|
15時頃、京都四条橋にくると、西南詰になスパニッシュ・バロック風の趣のある洋館が目に入った。 よく見ると、「北京料理・東華菜館」の看板が出ているので中華料理店らしい。 中に入ってみると、まだ店は準備中とのことだったので、内部を少し覗かせてもらった。 聞けば、前身は西洋料理店「矢尾政」の2代目オーナー浅井安次郎がウィリアム・メレル・ヴォーリズ(18 80〜1964)に設計依頼し、大正15年(昭和元年 1926)完成させたものだ。 戦後、所有者が変り、北京料理の店になっているとの事だった。 東華菜館 鴨川沿い、四条大橋西南詰に建つ。 東華菜館入口上方部 1924年アメリカ・OTIS製 現存する日本最古のエレベーターとか 蛇腹式内扉、時計針式のフロアインディケターなどで、 昇降は運転手にによる手動式 |
京洛逍遥
[ リスト | 詳細 ]
|
奥社奉拝殿から再び、内拝殿前まで戻ってきた。 ふと向かって右手(南側)は、人の姿が無く鈴かな雰囲気だった。 そこには奥から、神輿庫、神饌所、神楽殿と並んでいた。 更に一段下がった所に御茶屋(重文、非公開)、松の下屋があり、ちょうど外拝殿、楼門の南側に東丸神 社・荷田春満(カダノアズママル)旧宅があった。 東丸神社は、一見、伏見稲荷大社の境内社のように見えるが、れっきとした独立の神社であった。 神饌所前庭に置かれていた 稲穂舞 早苗挿す 舞の仕草の 左手右手 誓子 と刻む。 17世紀初めの建物とされる。 重文 寛永18年(1694)禁中非蔵人として出仕していた羽倉延次が後水尾上皇から拝領し、仙洞御所より移築したもの。 お茶屋は非公開なので門より中を覗く。 お茶屋に隣接する松の下屋の玄関に続いていた。 江戸時代中期の国学者・荷田春満の旧宅と、隣接して荷田春満を祭神とする東丸神社があった。 荷田春満(カダノアズママロ 1669〜1736)は稲荷神社の神官で、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、と共に国学の四大人の一人とされる国学者。 旧宅は荷田春満が生まれ、育った邸宅。 東丸神社は、荷田春満が学問の神として祀られており、勉強向上、受験合格祈願の絵馬と共に折鶴が多く奉納されていた。 なお、伏見稲荷大社とは別の独立した神社である。 |
|
風土記に曰はく、伊奈利と云うは、秦中家忌寸等が遠つ親、伊呂具の秦の公、稲梁を積みて富み 裕ひき。 乃ち餅を用いて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峰に居り、 稲成り生ひき、遂に社の名と為しき。 (「山城国風土記」の逸文) 延喜式神名帳頭註」や「山城風土記」逸文などによれば、和銅4年(711)2月初午の日、稲荷山の3つの峰に 鎮座した。 渡来系の氏族である秦中家忌寸(ハタノナカツイヘノイミキ)の遠祖である秦伊呂具(ハタノイログ)は富栄えており多くの稲 米を貯えていたが、餅で的を造って矢で射たところ、餅は 白鳥となって飛び立ち、山の峰に降りてとど まった。 そこに稲が生えたので、伊奈利(イナリ)という社名になった、とある。 内拝殿で参拝した後、山の中腹、奥社奉拝所までいってみた。 朱に彩られた境内は、活気あふれる外国人の参拝客と高校生らしい一団で、とにかく明るかった。 この先、ここから神奈備(カンナビ)である稲荷山(233)を巡拝する「お山巡り」コースがあるが、今回は見 送った。 表参道北側脇に鎮座していた 向って左から、熊野社、藤尾社、霊魂社 熊野社と藤尾社は重文
寛永12年(1635)建立、五間社流造り、重文
向って左から 長者社 荷田社 五社相殿社 両宮社 何れも重文 祭神:玉山稲荷大神 明治8年(1875)建立 東山天皇が宮中にて奉祀されていた稲荷社を崩御後、天皇にお仕えしていた松尾読売神社の社家・松室重興が預かった。 明治7年(1874)当社に遷座された。 白狐社、奥宮の前の石段の両側に坐す狐像には朱色の覆屋が付けられていた。 伏見稲荷大社の狐は稲荷大神の使いの霊狐である。 我々の願いを稲荷大神に伝えてくれる信じられている。 祭神;命婦専女神(ミョウブトウメノカミ) 寛永年間(1624〜1644) 重文 古くは「奥之命婦」、「命婦社」とも称され、 元禄7年(1694)までは現在の玉山稲荷社あたりに祀られていた。 祭神:稲荷大神 天正年間(1573〜1592)建立、元禄7年(1694)修復、重文 社殿は本殿と同様の流造り建てられ。摂社、末社でもなく、稲荷大神を祀ることから、他の境内社とは別格の社。 千本鳥居 奥宮横から奥社奉拝所までぎっしりと朱色の鳥居が並び、まるでトンネルのようだ。 祈願と感謝の証として、奉納されたもので、鳥居には「願いが通る、通った」という意味がこめられているとか。 鳥居を奉納するという習慣は江戸時代以降に広がったもので、確かに江戸時代初めの絵図には千本鳥居を思わせるものはない。 現在、境内に建つ鳥居は約10,000基あるとのこと。 ここは、外国人にの人気スポットとなっている アメリカ映画「SAYURI」(2005年)の中で、女の子が千本鳥居の中を走って行くシーンがあり、それが非常に印象的であるそうだ。残念ながら はこの映画を見ていない。お山・奥社を遥拝する。 時間があれば、ここから神奈備(カンナビ)である稲荷山(233)を巡拝する「お山巡り」をするのだが・・・。 |
|
緑の石山寺を参拝した後、伏見稲荷大社へいった。 IR奈良線と並走する京阪線の西側の駐車場に車を入れ、京阪伏見伏見稲荷駅から神社に伸びる参詣道「神 幸道」を歩く。 土産物屋が両脇に軒を連ね、参拝客でにぎわっていた。 昭和12年(1937)伏見に滞在した坂口安吾(1905〜1955)は、ここの事を「古都」で、次の様に記している。 「伏見稲荷は稲荷の本家本元だから、ふだんの日でも相当に参詣者はある。京阪電車の稲荷駅から 神社までは、参詣者相手の店が並び、特色のあるものと言えば伏見人形、それに鶏肉の料理店が 大部分を占めている。」 その頃の雰囲気は大きくは変わっていないかもしれない、しかし確実に言えることは、参詣客の話す言葉 は外国語と大きく違っていた。 兎に角、外国人が多いのだ。 修学旅行か遠足かで来ている制服姿の高校生たちを見なかったら、外国へ来たかと錯覚したかもしれな い。 やがて、楼門の前に来た。この辺りから朱色の世界だった。 朱色は、古代から魔力に対抗し、生命力を象徴する色とされてきた。 他所より明るい、鮮やかな朱色は稲荷塗の朱色は 、稲荷大神の神威を表す色として、境内の多くの社殿 や鳥居にぬられている。 一の鳥居、二の鳥居が建つ表参道に面にして、楼門、外拝殿、内拝殿本殿がほぼ一直線に並んでいた。 両脇に店が軒を連ね、外国の来訪者が多かった。 JR稲荷駅前から楼門前の幅広い道・表参道は神幸道とは対照的に人の姿は少なかった。 楼 門 天正17年(1589)豊臣秀吉の寄進。神社の楼門としては最大規模 両翼の回廊を含め重文 楼門の前には、霊狐が宝珠あるいは稲蔵の鍵をくわえて見守っていた。 随 身 重文 内拝殿 奥(東)の本殿には稲荷大神が祀られている。 稲荷大神は、宇迦之御魂大神(ミカノミタマノオオカミ)を主神とし、佐田彦大神、大宮能売大神(オオミヤノメノオオカミ)、 田中大神、四大神(シノオオカミ)の五柱の神様の総称である。 本殿・内拝殿 本殿は明応8年(1499)再建、檜皮葺、五間社流造りで「稲荷造り」とも呼ばれる。 本殿前で神主が祝詞を奏上していた。 稲荷大神は五穀豊穣をもたらす農耕神に始まり、一家繁栄、商売繁盛など招福の神である。 |
|
人出の多い新京極通りを南に下っていると、東側に西に面して錦天満宮が鎮座していた。 そこからは西に向っては錦小路通りが延びており、高倉通りまで約400mがいわゆる「ニシキ」と呼ばれる 錦市場となっている。 狭い境内の錦天満宮には、受験シーズンということもあってか若い人多く参拝に来ていた。 社殿に向ってお参りする人、おみくじを広げる人、お守りを求める人など、お馴染みの風景が見られた。 また、京の台所と言われ、京料理の食材はここでほぼ揃うと言われている錦市場にも観光客が多かった。 元々道幅の狭い通りに、商品を出している為、実質的な道幅3m程度しかない。 見て回るだけだったが、商店の人々の活気がビシビシ感じられた。 祭神:菅原道真 御利益:知恵、学問、商才、招福、災難厄除け 11世紀初頭菅原院に創建されたのが始まり。 その後、六条河原院に移り歓喜寺の鎮守社となった。 天正年間(1573〜1592)豊臣秀吉の命により現在地に移った。 明治5年(18729の神仏分離令によって独立し現在に至っている 境内の真ん中にあった泉 三十数mの地下から汲み上げていると言う 先端が両側の建物の壁に食い込んでいる。 鳥居は昭和10年(1935)に建てられた。 その後両側に建物がビルが建てられた為、このようになった。 近年は新京極商店街、寺町京極商店街と供に、観光客や修学旅行生が訪れる観光名所となった。 |
はこの映画を見ていない。


