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新京極通りをさらに南に歩いていると、東側に善長寺と言う寺があり、門前には「くさよけ 立江地蔵菩 薩」と刻まれた石標が建っていた。 参道の奥正面に小さな地蔵堂があったのでお参りした。 地蔵堂の扉は閉まっており、地蔵様のお姿を拝見することはできなかった。 参道ー地蔵堂前は、新京極通りからほんの数メートル入っただけなのに、人出の喧噪さは感じられない静 かな場であった。 善長寺は大原山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺である。 本尊は阿弥陀如来だが、「瘡神(クサガミ)さん」と呼ばれているお地蔵様の方が親しまれているようだ。 地蔵像は秘仏で、四国88か所霊場19番札所立江寺の本尊地蔵菩薩の分身と見做され「立江地蔵」ともよば れている。 当寺の地蔵様は無病息災延命の御利益があるとされ、特に、子供の痘瘡平癒(即ち くさよけ)の信仰を集 めているとのこと。 永正年間(1504〜1520)顕興忍想上人により創建。 始は綾小路善長寺町にあったが 天正19年(1591)豊臣秀吉の命により現在地に移った。 洛陽48地蔵巡り第35番札所 |
京洛逍遥
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人出で賑わう新京極通りを南に歩いていると東側に蛸薬師があった。 入ってみると、狭い境内には病気平癒を祈願する参拝者でごった返していた。 通称蛸薬師は永福寺、正しくは瑠璃光山林春院永福寺、という。 本尊は蛸薬師と呼ばれる石像薬師如来である。 この寺には2つの言い伝えがある。 一つは草創に関するもの、もう一つは蛸薬師の名の由来に関するものだ。 養和元年(1181)京都に林秀という深く薬師如来を信仰する富者がいた。 日夜「薬師如来のお姿を1体お与えください」と念じていた。 ある夜、霊夢にて教えられた伝教大師が刻んだ霊石を持ち帰り祀ったのが永福寺の始まりである。 後に、この寺に善光という僧がいた。病気の母の為に蛸を買ったが、それを町の人にとがめられた。 薬師如来に「この難をお助け下さい」と念じたところ、蛸の足は光を放って妙法蓮華経8巻に変わり難局 をのがれ、また母の病も治った。 これは親孝行の僧侶を守った本尊の霊験であるとして、以来「蛸薬師」と呼ばれるようになったと伝え る。 元は二条室町にあったが、天正年間(1573〜1591)秀吉の命で現在地に移されたという。 因みに蛸薬師の名の由来について、二条室町にあった頃、付近に池があったことから、水上(ミナカミ)薬師、 または澤(タク)薬師と呼ばれ、これが訛って蛸薬師となったという説もあるそうだ。 も御本尊様に、ささやかなお願いを幾つかした。新京極通りに面して参道がある。 入口には蛸薬師と記した提灯がいくつか飾られ、赤い旗幟が沢山立てられていた。 京都12薬師霊場 第12番霊場 狭い境内には参拝の善男善女で賑わい、線香の煙が絶え間なく立ち上っていた。。 御本尊石造薬師如来のお姿は良く分からなかったが、縁先には撫でれば病が消えると言う撫で蛸などが置かれていた。 別名 薬師の水 その昔、病に苦しむ人々が竜神水にて体や家の周りを清めるとたちまちのうちに病が消え失せたと言う言い伝えがあり、何時しか弁天様のご神水と呼ばれて人々が家に持ち帰る様になった。 |
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わらわがすみかも他ならず あの石塔こそすみかにてさむらへ。 不思議やなあ、あの石塔は和泉式部の御墓とこそ聞きつるに、そもすみかとは不審なり。 ( 伝世阿弥 謡曲「誓願寺」) 誓願寺から新京極通りを少し南に下ると、見落としそうな小さな寺の表門があった。 中に入ると、境内は思ったより広い。 ここが才色兼備で平安時代の代表的歌人・和泉式部が結んだ庵・誠心院である。 正しくは華嶽山東北寺誠心院(以前「ジョウシンイン」と言ったが前住職の頃から「セイシンイン」と呼ばれている)とい う真言宗泉涌寺派の寺院で、通称「和泉式部寺」の名で知られている。 寺伝によれば、関白藤原道長が娘の彰子(ショウシ 一条天皇中宮)に仕えていた和泉式部の為に、法住寺東北 院内に「小御堂」という一庵を建立し与えたのが当寺の起こりとされる。 当初、御所の東(荒神口の辺り)にあったが、鴨川の氾濫などにより一条小川(上京区)に移転した。 天正年間(1573〜1591)豊臣秀吉の命で現在地に移った。 明治5年(1872)京都府知事の命令で新京極通りがとおされ、現在に至っている。 境内には謡曲「誓願寺」に語られている和泉式部の墓という宝篋院塔があった。 新京極通りに西に面して焦点に挟めれた様に山門がある。 右前には鈴成り輪が置かれており、 通路の内側に和泉式部縁起絵巻の絵の部分のレプリカをパネルにして展示してあった。 門の前に置かれている。 お経を刻んだ石の輪を廻すと功徳が得られるらしい。 「小御堂」とも呼ばれ、本尊阿弥陀如来像、和泉式部像、藤原道長像を安置している。 和泉式部塔 高さ約4m、幅約2.4mの宝篋院塔。 正和2年(1313)改修建立されたものという。 謡曲「誓願寺」に出てくる石塔はこれに当たるのであろう。 背後には阿弥陀如来と25菩薩の石像が並んでいた。 和泉式部縁起絵巻(下巻 五) 山門の通路の内側に和泉式部縁起絵巻の絵の部分のレプリカをパネルにして展示してあった。 和泉式部縁起絵巻は江戸時代に作られ、上下の二巻からなる。 上巻は和泉式部が京を旅立つ場面から往生するまでの7場面、下巻は一遍上人へのお告げから和泉式部が歌舞の菩薩となって来迎するまでの6場面を描いている。図は冒頭に記した場面、和泉式部の塔が描かれている。 |
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げにも妙なる称名の数々 空に響くは音楽の声 異香薫じて花降る雪の 袖を返すや返す返すも 尊き上人の利益かなと 菩薩聖衆は面々に 御堂に打てる六字の額を 皆一同に礼し給ふは あらたなりける奇瑞かな (伝世阿弥 謡曲「誓願寺」) 三条通りから南に折れると新京極通りの北端辺りに「ろっくんプラザ」という小さな広場があった。 その東側で西に面して誓願寺が建っていた。 浄土宗西山深草派の総本山である。 平安時代、清少納言や和泉式部が晩年、当寺に参籠し往生したと伝えられる。 (和泉式部の庵がすぐ南の「誠心院」であり、その境内に和泉式部の墓と言われる石塔がある。) 特に和泉式部については、詳しい。 娘の小式部内侍に先立たれた和泉式部は、この世の無常を感じ、女人往生の術を求めて、播州書写山円教 寺の性空上人を訪ねた。 ところが、性空上人に「京都八幡山の大菩薩に祈るべし」と言われる。 そこで、石清水八幡宮で参って祈ると、夢に老僧が現れ「誓願寺で祈るべし」と告げられる。 そこで、誓願寺で48日のお籠りしたところ、霊夢に老尼が現れ、「女人の身でも南無阿弥陀仏と一心にお 唱えすれば身の穢れは消えて往生できる」と教えをうけた。 その後、和泉式部は尼となって庵(誠心院)を結び、誓願寺へ参る以外は念仏三昧の日々を送り、その甲斐 あって二十五菩薩にむかえられ弥陀の浄土へ往生した。 ところが、謡曲「誓願寺」ではその後日談として、和泉式部と一遍上人が誓願寺の縁起を物語られる。 殊に、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから、舞踊家の間に和泉式部信仰が生まれ、能楽など芸 能世界の人々の信仰を集めている寺である。 また、16世紀から17世紀の人で、「醒酔笑」8巻を著し、落語の祖と言われている安楽庵策伝上人は当寺 の住職であった。 創建は7世紀に遡る。天智天皇が霊夢により賢門子・芥子国父子に丈六の阿弥陀如来像を造らせ、 天智天皇6年(667)奈良に七堂伽藍の寺院を建立し誓願寺と名付けたのが始まりである。 その後遷都ともに移り、平安遷都では一条小川(現上京区元誓願寺通小川西入る)に移った。 しかし、天正19年(1591)豊臣秀吉の命で現在地に移った。 当寺は兵火などによる焼失と再建を繰り返してきた。 さらに明治維新後新京極造成の為大幅に寺地が削られ現在に至っている。 向って左側に「迷子のみししるべ」の石柱が建っている。 現在のものは明治15年(1882)建立されたもの。 昭和39年再建 鉄筋コンクリート造 正面須弥壇に本尊丈六の阿弥陀如来坐像、、 右隣の壇に観音菩薩像を安置している。 また内陣と外陣の境界に「南無阿弥陀仏」の六字名号の額が掲げてあった。 正面奥の須弥壇に安置されている。 元石清水八幡宮で、八幡神の本地仏として安置されていたものを神仏分離で、明治2年(1869)当寺に移ったもの。 定朝様の寄木造りの丈六の阿弥陀如来坐像 鎌倉時代から南北朝時代の作とみられる。 本堂正面の両側の壁には、芸道上達・書芸成就祈願の扇子が奉納してあった。 本堂左前に建っていた。 本堂左横前にあった。 謡曲「誓願寺」 作:伝世阿弥 一遍上人が熊野権現に参籠し、「摩牟阿弥陀仏 決定(ケツジョウ)往生六十万人」のお札を弘めとの霊夢をみる。 都に上り、念仏の大道場、誓願寺でお札を配っていると、一人の女性がお札の言葉を見て、「六十万人より外は往生できないでしょうか」問う。 上人は、「これは霊夢の六字名号一遍法、十界依正(エショウ)一遍体、万行離念一遍証、人中上々妙好華の四句の上の字をとったものであり、”南無阿弥陀仏”とさえ唱えれば誰でもが必ず往生できる」と説く。 すると女性は有り難り、「本堂の『誓願寺』の字額に替え、上人の手で『南無阿弥陀仏』の六字の名号をお書きください。これは御本尊阿弥陀如来のお告げです。私はあの石塔に住む者です」と、近くの和泉式部のお墓に姿を消す。 一遍上人が「南無阿弥陀仏」の名号を書いて本堂に掲げたところ、どこからともなく良い香がし、花が降り、快い音楽が聞こえ、瑞雲に立たれた阿弥陀如来と二十五菩薩と共に歌舞の菩薩となった和泉式部が現れる。 誓願寺が天智天皇の勅願によって創建された縁起が語られ、阿弥陀如来が西方浄土より誓願寺に来迎された模様などを描く荘厳優美な舞が舞われ、最後は菩薩・聖衆(ショウジュウ)みな一同に本堂の六字の額に合掌礼拝するのであった。 |
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随分時間をかけて京都御苑内を歩き回った。 この後、高倉通りをぶらぶら南に下る。 途中御所八幡宮以外これと言ったものはない。 風情のある築地塀にぽっかり崩して、壁に張り付くような駐車場にして車を止めている光景をみる。 どこでもいっしょだが町の中で駐車場を確保に苦労しているようだった。 やがて三条通りにでた。 西南角に、辰野金吾らが設計したという煉瓦造りの府立京都文化博物館別館(旧日銀京都支店) が建っていた。 三条通りには、歴史的な近代建物がいくつかあると聞いていたのを思い出し、それを探しながら寺町通り まで歩いた。 犬矢来が置かれた築地塀に設けられた車庫 駐車場所に苦労しているようだ。 御池通高倉通り交差点南東角 祭神:応神天皇、神功皇后、比売(ヒメ)神 室町幕府初代将軍足利尊氏が邸内に鎮守神として勧請したことに始まる。 尊氏の法名によって等持寺八幡とも、現在の地名から高倉八幡とも呼ばれ親しまれてきた。 元は御池堺町西南角の御所八幡町にあったが、太平洋戦争中御池通りの強制疎開によってこの地に移された。 安産と幼児の守り神として有名で、左京区上高野三宅の三宅八幡と並んで「虫八幡」と呼ばれ世間の振興を集めている。 三条通高倉通り交差点北西角に建つ 辰野金吾・片岡安(辰野の弟)が設計 煉瓦造桟瓦葺寄棟造り地上2階地下1階建 重要文化財 明治39年(1906)竣工昭和40年まで日銀京都支店(当初は京都出張所)として使用。 昭和63年(1988)京都文化博物館別館として公開 柳馬通り交差点北西角に建つ 辰野金吾・片岡安(辰野の弟)が設計 登録有形文化財 大正3年(1914)竣工 現在 呉服店となっていた。 富小路(t0ミコウジ)通交差点北西角に建つ 木骨煉瓦造 地上3階地下1階建 登録有形文化財 大正4年(1915)竣工 昭和58年(1983)改築 現在はピチーザードフラワーや手芸などの店が入っていた。 三条通り南側北に面して建つ 木骨煉瓦造り瓦葺2階建 登録有形文化財 明治23年(1890)築の洋風商業建築 京都に現存する民間洋風商業建築としては最古の部類に属する。 三条通り北側南に面したビルの敷地内 弁慶が熱愛したと伝えられる高さ約1mの石 説明によると、 弁慶は幼少の頃三条京極界隈に住んでいた。 死後、奥州高舘辺りにあったが、「三条に往かむ」と発声鳴動した。 享徳3年(1451)三条京極に移し、その後誓願寺方丈に移した。 明治26年(1893)町内有志により弁慶石町に引き取られ、 昭和4年(1929)この場所に建立された。 御幸通り交差点南東角に建つ「旧京都大毎会館」 鉄筋コンクリート造り 3階建て 昭和3年(1928)大阪毎日新聞社京都支局として建設され、平成10年(1998)まで使用された。 現在は、レストラン、ギャラリー、フリースペースなどに使用されている。 |
も御本尊様に、ささやかなお願いを幾つかした。


