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鷹司邸の西側に九條邸跡があった。 九條家は近衛、鷹司、一條、二條と共に五摂家の一つである。 幕末、米総領事ハリスの通商条約締結要請に対し、徳川幕府は了解する考えだったが、朝廷側の孝明天皇 は反対だった。 京都では、幕府と朝廷との様々な交渉が行われ、時の関白・九條尚忠(ヒサタダ)の邸も、その舞台の一つと なった。 広大だった屋敷に、今は、九條池の畔の茶室拾翠亭(シュウスイテイ)と九條邸の鎮守厳島神社が残るばかりだっ た。 九條池の中心を貫く様に高倉橋が架けられており、そこから一望できた。 九條邸跡の西側は、京都御苑の西南端で、閑院宮邸跡でそこにも寄ったが、「京都御苑2」として既投稿なので 今回は略す。
九條邸跡の庭
九條池に架かる高倉橋より撮影九條池の畔に、茶室・拾翠亭、藤棚、四阿(待合)、厳島神社がある。 玄関側 拾翠亭は九條邸の現存する唯一の建物で、江戸時代後期に建てられたものと伝えられる。 四阿側から眺める 建物は全体が数寄屋風書院造で、当時は主に茶会のための離れとしてして使用された。 内部は今も十畳と三畳の2つの室が残されている。 池の畔の縁 亭の前面には東山を借景に取り入れられた勾玉形の池・九條池が広がり、茶室からの景観を一層引き立てている。 陶器の狛犬が載っていた。 守護神のつもりであろうか? 九條家の鎮守、 「池の弁天さん」の名で知られる。 平清盛が母・祇園の女御の為に兵庫築島に社を造り、安芸の厳島神社(祭神:宗像三女神)を勧請した。 室町時代末期12代将軍足利義晴が京に移し、有力者の細川高国の邸内におさめた。 江戸時代中期の明和8年(1771)九條道前(ミキサキ)が自邸内遷座し、祭神として祇園の女御をくわえた。 社殿前の唐破風形の鳥居は、蚕の社の三柱鳥居、北野天満宮境内の伴氏社の鳥居とともに「京三珍鳥居」とされる。 幕末の京都御所周辺図はここをクリック。 |
京洛逍遥
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梅林から更に南に下ると、出水の小川が流れていた。 京都御苑内で一般に公開されている場所で、水が流れているのはここだけだ。 この辺りには桜が多く植えられているので、花の季節になれば見ごたえがあることだろう。 周辺の、賀陽宮邸跡に建つ貽範碑、花山院邸にあった宗像神社、標柱だけの鷹司邸跡と見て回った。 京都御苑内の西南近くに流れる約100mの小川。 琵琶湖疏水の水を導水した「御所水道」の水を利用して、昭和56年(19819造られた小川。 平成4年(1992)御所用水閉鎖に伴い、地下水を循環濾過して流れを維持している。 出水の小川から園路を渡った東側に建つ。 この辺りは賀陽宮邸跡である。 伏見宮邦家親王第四王子朝彦親王は青蓮院門跡、天台座主をつとめたが、孝明天皇の信任厚く、還俗して中川宮と称して天皇を助けた。 その後、邸内の庭にあった榧(カヤ)の巨木に因み賀陽宮と称した。 彼の公武合体策は尊王攘夷派から敵視され、明治維新後広島に移った。 朝彦親王第四王子梨本宮守正王らにより昭和6年(1931)貽範碑が建てられた。 社伝によれば、延暦14年(795)桓武天皇の命により、藤原冬嗣が筑紫より勧請して創建した。 この辺りは、明治維新まで花山院家の邸内で、その邸内にあったが、邸宅が廃された後は神社のみ残った。、 祭神:宗像三女神 (多紀理姫命、市杵島姫命、多岐津姫命) 宗像三女神は別名「道主貴(ドウヌシノムチ)」と言われ、すべて道を司る神の尊称である。 交通運送の神、出産生産産業の神、文化の神として信仰されている。 現在の社殿は安政年間(1854〜1860)に再建されたもの。 境内社としては花山稲荷社、少将井社、繁栄稲荷社、金刀比羅宮および本社があった。 京都観光の振興を願って猿田彦大神が祀られている かっては堺町御門を入って左側に鷹司邸があった。 今は巨木の元に標柱が立つのみであった。 鷹司家は近衛家から分かれた五摂家の一つ。 幕末政通(マサミチ)は30年以上も関白を務め、九條尚忠(ヒサタダ)へ譲った後も、内覧、太閤として朝廷で重要な役割を担った。 また政通の夫人は水戸藩主徳川斉昭の姉である。 元治元年(1864)禁門の変では、長州藩士が邸内に入り、屋敷に放った火は長州藩邸の火とともに、どんどん焼けと称する京都大火につながった。 久坂玄瑞、寺島忠三郎らはここで自刃した。 幕末の京都御所周辺図はここをクリック。 |
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ふたたび京都御苑の北部分に移り、御苑の西側を探索しながら南に下っていた。 手元に京都御苑案内図と共に、幕末の京都御所周辺図と見比べながら、場所を確認していった。 京都御所の北西には五摂家の一つ一條家邸宅跡があり、その名残の縣井があった。 京都御所の西南角には「清水谷家の椋」と呼ばれる大きな木が生えており、公家屋敷のあった名残だ。 続いて桃林、梅林が続き、東側に白雲神社が鎮座していた。 これは、この辺りにあった西園寺家邸宅内の社だったものだ。 なお、解説板によれば、梅林辺りは、藤原道長が次女研子の里邸として整備し、御所の内裏炎上の際は裏 内裏ともなり、寛弘6年(1009)には一条天皇が遷ったとされる琵琶殿跡という。 勿論当時を伝えるものは何もなかった。 五摂家の一つ一條家の敷地内にあった井戸。 一條美子(ハルコ 明治天皇の皇后)の産湯もこの井戸水が使われたという。 昔、この井戸のそばに縣宮という社があり、地方官吏として出世を願う者は、この井戸の水で身を清め祈願し、宮中に上ったという。 大和物語では病気を治す水とも紹介されている。 京都御所の西面は南から宜秋門、清所門、皇后門の3門がある。 京都御所西南辻に生えている椋の巨木。 清水谷家という公家の屋敷が、この辺りにあったことから「清水谷家の椋」と呼ばれている。 元治元年(1864)の禁門ノ変の時、長州尊王攘夷派の一つ・遊撃隊の総督来島又兵衛がこの木付近で討死したと言われている。 一部は咲いていた。 花の少ない時期に彩りを添えていた。 祭神:市杵島姫命(妙音弁財天) この辺りの西園寺家邸にあったが、西園寺家が東京に移った後も残り、明治11年(1878)白雲神社と名を改めた。 西園寺家は琵琶の宗家でもあり、鎌倉時代西園寺公経(キンツネ)が今の金閣寺の地に別荘北山第を造った際、妙音天あるいは妙音弁財天と言われる音楽神を祭る妙音堂を建てたと言われる。 明和6年(1769)現在地に移された。 絵馬殿に掲げてあった絵馬の一つ 明治26年(1893)1月奉納されたもの。 絵柄は消防団の出初式の模様であろうか? |
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京都御所の東北、猿ケ辻から南に広い通りが南に通じている。 西側が京都御所、東側には京都迎賓館を取り囲むように樹木が植えられている。 そこには、和宮の実家・橋本家跡、学習院跡、藤原良房の染殿第跡、道長の土御門第跡と言われる場所が あるが、木々の間に標柱が建っている位で、それを偲ぶ遺構は何もなかった。 案内図 片手に歩いていると、バードウオッチングしている人を多く見かけた。 最後は大宮御所北側から京都御所の南、建礼門前に出た。 京都御所と京都迎賓館の間辺り。 孝明天皇の妹・和宮親子(チカコ)内親王は橋本実久(サネヒサ)の娘・典侍の経子(ツネコ)を母として、弘化3年(1846)橋本家で生まれ、14年間養育された。 橋本家跡の南辺りに学習院跡である。 学習院は、公家、御所に勤める役人たちとその子弟を対象とした学問所で、弘化4年(1847)開設された 学問所の建春門よりのところにサクラマツが生えていた。 松の倒木に山桜が生えているものだ。 もともとはクロマツの樹上10数mのところにヤマザクラが生育していたもの。 平成8年(1996)松が枯れ倒れてしまったが、桜は地上まで根を下ろしていたので今も生育し、春には花を咲かせているという。 京都迎賓館の東側にある古井戸 この辺りは、平安時代前期、臣下として初めて摂政に任じられ、この後摂関政治の礎を築いた藤原良房の染殿第があった場所とされる。 それに因んで染殿井と呼ばれている。 因みに清和天皇が譲位後、ここに移り「清和殿」と称したことから、この近くの御苑の門を「清和殿御」と名付けられている。 清和殿御門の西、藤原道長の邸・土御門第跡辺りから西を望む。 奥(西)に京都御所、左(南)側に大宮御所の築地塀が続く。 京都御所東側にある門 京都御所の正門建礼門の東側にある通用門(穴門)。 (案内図 には表示されていない) 築地塀のくぐり戸のような門は通用門で、穴門とも呼ばれ、御所の周囲に13箇所ある。 ただし、名前がついている通用門は道喜門だけである。 道喜ー川端道喜は、応仁の乱後朝廷が困窮している時から天皇の食事「お朝物」献上し、東京に移るまで約350年間続いたと言われる。 初代道喜は資材を投じて築地塀の修理もしたと言われる。 道喜門は道喜出入りの門であった。 京都御所南側にある門で正門 東側に通用門である道喜門がある。 |
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久しぶりに晴天で寒さが和らいでいるので、行き先を考えず、ぶらりと京都に出てきた。 今NHK大河ドラマでは幕末を舞台にした「花燃ゆ」が放送されている。 ドラマは吉田寅次郎(松陰)が野山獄から出て塾を開くところになっている。 ドラマを見ていて少し違和感を感じる。 その頃の主人公杉文は12歳ごろのはずで、それをはるかに年上の井上真央が演じているからであろう。 そんなことを思いながら幕末舞台となった京都御所まわりを巡ろうと「京都御苑」に足を向けた。 地下鉄「今出川」で下車し、今出川通りに面した今出川御門から御苑にはいった。 美しい御苑を見るなら春以降が良いのだが御苑内の歴史ポイントを探すなら葉が落ちている今が良いかも しれない。 京都御所周辺にあった公家屋敷で最後に残った建物。 京都御苑の北・今出川通りに南面し、他の三方は同志社大のキャンパスとなっている。 冷泉家は歌人として知られる藤原定家の孫・冷泉為相(タメスケ)を祖とする公家で、住宅はは寛政2年(1790)の建物。御文庫には国宝5件、重文47件を含む貴重な典籍が保存されている。 今出川御門から御苑に入ると西側が近衛邸跡である。 近衛家は五摂家の一つ。 今も残る近衛池の西側に大きな屋敷があった。 池の畔には糸桜が植えられている 昔から糸桜の名所であった。 NHK大河ドラマにもなった「篤姫」は安政3年(1856)近衛忠熙の養女として、13代将軍徳川家定に輿入れしている。 なお、五摂家とは近衛家、鷹司家、九条家、一条家、二条家を指す。 今出川御門を入って東側。 築地塀と門のみ残り、建物は二条城本丸に移築保存されている。 幕末には孝明天皇の仮御所になったこともある。 皇女和宮親子(チカコ)内親王はここから江戸に嫁いでいる。 桂宮家は正親町天皇の第一皇子誠仁親王の第六皇子智仁親王を祖とするが、明治時代に断絶した。 因みに智仁親王は別邸桂離宮を造ったことでも知られる。 今出川門から入って突き当りが京都御所である。 京都御所の北東角あたり。 開国派と攘夷派がせめぎ合う幕末さなかの文久3年(1863)5月攘夷派の急先鋒の公家の一人・姉小路公知(キントモ)が殺されたこの辺りと言われる(猿ケ辻の変)。 公家屋敷が並んでいた当時を偲ぶよすがはない。 現場に落ちていた刀から薩摩藩田中新兵衛の下手人と推定され、町奉行所に連行され、取り調べ中自刃した。 死人に口なし。 真相は今日に至るまで解明されていない。 御所の築地塀の折れ曲がった部分の屋根裏の屋根裏に一匹の木造の猿が見られる。 烏帽子をかぶり御幣を担いだこの猿は御所の鬼門を守る日吉山王神社の使いである。 夜になると付近をうろつき、いたずらをした為、金網を張って閉じ込められたと言われている。 ・姉小路公知(キントモ)が暗殺された「猿ケ辻の変」の真相が分からず終いと言うことは、歴史家、小説家の想像を掻き立てた。 ●町田明弘は「幕末中央政局における削平門外の変ーその背景と影響について」(「日本歴史」2007年10月号)で、公知が勝海舟の意見を受け入れて漸進的な通称容認論に傾いていくのを恨んだ滋野井公寿と西四辻公業が黒幕になり、田中新部兵衛を巻き込んで犯行に及んだと推測している。 ●大岡昇平は「姉小路暗殺」で、姉小路ら過激派を忌んでいた孝明天皇の意を察した中川宮(青蓮院宮)が薩摩に行わせたとしている。 ●司馬遼太郎は「猿ケ辻の血闘」で、会津藩が過激派浪士の動きを探るため送り込んだスパイ・大庭恭平が過激派から公武合体派に傾きかけた姉小路公知を「等持院の木造事件」の残党と共におこなった。田中新兵衛ははめられたとしている。 幕末、権大納言中山忠能(タダヤス)の邸跡 忠能の娘・権典侍慶子を母として嘉永5年(1852)祐宮(サチノミヤ 明治天皇)が誕生した。 祐宮はここで4年間養育された。 敷地内には「祐井」がある。 中山邸敷地内にある井戸 側面に「祐井」と刻まれている。 祐宮2歳の夏干天で井戸が涸れたたため、新たに掘られたもの。 幕末の京都御所周辺図はここをクリック。 |


