとは極楽院と称する浄土念仏のための寺であったが、維新後三千院に併合され

たものだ。

寺伝では寛和2年(986)恵心僧都源信が、父母の菩提のため姉の安養尼と共に建立したと伝えられる。

しかし、最近では久安4年(1148)高松中納言実衡の妻・真如房尼が、夫の菩提を弔うために建立したと

考えられている。

宸殿まえから庭に下り、庭を逍遥する。

紅葉時の様な鮮やかさは無いが、人の姿が少ないのが何よりの,幽玄の世界だった。



イメージ 1

                              有清園



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                             有清園
往生極楽院の東側には「細波の瀧」と呼ばれ瀧の石組み、中島を設えた池などを併せ持っている。



イメージ 4

                            往生極楽院阿弥陀堂
入母屋造杮葺き 重文
須弥壇には、堂の大きさに比べて大きな、像高2m近い阿弥陀三尊像(国宝)が並ぶ。
脇侍の勢至・観音菩薩像は共に少し前屈みにひざまずく「大和坐り」で有名だ。




イメージ 5 わらべ地蔵
往生極楽院の前の木立の中に何体か置かれている石造。
寝転んでいたり、立っていたりするなど姿勢は様々、
表情も様々。
長い間に苔に生され、埋もれたりし、毀れたりしたものもある。
今はやりのなごみ系地蔵様の先駆か?



イメージ 6 朱雀門
往生極楽院阿弥陀堂前の先に建っている朱色の門。
今は常時閉じられているが、かっては往生極楽院参道に続く正門。
藤原様式であるが江戸時代再建とのこと。

寂光寺から一旦大原バスセンターに戻り、そこから反対方向に、三千院の標識を頼りに15分ほどあるい

た。

観光客目当ての土産物店(流石に漬物関係が多かった)や食べ物屋が並ぶ。

呂川に沿う山道を登っていくと、やがて城郭と思うほどの豪壮な石垣が見えた。

そこが三千院であった。

堂々たる御殿門から入り、順路指示に従い客殿、宸殿(本堂)、境内を拝観する。

三千院の歴史は複雑で一言では言い表せない。

前段として、大原は第三代天台座主・慈覚大師円仁が唐からもたらした声明(ショウミョウ)発祥の地だったこと

を知る。

大原は、平安時代の中期以降、俗化した叡山を離れた念仏聖が修行する隠棲する里であった。

そこに寂源が開いた天台声明の道場・勝林院(下院)と、天台声明を発展させた良忍が開いた来迎院(上院)

とを中心に多くの坊院ができ、それらは魚山大原寺(ギョザンタイゲンジ)と称された。

叡山はそれらを統括する為、ここに政所が置いた。

やがて、それを門跡寺院の一つである梶井門跡(梨本門跡、梶井宮とも言われた)が統括するようになっ

た。

政所、門跡、この流を持つ三千院が、豪壮な石垣や御殿門、案内された客殿、宸殿の存在に理解できる。

なお、声明とはインドで始まった学問の一つであるが、仏を讃える歌謡や経を読む音律として広がり、仏

教のほか民謡、今様、浄瑠璃、謡曲などの日本音楽にも大きな影響を及ぼした。


イメージ 1 「女ひとり」の歌碑
三千院に向かう途中の土産物店の軒下に建っていた。
永六輔作詞、いずみたく作曲の「女ひとり」は
昭和41年発表された。
京都 大原 三千院 
恋に疲れた女がひとり
結城に 塩瀬の素描の帯で
池の水面に ゆれていた
京都 大原 三千院
恋に疲れた女がひとり




イメージ 2 イメージ 3
                           土産物店・食事所


イメージ 4 標柱
標柱には「梶井 三千院門跡」と彫ってあった。



イメージ 5 御殿門
この辺りを支配する政所、と高い寺格をもつ宮門跡寺院を併せ持つ寺院の威光が伝わる。



イメージ 6 客殿玄関
平安時代、龍禅院と呼ばれ、大原寺の政所があった。
豊臣秀吉が禁裏修復の余材をもって修築した。
客殿に面して聚碧園がある。



イメージ 7 坪庭
建物と建物の間の僅かな空間にも趣のある庭が造られていた。



イメージ 8

                                  聚碧園
客殿からの池泉鑑賞式庭園で、江戸時代の茶人・金森宗和の修築と伝えられる。
小さな瀧の流れ、二段の池、築山からなり、築山越しに(もう一つの庭園)有清園の木立や往生極楽院阿弥陀堂を望む。

西に紫雲たなびき 異香室にみち 音楽そらに聞こゆ かぎりある御事なれば

建久二年(1191)きさらぎの中旬に 一期遂におはらせ給ひぬ」 (「平家物語」灌頂巻 女院死去)

寂光院の西隣に建礼門院徳子が埋葬された「大原西陵(オオハラニシノミササギ)」があった。

緩やかな石段を上ると寂光院を見下ろすような位置に御陵があった。

何処の御陵でも同じだが、正面に鳥居があり、石の垣根で囲まれ立ち入りが出来ないようになっている。

垣根越しに覗いて見えるものは、土塚の上に五輪塔が建つものであった。

なお、建礼門院の死去した年と場所について諸説ある。

冒頭に記載した「平家物語」の一節は、

    覚一本を底本とするテキストからのものであるが、

    長門本では、「貞応二年(1223)春の比、寂光院にて」とあり、

    延慶本では、「貞応二年 春の晩 法性寺なるところ」、

    源平盛衰記では「貞応三年(1224)春の比、寂光院にて」、

    歴代皇紀には「建保元年(1213)十二月十三日」とある。

現在では、建保元年(1213)とする説が一般的だが、毎年2月1日宮内庁の職員が訪れ、建礼門院の御逝晨日

祭典を執り行っている、と聞いた。


イメージ 1 大原西陵入口



イメージ 2 大原西陵

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