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山名宗全旧蹟から少し北に進むと寺之内通りに面して妙蓮寺があった。 山号を卯木山と号する日蓮宗の本山で、日蓮上人の孫弟子日像上人を開基とする寺であった。 番所を左右の袖にもつ山門をくぐると、道を塞ぐような位置に鐘楼が建っている。 境内を眺めると、左先に本堂が建ち、山門から真直ぐ北の先には庫裏が建っている。 全く人影はない。本堂前で遥拝し、庫裏を訪れた。 方丈や庭園、収蔵庫を拝観するつもりだったが、予約していなかったのがまずかったのか、人は出てこな い。ここら辺りが観光寺院とは違うところだ。 諦めて、赤穂義士の遺髪墓や東映の俳優・月形龍之介の句碑があるという霊園にむかった。 東北隅にある霊園で、散々探し回っても見つけられないのでここでも諦めて、帰りかけたら外出から帰っ てきたらしい坊さんに出会った。 訳を言うと場所を案内していただくと共に説明をいただいた。 妙蓮寺は、永仁2年(1294)造酒屋の柳屋仲興(ヤナギヤナカオキ)が日像上人に帰依して五条西洞院の邸を寺に改 め、「柳寺」と称したのが起こりである。 応永年間(1420年頃)に日存、日道、日隆、日慶らが大宮通り四条下るに伽藍を移築造営し、妙蓮寺と改め た。 しかし、その後も他の法華宗(日蓮宗)の寺院と同様度々移転した。 天文5年(1536)天文法華の乱では堺に逃れている。 天文11年(1542)京に戻り大宮西北小路に復興したが、天正15年(1587)豊臣秀吉の聚楽第造営の時現在地に 移された。 現在の主な建物は天明8年(1788)の天明の大火後に再建されたものである。 南に面して建つ。 文政元年(1818)建立 御所より移築 左右両袖番所付 門の奥に覗いて見える建物は鐘楼 元和3年(1617)建立 袴腰付 天明の大火に残ったもの 寛政元年(1789)敦賀本妙寺の祖師堂を移築 前方(南側)の拝殿は寛政4年(1792)建立 本堂に向かって右前に植えられている桜 不思議なことに花を多く付けていた。 側の説明板は次のように記されていた。 「日蓮大聖人が御入滅された10月13日前後から咲き始め、翌4月8日のお釈迦様御誕生のころに満開となるめずらしい桜。 日蓮大聖人が御入滅になられた時、開花したという言い伝えのある桜です」 赤穂義士47名は主君・浅野長矩の仇を討つため吉良邸に討ち入り吉良上野介を打ち取ったが、罪により切腹した。 その46名の遺髪を同士であった寺坂吉右衛門が赤穂城下への帰路道中、京伏見に住む片岡源五右衛門の姉宅に立ち寄り、当時の事情により遺髪を託した。 その遺髪は、主君の三回忌に当たる元禄17年(1704)2月、この姉が施主となり菩提寺である当山に墓を建立し納められた。 以降300年の風雪により損傷甚だしいため、当山により平成14年(2002)2月再建された。 旧墓石と全く同じく刻まれているとのことだが、2名の戒名は一般に知られているものと若干字が違うとのこと。 尚、旧墓石は収蔵庫に見ることができるそうだ。 旧墓石を建てた片岡家の墓が「赤穂義士遺髪墓」相当離れた所に建っていた。 月形龍之介(1902〜1970)は東映の俳優。 本名門田潔人(モンデンキヨト) 門田家の墓域内に置かれてあった。 「軒忍 はづして雨に うたせけり」 と刻まれていた。 |
京洛逍遥
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寺之内から堀川通りの西側に渡った。 この辺りから西一帯は西陣と呼ばれる。 堀川通りをうろうろしていたら、「山名宗全宅跡」の標柱が建っていた。 側にこのあたりの案内地図があったので見るとこの辺りに山名宗全の邸宅があったようだ。 標柱前の細い道を西に向かうと民家と民家の間にはさまれて「山名宗全旧跡」の碑が建っていた。 碑の側の説明板によると、 山名宗全は応永11年(1404)但馬(タジマ)国出石(イズシ)に生まれ、名を持豊と言った。 後に出家して宗全と称したが、赤ら顔であったので「赤入道」とも呼ばれた。 但馬をはじめ12か国の守護職を兼ね、当時は全国は60余州あったことから「六分の一殿」とも呼ばれた。 子供がいなかった室町幕府8代将軍・足利義政は弟・義視(ヨシミ)を後嗣にしようとしたが、その後義政の夫 人・日野富子に義尚(ヨシヒサ)が生まれたため、将軍職をめぐる後継者争いが起こり、守護大名のお家騒動も 絡み合い「応仁の乱」へと発展した。 義尚を擁する宗全は、この邸宅を本陣として、室町今出川の「花の御所(足利家の住宅・室町幕府)」に陣 を置く義視方の細川勝元と東西に分かれて11年間に及ぶ戦いを繰り広げた。 このため京の町の大半は焦土化した。 この情景を詠んだ歌に次のようなものがある。 「なれや知る 都は野辺の 夕雲雀 あがるを見ても 落つる涙は」 飯尾彦六左衛門尉 この地にあった山名家代々の邸宅も焼失し、宗全は文明5年(1473)陣中で没した。 この辺り一帯を「西陣」と呼ぶのは、山名宗全率いる西軍が陣を置いたことによる。 なお、宗全の墓は南禅寺の真乗院にある。 「山名宗全旧跡」碑 応仁の乱勃発の地、御料神社 : 応仁の乱勃発地の碑 「花の御所跡に建つ尼門跡寺院・大聖寺 : 「室町第址」標柱 「花の御所」碑 皇室ゆかりの人形の寺・宝鏡寺 : 百々橋の礎石
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三時知恩寺を出て、同志社大新町校舎に沿って北に向い、上立売通りで左(西)に折れ、一本目の細い道 (新町通り)を北進すると、左(西)側に「光照院」という浄土宗の尼門跡寺院があった。 門前には「持明院仙洞御所跡」の標柱が建つ。 ここには北朝方の上皇が御所とした持明院(藤原基頼が邸内に安楽光院と呼ばれる持仏堂を創設し、 持明院と名付けた。文和2年/正平8年 1353 焼失、)があった場所ということだ。 門前の説明板によれば、 「光照院」は延元元年(1356)後伏見天皇の皇女・進子内親王が室町一条北に、天台・禅・律・浄土兼学の 道場として創建した。 応仁の乱後、現在地に移転した。 この地にもと持明院殿殿の持仏堂・安楽光院が建っていたため一時「安楽光院」と称した。 開山以来、代々皇女が法系を継ぎ、寛政元年(1789)光格天皇より「常盤御所」の称号を賜った。 その名にふさわしく代々の宮お手植えの五葉の松が書院の庭に繁りあっているのも類をみない美しさであ る、とあった。 しかし、非公開であるため、門前から本堂らしき建物に遥拝して過ぎた。 光照院門跡門前 門前に建つ |
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今出川通りから新町通りを北に上ると同志社大学新町校舎に出会う。 その東向かいに三時知恩寺が建っていた。 14世紀半ばの室町時代、後光厳天皇の皇女・見子(ケンシ)内親王が創建した浄土宗の尼門跡寺院である。 叔父・崇光天皇の旧御所「入江殿(イリエドノ)を寺院に改め、宮中に安置されていた唐の善導大師像を祀っ たことから、「入江御所」とも呼ばれた。 足利第三代将軍義満の娘・覚窓性仙尼(カクショウセンニ)が入寺「知恩寺」と号した。 篤く浄土宗に帰依し、宮中で善導大師の六時礼讃を務められた後柏原天皇(在位1500〜1526)により、 昼の三回(三時)は当寺で勤修するようになったことから、寺号を「三時知恩寺」に改めたとされる。 以後皇女や摂家の息女の入寺が明治維新まで続いた。 特に五摂家筆頭の近衛家と関わりが深いじいとされる。 天明8年(1788)の大火で堂宇が焼失し、現在の本堂はその後の再建時に大徳寺山内の学問所を移築、書院 は、桃園天皇の女御・恭礼門院の御殿を賜ったものという。 京の冬の旅ー非公開文化財特別公開の一環として1月10〜3月18日の期間、一般公開していた。 本堂では秘仏の善導大師像(文禄5年作)、狩野永納の「花鳥図屏風」、書院では「源氏物語」図の扇面を 貼り付けた襖絵、円山応挙の「えり魚図」の襖絵、蓬莱の庭といわれる枯山水庭園などを拝観できた。 蓬莱の庭 |
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地下鉄「今出川」の出口から今出川通りを西に歩く。 最初に室町通りと交差する。その東北角(美容院の角)に「従是東北 足利将軍 室町第址」と刻ま れた石標が建っていた。 すなはち、南は今出川通り、北は上立売通り、東は烏丸通り、西は室町通りに囲まれた地域に、「花の御 所」とも呼ばれた、足利第三代将軍・義満が造営した「室町殿」があったのだ。 その室町第址と言われる区域の一画に大聖寺(ダイショウジ)があった。 白壁の塀をめぐらせて、格式高く凛と建つ。 大聖寺は山号を「岳松山」と号する臨済宗の尼門跡寺院である。 光厳天皇の典侍(テンジュ)であった日野宜子は、義満によって、室町殿に迎えられた。 没後住まいの岡松殿は寺に改められ、宜子の法名「大聖寺殿無相定円禅定尼」に因んで大聖寺とされた。 開基は宜子の姪・玉厳悟心尼。 室町時代から江戸時代末期まで内親王が入寺した。 16世紀後半、正親町天皇の皇女が入寺の際には「尼門跡第一位」の綸旨を受け尼衆の触頭(フレガシラ)とな った。 開基の後は、移転を繰り返したが、元禄9年(1696)岡松殿址である現在地に戻り、現在に至っている。 普段は非公開であるが、今年は3月1日から18日の間、27年ぶりの公開をしている。 本堂「貴人の間」の障壁画、「宮御殿」とも呼ばれる書院襖絵、歴代皇女の遺愛の御所人形や枯山水の庭 園などを拝観したが、内部は写真撮影禁止だったのは残念だった。 正門から玄関までの様子だけを撮った。 「従是東北 足利将軍 室町第址」と刻まれていた 大聖寺は華道、煎茶道の家元である。 向かって左柱に 「華道 岳松御流 煎茶道 永皎(エイコウ)流」の表札がかかっていた。 塀越しに、昭和18年(1943)東京青山御所より大正天皇の后・貞明皇后の御殿を移築した本堂の屋根が見える。 北側の外壁が煉瓦色の建物は同志社大学寒梅館。 正門から入って右手、築地塀際に建っていた。 足利義満が天授4年(永和4年 1378)に造営始めた邸宅は邸内には鴨川から水が引かれ、各地の大名から献上された四季折々の花木を配されたことから「花の御所」と呼ばれた。 しかし、応仁の乱で全焼し、九代将軍義尚(ヨシヒサ)が文明11年(1479)再建したが翌年に焼失した。 左の塀際に建つ 阿弥陀如来をあらわす阿字石に第27世門主花山院慈薫尼の歌 「九品佛 慈悲の眼の変らねば いづれの御手に 吾はすがらむ」 が刻まれている 補 足 今日、足利氏による幕府は「室町幕府」とよばれているが、足利将軍の本拠は、常に室町の「花の御所」にあったわけでない。
歴代の将軍の屋敷が幕府とされたのである。 足利尊氏は二条高倉に、二代将軍義詮(ヨシアキラ)は三条坊門に屋敷を構えた。 四代将軍義持は父・義満の没後に義詮時代の三条坊門に移っている。 六代将軍義教や八代将軍義政は本拠を「花の御所」に戻している。 しかし、応仁の乱で「花の御所」が焼失し、九代将軍義尚(ヨシヒサ)が文明11年(1479)再建したものの翌年焼失した。 義尚没後将軍職をめぐる足利家の内紛が盛んになり、将軍の屋敷は京都を転々と彷徨った。 |



